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第五十九話 涙は乾き、未来を守るために往く - 2

「……異能者とね、戦争になりそうなんだ。

 それがもう大変で。七年前にも奴らと戦いになったけど──その時は、五千万以上の一般人が……二週間で死んだ」


 五千万。二週間。数字と時間の残酷な組み合わせが、ルイの想像力に重くのしかかる。


「血を操る金髪少女な異能者と、亡霊を操るネイビーの髪の異能者の二人。そのたった二人が……」


 "亡霊を操る異能者"。

 その言葉が、ルイとシアの記憶に直撃した。二人は同時に顔を見合わせ、目の中に同じ光景が蘇るのを認めた。


 枯れ木のようにやせ細った青年。ネイビーの髪。人懐っこそうで、その奥に巨大な虚無を湛えた、困ったような笑顔。


『王様! エゼさま!』


 半透明の少年たちの歓声。


『俺……"親友"以外、友達が欲しいと思ったことはないんですが……ルイ君とシアさんは……またお話したいなと思いました。歳が近い人が……いなくて……』

『……それでは……失礼します。いつか……また、会えるといいですね』


 エゼキエル・ファルナスティア。そして、彼が「親友」と呼んだ、もう一人の異能者。その存在が、今、はるか西の地で、一億の命を脅かす戦争の中心にいるというのか。


「名前はリタちゃんと、エゼくんだっけな? どこにも記録がなくて、二人がそう呼び合ってるのしか知らないけど──っ!?」



 シュエンの言葉が突然切れた。片足を立てた姿勢だった彼の体が、バランスを崩すように大きくよろめく。

 琴葉の魔法の毒を受け行動不能になっていたはずの珠桜の手が、地面から伸びて、シュエンの外套の裾を鉄の爪のように掴んでいたのだ。


「……っ!」


 シュエンの息が止まる。倒れているはずの珠桜が、血走った目を開き、シュエンを鋭く睨みつけている。その瞳には、琴葉の魔法による混濁など微塵もなく、澄み切った、かつての最高執行官としての冷徹な輝きだけがあった。

 琴葉の顔にも一瞬、驚愕の色が走った。魔法の制御がそれほど緩んでいたのか? それとも、珠桜の意思が、琴葉の想定をはるかに超えていたのか──


 その思考が完結するよりも早く、次の動きが起こった。

 響哉が動いた。地面から、まるでバネ仕掛けの人形のように滑らかに立ち上がり、一瞬で琴葉の背後に回る。彼女の腕を捕らえ、抵抗の余地を与えず、地面へと叩きつける。

 ゴキン、という鈍く乾いた音。肩関節が無理な方向にねじられ、外れる音だ。琴葉が、押し殺したような短い呻きを漏らす。


「……それもやりすぎだ。お前、琴葉に対して妙に暴力的だよな」呆れた、しかしどこか感嘆を含んだ溜息と共に、ルイは響哉に声を投げかけた。銃口は依然としてシュエンから離さない。

「ルイ君だって、最近は随分と物騒で」ニヤリと笑いながら、響哉はルイが手に持つ銃身を見る。その銀灰色の瞳には、称賛とも皮肉ともつかない、複雑な光が揺れていた。


「……えぇ~。知ってたけど、こっちの人ってこんな野蛮っつーか、人間離れしてるの?」


 シュエンは、ついに両手をゆっくりと上げるジェスチャーをした。完全な降伏の意思表示だ。その額には、痛みと緊張による冷や汗が光っている。彼の目が、三人の異能者を順に、迅速に評価し直している。


 人の体から魔力を抜き、魔法士を無力化するという、少なくとも魔法や今まで遭遇してきた異能者では不可能だった、意味の分からない神業をさらりとやってみせたルイ。

 琴葉がかけたはずの強力な制圧魔法を、なぜか押し破ってみせた珠桜。

 かつての仲間である琴葉に対して、一瞬の躊躇いもなく関節を外すという物理的制圧を加える響哉。


 ここにいる者たちは、彼がこれまで交渉してきた討伐可能な異能者たちとは、明らかに次元が違う。一筋縄ではいかない。下手を打ったときのリスクが、想像以上に大きい。

 シュエンは、銃を突きつけられ、かつ三人の異常性を眼前に示され、ようやく悟ったようだ。ここでは、真摯に、かつ迅速に、自分の目的と切実さを示さねば、次の瞬間には確実に命を落とす、ということを。



 珠桜がゆっくりと、地面に落ちた自らの刀を拾い上げながら立ち上がった。その動きには、さっきまでの無力さは微塵もなく、流れるような、しかし確固たる威圧感があった。刃に付着した血が、月光で黒く光る。

 ほぼ同時に、律灯も起き上がり、彼は放心状態のシアのもとに静かに寄り添った。紫檀色の瞳は依然として警戒を緩めていないが、今はシュエンと最も近くで対峙し、警戒させているルイの代わりとして、シアを守ることに集中している。


「リタ・クレスト。それと、エゼキエル・ファルナスティア。どちらも、イージス・コンコードで指名手配をしていたよ」珠桜の声が、冷たく平然と響く。最高執行官であったことを、もうルイに隠す必要はない。「捕縛しようと向かった執行官は全員返り討ちにされて、結局捕まえられなかったけどね」


 彼は刀身に付いた血を振り落とすようなしぐさをしながら、シュエンを見据える。


「彼らがどうしたって?」

「……その二人が、西の異能者がウジャウジャいる廃墟地帯に領域を作ってたんだけど……それごと一気に皓絳に向かってきてるんだよね」


 異能者がウジャウジャいる廃墟地帯──その言葉で、ルイの脳裏に一瞬で景色が映る。ヴァルケイアだ。ファロンとの死闘、そしてベリースヴェートとの出会いがあったあの場所だ。

