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第五十七話 殺意は枯れ、刃は涙に濡れる - 3

「……これが、すべて」


 彼女は目を閉じる。長い睫毛が涙で重そうに垂れ下がる。


「嗤ってもいいわ。役立たずだと、貶しても、何でも。…………どうぞ」



 ルイは言葉を失った。

 眼前の琴葉は、これまで見てきたどんな姿とも根本的に違う。完璧な戦士の仮面が完全に剥がれ、中から現れたのはあまりに脆く、傷つきやすく、そして──根本的に戦いに向いていない存在だった。


 ルイは戦う人の姿を、たくさん見てきたわけではない。それでも、確実に感じた違いがある。

 響哉の戦い方は、野生の獣そのものだ。本能に従い、楽しみ、時に遊びながらも、確実に獲物を仕留める。戦うことが彼の生の一部であり、誇りだ。

 シアは生き延びるためにもがき続ける生存者だ。彼女の戦いは、純粋で切実で、「生きたい」という本能から湧き上がる。

 彼らにはそれぞれ、戦う「理由」と「覚悟」が根底にある。それは内側から湧き上がるものだ。


 しかし琴葉の根幹にあるものは違った。

 彼女の戦い方は完璧だ。だが、琴葉は戦うことを「選んだ」のではない。戦うことを「課された」のだ。死者として蘇り、守護者としての役割を担わされ、それに従って生きてきた。戦いが彼女の存在意義になったのは、他に選択肢がなかったからだ。

 そのため、彼女の戦いには「喜び」も「誇り」もない。ただ「義務」があるだけだ。そしてその義務が、彼女の心を徐々に蝕み、今こうして崩壊させている。



(響哉が……あんな冷たいことを言ったのは……これを見抜いていたからか)


 あの夜、試刃院で響哉が琴葉に浴びせた、刃物のような言葉。


『お前が”本来あるべきように”、見かけ次第ぶっ殺してたら、こうはならなかった』


 あれは、琴葉の本質を見透かした上での苛立ちだったのだろう。響哉は琴葉が本来持っていない「殺す覚悟」を、無理矢理にでも植え付けようとしていた。彼女が役目を果たすには、そのくらいの冷酷さが必要だと。

 ルイは、今ならその真意がわかる。響哉の冷たさは、愛情の裏返しだったのかもしれない。琴葉を守るために、彼女を強く、矯正しようとしたのだ。


『ルイ君は、誰かを守るために、人を殺すのは悪いことだと思う?』


 ──今朝、脱衣所で響哉に問われた時、自分はなんと答えていた?


『悪かどうかは、分からない。どちらとも言えない──でも、そういう生き方しかできない』

『……ぶっちゃけ、悪かどうかなんて、考えたことなかったほどにはどうでもいいのかもしれない』

『守りたいものが、守れるなら』


 あの時、ルイは迷いなくそう答えた。守るためなら、殺すことも厭わないと。この終わった世界で、大切なものを守り抜くためには、時にその選択をしなければならない。それがこの荒野で生き延びるための、唯一の現実的な道だと理解している。琴葉の告白を聞いても、その覚悟は一切揺らいでいない。


 琴葉は「殺すこと」そのものに苦しみ、その行為の正当性を疑い、守るための手段としての殺戮に心が耐えられなくなっている。彼女の苦しみは、殺すことへの倫理的拒絶だ。

 一方、ルイの覚悟は違う。彼は「殺すこと」そのものには迷いがない。守るべきものがある以上、その邪魔になるものは排除する。それはこの世界の理不尽なルールであり、それに従って生きるしかない。琴葉のように殺すことへの罪悪感に苛まれるよりも、殺す必要性を冷静に受け入れ、その代償として自分がどうあるべきかを考える。


 琴葉はこの世界に染まりきれず、倫理観と現実の狭間で苦しんでいる。だがルイは──気付けば、この世界に染まってしまった側の人間だったのだと、初めて自覚した。



 殺しを、琴葉に強いることはできない。彼女に「守るためには殺せ」と迫ることは、彼女の本質そのものを否定することになる。彼女が深く羨ましがっていた「生きている者たちの日常」──優しさや笑いや温もり、そして何より「殺さずに済む世界」への希求を、戦いの名の下に奪うことになる。


 ──それは琴葉を守ることではなく、彼女を殺すことだ。


 ルイは、ちょうどいい言葉を探した。今の、彼女へかけるべき言葉を。

 だが、正しい言葉が思いつかない。同情の言葉をかければ、彼女の苦しみを軽んじることになるかもしれない。役を代わると言えば、琴葉の存在意義を否定することになるかもしれない。殺しを強いるのはよくないと分かっていながら、響哉のように彼女を無理にでも立ち上がらせるべきなのか。


