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第五十八話 再び糸は切れ。傀儡の独り舞 - 1

 広場へ駆ける足音だけが、空虚な胸腔を打つ。そのリズムは、狂った時計の振り子のように不規則で、自身の不甲斐なさを嘲笑っているようだった。

 なぜ、この聖域に、外の穢れが紛れ込んでいることすら気付けなかったのか。たとえルイの言葉に心を揺さぶられていようと、気付かないはずがない。そこまで落ちぶれていない。落ちぶれていないと──信じたかった。

 死体であることに変わりはない。魔法で動く人形に過ぎない。しかし、それでも「調子」というものは存在する。魔力を血液のように循環させ、擬似生命を維持し、傷一つすら即座に癒すその行為を──


(……怠っていた)


 はっきりと自覚した。澄幽に戻り、安全の中に身を置きながら、あえて魔力の回復を疎かにしていた。戦うための力を、意図的に枯渇させたままにしていた。

 その思いが、胃の底で冷たい鋭い塊となって突き刺さり、内臓を掻き回す。琴葉は思わず顔を歪めた。視界が再び霞み、頬を伝う冷たい感触に自分自身が呆れる。


(滑稽だ。

 偽物のくせに。死んでいるくせに)


 涙も、感情の起伏も、全てがプログラムされた模倣に過ぎない。意味のない、空虚な再現。それなのに、なぜこの骸は涙を流すのか。なぜ、この無意味な生理反応にすら、胸が締め付けられるような痛みを覚えるのか。


 足が重く、止まりそうになる。いや、重くしているのは自分自身だ。この体は、人形師が糸を引くままに動く傀儡と同じ。意思という魂を込めて操縦しなければ、次の瞬間にはぱたりと動きを止めてしまう。

 一歩。また一歩。

 関節が軋む度、体を巡る魔力の流れの末端で火花が散るような鋭い疼きが走る。全身の細胞が、否、魔力を流す疑似神経の一つ一つが「止まりたい」と叫んでいる。全てを投げ出したい。武器も鎧も、守護者という名の枷も、この偽りの自我さえも。


(死んだのだから……死んだまま、塵になるべきだった。この体も、本来あるように戻してあげたい。

 今、もう一度死ねるとしたら──)


 その誘惑は甘く、深い闇のように心を引きずり込む。


(戦いたくない。もう、誰も殺したくない。

 力を込めなければ、刀も振れない。魔力が枯れていれば、戦えない。もう戦いたくないから。回復しなければ、戦わずに済むとでも思った──?)



「……愚か者……ッ!!」



 零れ落ちた呪詛は、冷たく乾いていた。己へ向けられた刃。そして、この理不尽極まる世界へ向けた、無力で哀れな抗議。


 守るべき場所がある。守るべき人たちがいる。ルイの覚悟、シアの笑顔、珠桜の矜持、律灯の優しさ、響哉の献身──この小さな庭で紡いだ、脆くも美しい日常のすべて。

 しかし、世界はそれに耳を貸さない。待って、と懇願しても、戦いたくない、と叫んでも、侵蝕してくる破壊者たちは止まらない。彼らにとって、琴葉の内面の葛藤など、塵芥にも等しい。


(──それなのに、私は何をしている?)


 世界の理不尽に、ただ膝をついて、涙を流して抗議するだけの、無力な亡霊。

 逃げる力もない。変える力もない。己の意思を押し通すほどの力も。覚悟も持たない、弱き骸が。



 視界が広場を捉えた瞬間、世界の色彩が一変した。


 ──ドスッ。


 鈍く、生々しい肉と骨と金属が絡み合う音。月光を浴びて飛散する鮮血が、暗い石畳に不気味な宝石のように散らばる。

 珠桜の日本刀が――男の肩から胴体を貫き、地面へと打ち込まれている。

 血が流れる。止めどなく、穢らわしく、美しく。鮮血が妖しく月光を反射する光景が、偽りの網膜に焼き付いた。


(珠桜、そして──)


 ──グレージュの髪。薄笑いを隠すようなサングラス。まるで老いも、時間も知らないかのように、七年前と寸分違わぬ姿。

 彼の名を、琴葉は忘れない。忘れられない。国中の誰もが、畏れ、憎み、時に盲信した、あの底知れぬ微笑みも。


 止まっているはずの鼓動が、嫌な高鳴りを帯びて肋骨を内側から打つ。ドクンドクン、ドクンドクン──生存者である証ですらなく、ただ恐怖と嫌悪が駆動する不気味な擬音。手が震え、視界が微かに揺らぐ。

 珠桜の刀は男の体を串刺しにし、文字通り石畳へ打ち付けていた。流れ出る血の分だけ、男の顔から生気が失われていく。

 戦士としての理性は、感情を律せと叫ぶ。しかし、男から流れ出る深紅の川を見る度、内側から沸き上がる何かが、その声をかき消していった。


「……君は、一人かな? 珍しいね」


 珠桜の声。慈愛はない。そこにあるのは、かつて最高執行官として法の刃を振るった、冷徹無比な処刑人の音色だ。刀身が微かに捻られ、肉と骨を抉る。男の顔が苦痛で歪む。


「いやぁ~……だからぁ、オレ交渉しに来ただけですってぇ……戦う気なんて毛頭ないんだってば」


 戯けるような口調。珠桜の額に、静かに青筋が浮かぶ。

 次の瞬間、刀がより深く、確実に臓腑へと突き立てられる。刀が一気に深くまで沈み、男の背中から刀尖が突き出す。吐き出される鮮血の塊が月明かりに黒く光る。

 珠桜が流れるように刀を引き抜く。刃が月光を一閃し、付着した血しぶきが虹のように散る。


 次は確実に、頸動脈を断つ。それで終わりだ。



(──だめ。この男が死ぬことで、彼が背負った人々までもが……!)



