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第五十八話 再び糸は切れ。傀儡の独り舞 - 2

 珠桜からだ。静かな、しかし圧倒的な殺気が、琴葉の背後からゆっくりと立ち上る。それは怒りではない。かつての最高執行官が、法に背き、守るべき人々を脅かす存在を、一切の情動を排して「対象」と認定する時、ただそこに存在する──「排除」そのものの意思。


「琴葉」


 珠桜の声が響く。慈愛などは一切ない。信頼も、理解も、すべてが懐疑に溶かされ、塗りつぶされた声色。


「いくら君の頼みでも、これは……容認できないよ」


 その言葉は、優しい拒絶ではなかった。それは、はっきりとした線引きだ。琴葉という存在を、味方の枠内に留めておける最後の境界線を、琴葉自身が今、この瞬間に踏み越えようとしていることの、静かで残酷な宣告。彼の許容の範囲が、ここで終わることを示す最終通告。


「駄目……絶対に、この人を殺さないで」


 琴葉の声は、もはや哀願にすら聞こえない。それは、壊れかけの機械が発する、歪んだ断続音だった。



「同胞だからか!? てめえのかつての主たちの一人だからか!?」


 響哉の罵声が、耳朶を打ち、鼓膜を震わせる。一つ一つの言葉が、無数の焼けた針のように琴葉の胸郭内部に突き刺さり、神経を焼き、内臓を掻き回す。最も信頼し、その苛烈さの裏にさえ安心を覚えていた者から、最も避けたい、最も恐れていたレッテルを貼られる痛み。それは、短剣で掌を貫かれる物理的な痛みよりも、はるかに深く、魂を切り裂く。


「違う!! 響哉、お願い!!」


 叫び声は、自分でも認めたくないほどの絶望の色を帯びていた。必死に叫ぶが、珠桜と響哉の力は、微動だにしない。むしろ、琴葉の動揺を感じ取り、その隙を突こうとするかのように、二人の刃への重みは増していく。二人の視線は、琴葉という「障害物」を無視し、その向こうにいる男へと確実に釘付けだ。琴葉の意識が一瞬でも揺らぎ、魔力の集中が途切れる瞬間を、狩人が獲物の足を狙うように、冷徹に狙っている。


(だめだ……言葉では通じない。彼らは、確実に"敵"を殺すことを選んでいる。守るためなら、私が盾になろうとしていることさえ、迂回路でしかない)


 脳裏を、無数の思考と感情の破片が駆け巡る。


 守りたい。殺させたくない。

 信頼を失う。裏切り者と呼ばれる。


 それでも、あの男が死ねば、彼と繋がった無数の命が──



「琴葉様」


 その時、第三の声。

 律灯の声だ。そちらを見ると、彼がこちらの方を見つめていた。紫檀色の瞳が、微かに──危険な、理を歪ませる前の、不気味な煌めきを帯び始めている。異能を使うつもりだ。琴葉自身に向けて。この状況を無理矢理に鎮静化させるために。

 長い時間を共に過ごした律灯は、琴葉の身体の特性も、思考の癖も、全てを知り尽くしている。彼が定義する"理"は、琴葉を縛るのに最も最適な形を取るだろう。物理的に動きを封じられるだけではない。思考そのもの、意思そのものが、彼に従属させられる。抵抗する概念そのものを、根源から否定される恐れさえある。


 今、この瞬間。彼の異能が世界の理を書き換え、この場を「琴葉が意志を持てない状態」に確定させる前に、決断を下すしかなかった。



「……っ、ごめんなさい」



 唇を噛みしめ、歯の間に偽りの血の鉄味が広がる。その謝罪は、仲間であった三人へ向けられると同時に、自らがこれから踏み込む深淵へ向けた、ささやかな訣別の言葉だった。



 ──ふわりと、甘く、どこか腐敗を予感させる芳香が、夜気に混じって漂ってきた。

 それは、かつて「人間制圧用」として魂に叩き込まれた、数百種類の魔法の中の一つ。意識を混濁させ、運動神経を麻痺させる。同族に対し、殺傷を最小限に抑えながら無力化するために設計された、非情な技術だ。


 その途端に、三人の体がほぼ同時に揺れる。

 珠桜の目が、一瞬だけ琴葉を捉える。その深い瞳の奥に、怒りの炎はなかった。あるのは、深い失望の海と、理解しようとするもどうしても届かない、やりきれない悲しみの色だけだった。まるで、大切な弟子が自ら禁忌に手を染めるのを見届ける師匠のように。

 響哉の握力が、ほんの一瞬、ほんのわずかに緩む。その銀灰色の瞳が琴葉を射る。その一瞥には、言葉を超えた問いかけがあった──「てめえ、それでいいのかよ」。獣のような直感で全てを見抜いた彼の、最後の確認。

 律灯は、目をぱちくりと瞬かせ、膝から力が抜ける。彼の瞳の不気味な輝きは、魔法の干渉によりかき消され、ただ茫然とした色に戻っていく。


 ──ドサッ、ドスッ。


 重い音と共に、三人の体が地面に伏した。珠桜は刀を握ったまま倒れ、それまで保っていた完璧な姿勢が崩れる。響哉は短剣を構えた姿勢で膝が折れ、うつむきながら硬直する。律灯はうつ伏せに崩れ落ち、微かに痙攣している。


(……私が、やった)


 その事実が、琴葉自身の胸を貫く。掌を刺す短剣よりも、はるかに深く、魂の核を抉る罪悪感。



 重い沈黙の中、新たな足音が響く。シアに支えられ、ようやく広場にたどり着いたルイが、眼前の光景を目にした。

 二人の顔から、一瞬で血の気が引いていく。シアが口を押さえ、目を見開く。ルイの表情は、一瞬で岩石のように硬直した。そこには、理解しがたい現実に対する、底なしの絶望が刻まれていた。

 そして、琴葉に向けられた二人の視線──そこには、予想していた怒りや非難の色はなかった。あるのは、やりきれないほどの、深く重い哀しみだけだ。それは、琴葉が最も恐れていたもの。自分が正しいと信じて踏み出した一歩が、最も大切にしたい人たちの心を、これほどまでに深く、暗く沈めてしまうということ。


 琴葉は、ゆっくりと血の滴る手を見下ろした。

 掌を貫く響哉の短剣。金属の冷たさが、魔法の血の温もりを奪う。自分の魔力で黒く濁り、微かに光る粒子を含んだ"血"が、静かに、一雫、また一雫と石畳に落ちていく。



 倒れた三人の仲間。その無力な姿。

 血まみれながらも、ほくそ笑み、興味深そうにこちらを見つめる魔法士。

 そして、哀しみに打ちひしがれたルイとシア。



(……ああ……これが、私の選んだ道。

 多くを救いたくて、誰も殺せず、最も大切な者たちのことも傷つける。傲慢で、愚かで、それでも前に進むしかない……この地獄への道)



 甘く腐敗した麻痺の匂いが、虚しく、そして重苦しく、辺りに漂い続けていた。それは勝利の香りなどではなく、自らの手で大切なものを穢したという、拭いようのない罪の臭気だった。琴葉はその匂いの中に立ち、孤独に、そして確実に、自身が選んだ深淵の底へと沈んでいくのを感じた。

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