 領域といえば、確かにファロンやメイドたちと戦った屋敷やベリースヴェートの領域以外に、もう一つ、暗い霧に包まれた不気味な領域があったはずだ。まさか、それが向かってきているとでもいうのか。


 シュエンは、珠桜の剣のような視線を受け止めながら答える。もはや逃げも隠れもしない、というより、できない。

 彼は、琴葉や珠桜といった戦士や執行者とはまた違った種類の危うさを、この緑髪の青年──ルイから感じ取っていた。

 普通、倫理や人の本質を見定める葛藤がある。珠桜すらも、一撃でトドメを刺していないのはおそらくそのためだ。しかし、このルイという少年には、そうした揺らぎや情などが感じられない。何かブレない軸を持っていて、そして、それに即さないものを、一切のためらいなく排除する──命の選別などという高尚な概念をすっ飛ばして、単純に「邪魔だから消す」という、極めて原始的で危険な思想。

 青年は、逆鱗に触れれば、きっとこのまま眉間を撃ち抜く。そう覚悟を迫られるような迫力があった。


「……つまり?」


 珠桜の問いかけは短く、鋭い。


「あの二人が今まで殺して駒に変えてきた亡霊たちが、全部まとめて皓絳に向かってきてるってこと」


 シュエンの口調が、再び重くのしかかるように沈み込む。これは単なる情報提供ではない。巨大な災厄の波が目前に迫っているという、共有せざるを得ない絶望の通告だ。


「こんくらいの小っちゃい時に、二週間で五千万だよ?」彼は、自分の胸の下あたりを手で示した。「きっと、あの時からもっとたくさん殺して、仲間を作ってきただろうね」


「数億単位」という言葉が、現実味を帯びて脳裏をよぎる。ヴァルケイアで感じたあの不気味な霧の正体が全て亡霊なのだとしたら。


「どうしよう。オレたち、今度こそみんな死んじゃうかもねってことで、お隣さんにヘルプを求めにきたのさ。

 当然、皓絳内での安全は保障する。少なくとも、防衛中にこの場所に手出しすることもない。この場所の情報も、まだ組織の誰にも伝えてはいないよ」


 それは、取引材料としての「砂糖」だ。しかし、ルイはその後に来る「鞭」を予感していた。

 ほんのわずか、一呼吸分の間を置いて、シュエンは付け加えた。口調は変わらない。平然としている。だが、その言葉の一つ一つが、刃物のようにこちら側の喉元へと確実に向けられていく。



「皓絳が負ければ、数億単位の亡霊が、君たちのこの小さな庭に、一斉に襲い掛かるかもしれない。それでいいなら、それでも構わないよ? ホントに、それでいいならね」



 脅しだ。

 しかし、それは空虚な威嚇ではない。現実味を帯びた、確実にこちらへ波及する災厄の予言として、重くのしかかってくる。


「それと……協力しないなら、脅威としてココを先に潰してもいい。全員は入りきらないだろうけど、いくらか移住させちゃおうかな? 数は減っても、生きてさえいればいつか立て直せるから」


「移住」という婉曲な表現が、かえってその提案の本質的な暴力性をむき出しにする。侵略だ。占拠だ。澄幽という最後の聖域の、穢れと破壊だ。


 明白な脅迫。弱みを握った上での、冷笑的な強要。

 ルイは、それに対して言葉で返す代わりに、あえて動作で応答した。銃を握る手の指を、ほんのわずか、しかし確実に動かし、引き金に第一関節をかけた。微かな、しかし金属的な「カチリ」という音が、張り詰めた静寂の中に鋭く響き渡る。ヒュ、と息を呑む音が聞こえ、シュエンの体が、微かに硬直する。額に新たな汗の粒が浮かぶ。

 ──ルイの背中に突き刺さる珠桜と響哉の視線が、さきほどまでの冷たい審判の色から、突然、どこか機嫌の良さそうな、あるいは「やるね」という称賛にも似た柔らかさに変わったのを、皮膚で感じ取る。この異常事態の中で、ルイは内心で苦笑せずにはいられなかった。どうやら、彼らの「譲れない一線」の上で、自分は正しい場所に立っているらしい。



 少しして、珠桜は感情を殺した声で、静かに問うた。


「……魔法士たちは、自分たちが護る者たち以外を今まで徹底的に排除してきた。私たちに援助を求めるということは、それを曲げることになるはずだけど」


 彼の目は、シュエンの表情の最も細かい部分──眉の動き、口元の緊張、目の輝きの変化を捉えようとしている。彼は、この男の本心が、建前の裏にあるのか、それともこの言葉通りなのかを見極めたいのだ。


「その通りさ」


 シュエンは、ため息をつくふりをした。わざとらしいが、その奥にある重荷は本物だ。


「でも、今まで守り続けてきた秩序をこの瞬間に曲げることになったとしても……それだけ、庇護下の民たちを守る覚悟は本物なんだとわかってほしいな」


 彼の目は、琴葉から珠桜、そしてルイへと移る。そこには、妥協の色はない。あるのは、自分の選択の重さを自覚した上での、確固たる決意だけだった。たとえそれが、自分たちの存在意義そのものを否定する行為であっても。


「……」


 珠桜は深い沈黙に沈んだ。彼の視線が、うつむく律灯、緊張したルイとシア、そして響哉に押さえられ無言の琴葉へと、ゆっくりと移っていく。

 澄幽の指導者として、この小さな共同体の全てを背負う者としての重い判断が、彼の眉間に刻まれた。時間はほんの数十秒しか経っていないのに、広場の空気は鉛のように凝縮され、長い審議の末のような重苦しさを帯びている。

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