 答えが出ない。彼女の深紅の瞳に映る苦悩が、すべての言葉を無力にさせる。



「……慰めはいらない。私が、変わらないといけないということは明白だから」


 琴葉が自分で言い切った。だが、その声には自分自身を説得しようとする無理がある。

 彼女は戦士としての責任を認識している。守らなければならないものがあることも理解している。澄幽を、珠桜を、律灯を、ルイを、シアを、響哉を。

 それでも、心がついていかない。倫理と現実の狭間で、彼女の魂は引き裂かれている。


「でも……」


 ルイが口を開こうとするが、琴葉は静かに首を振った。黒い髪が涙で湿った頬に張り付き、月光に照らされて暗い光沢を帯びている。


「私の代わりに、貴方たちが戦うのは……嫌だから。ちゃんと、覚悟を決めるわ」


 その言葉は、一見すると決意に満ちているように聞こえる。戦士としての責任を受け入れ、もう一度刀を振るうと宣言しているように。

 だが、そういう琴葉の声に、勢いはなかった。むしろ、疲れ切った諦めに近い。彼女は拳を握りしめようとするが、指に力が入らず、すぐに緩んでしまう。白い指が無力に広がる。


 ──誰が聞いても、嘘を吐いていることは明白だった。


 琴葉自身が、その嘘を最もよく理解している。彼女はもう、かつてのように無心で敵を倒せない。殺すたびに、相手のあったはずの未来を考えてしまう。敵を倒すたびに、自分が守りたかった日常からまた一歩遠ざかる感覚に襲われる。


 彼女に、救いはあるのか──? この世界で、殺さずに守る道はあるのか?



 ──その時、突然、荒々しく遠くで扉が開く音がした。ばたばたと廊下を駆ける足音が急速に近づく。それは慌てているというより、緊急事態を知らせるような音だった。

 壊れるのではないかというほど強く、この診療室の扉が開けられ──部屋に入ってきたのは、切迫した表情の響哉だった。彼の紫檀色の髪が乱れ、銀灰色の瞳には普段見ない焦燥の色が燃えている。珍しく、息も荒い。


 ルイと琴葉が、同時に響哉を見る。琴葉は涙をぬぐおうとするが、間に合わない。


「ど、どうしたの──」


 琴葉の言葉が切れた。突然、響哉は琴葉の襟元を強く掴み、ベッドから引きずり下ろした。琴葉の体が床に叩きつけられ、鈍い衝撃音が診療室に響く。その乱暴さは、普段飄々としている響哉からは想像できないほど激しかった。


「響哉!!」


 いくらなんでもやりすぎだ。ルイはつい叫ぶが、響哉はそのまま無理に琴葉を引き上げ立たせ、廊下へ引っ張ろうとする。琴葉はよろめきながら抵抗しようとするが、響哉は決して離さない。

 廊下の向こうに消える直前、僅かに響哉は振り向き、ルイを鋭く見た。


「ルイ、お前は隠れとけよ」

「待って……響哉、何……ッ!」

「さっさと表出ろ、時間がねえ──」


 そして響哉は、凍りつくような、刃物のように冷たい声で言い放った。



「魔法士に、ここがバレた。もう、澄幽の中にいる」



 その一言が、診療所の温かな空気を一瞬で氷点下に変えた。暖房の温もりさえ、突然冷たいものに感じられる。


 琴葉の顔から、さっきまでの傷ついた痛みの表情が完全に引く。代わりに、戦士としての鋭さが一瞬で戻ってくる。死者の顔が、蝋のように硬直する。

 ルイの背筋に冷たい電流が走る。澄幽の中に? ここはミコの異能で隠され、多重の幻影に包まれた最後の聖域だったはずだ。七年間、誰にも見つからなかったのに。


 だが、見つかってしまったというなら──もう、取り返しはつかない。


 琴葉は自らの足でしっかりと立ち、響哉の手を振り払う。もう泣き濡れた少女の面影はなく、そこにいるのは冷徹な戦士だ。彼女は一瞬ルイを見つめ、微かにうなずくと、響哉と共に廊下へ走り出した。白いドレスの裾が翻り、消えていく。

 ルイも診療所の外に出ようとするが、体が重い。異能の乱用の反動か、極限状態からの脱力か。膝ががくがくする。それでも、彼は壁に手をつきながら立ち上がる。



 戦いは、もう彼女の意思とは関係なく、ここへ押し寄せてきていた。選択の余地など、最初からなかったのかもしれない。

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