「待って──!」



 声は、自分の意思を超えて迸った。体が動く。地面を蹴り、刀を抜き、珠桜と男の間に滑り込む。

 金属同士が激突する。火花が散り、軋む重い音が広場の空気を切り裂く。衝撃が腕から肩、そして背骨へと伝わり、魔法回路に走る疼きが、現実を残酷に突きつける。


「……琴葉?」


 珠桜の声には、一瞬の驚きと、深い疑念が混じる。彼の目は、琴葉の目を真っ直ぐに見つめている。それは、かつて執行官として数多の"世界の膿"を見てきた者だけが持つ、冷徹な審判の眼差しだ。


「っ……!」


 重い。尋常ではない重さが、刀身を通じて全身に押し寄せる。魔法で強化したこの体ですら、筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋み始める。この剣が、世界の異能者たちを震え上がらせてきた。この一撃の下に、幾つの命が消えたか。

 優雅なその体躯のどこに、これほどの「重み」が宿っているのか、甚だ疑問で仕方ない。だが、それは力ではない。技の極致だ。無駄のない姿勢。重心の移動。琴葉の力を封じ、無効化し、こちらの体勢を崩そうとする完璧な力学。教わったものを、はるかに超えている。彼は、琴葉が知る以上に、遥かに高みにいる。


 足音が二組、背後から駆け寄る。響哉と律灯だ。響哉の銀灰色の瞳が一瞬で状況を飲み込み、鋭く光る。律灯が息を詰まらせる微かな音さえ、琴葉の聴覚は捉えていた。

 そして──響哉が動いた。爆発的な加速。風を切り裂く音。男の背後に瞬く間に回り込み、短剣が閃く。獣のような、確実な殺撃。頸動脈、延髄、あらゆる致命点を同時に狙う、一切の迷いのない軌跡。


(……!)


 今度は思考より先に、体が反応した。右手を差し出す。掌を、あの短剣の無情な軌道上へ。

 鋭い痛み。熱さ。金属が肉を貫き、骨に当たり、止まる感触。流れ出るのは──血ではない。魔力の微粒子が煌めき、黒みを帯びた深紅の液体。命の代わりではない、単なる「消耗品」の流出だ。


 なぜ痛みを再現しているのか。自分があってはならないことをしている、罪を感じるためにか、無意識に痛覚などを自分の体で再現していた。その無意味さにさえ、まともに気づけないほどに、心は乱れている。



「──琴葉てめえ、裏切る気か?」


 響哉の声は、絶対零度のように冷たい。その視線は、かつて琴葉が斬り伏せてきた敵たちに向けられていたものと同じだ。銀灰色の瞳の奥に、鋭い失望の刃が瞬いた。それは、肉體を貫く短剣よりも、深く琴葉を抉る。


「違う……違う、違う!!」


 声が跳ね上がる。それは、自分でも制御できない悲鳴に近い。いや、悲鳴そのものだ。

 痛いほど分かっている。理解している。澄幽を守ろうとする珠桜と響哉の刃を阻むこの行為が、「裏切り」以外の何物でもないことを。侵入者の男を庇うこの姿勢が、これまで築いてきた信頼を根底から揺るがすことを。

 それでも──それでも、この手を伸ばさずにはいられなかった。守りたいもの、"まだ守れるもの"は、澄幽だけにあるわけではない。

 掌を貫かれた痛みなど、どうでもいい。響哉の腕を、魔力の血に染まり黒く光る手で必死に掴む。その冷たい腕の感触が、自分が今、まさに「敵側」に立っていることを、残酷に物語る。


「でも……待って、まだ殺さないで!! 殺しちゃダメ!!」

「あれ~、崩山(ベンシャン)だぁ。助けてくれるんだねえ、いい子いい子」


 男が、口元に溢れる血を気にも留めず、にこりと笑った。その笑顔は、七年前と全く変わらぬ、底知れぬ余裕に満ちている。

 琴葉の胸が、恐怖と焦りで締め上げられる。この男を、ここで今庇う判断が正しいものであるか、確証は一つとしてない。一番守りたいものは澄幽で変わりないが、彼が生きることでその澄幽で惨劇が起きるかもしれない。そのジレンマが、脳髄を焼く。


「──黙れ!! 一言も喋らないで!」

「助けてよ。相談しに来ただけなのにさ。このままじゃ用件を言う前に、オレ、死んじゃうよ」男の言葉は、琴葉の必死の訴えを軽々と跳ね除け、場の空気を歪ませる。

「喋るなと言ってる……!!」


 その瞬間、琴葉は背筋に凍りつくようなものを感じた。

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