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第五十七話 殺意は枯れ、刃は涙に濡れる - 2

 ルイは迷わず動いた。左手が素早く琴葉の右腕を掴む。冷たく、硬い、彫刻のような死者の腕。逃げられないほど確実に、しかし折らない程度の力で引っ張る。ベッドの縁に、彼女を無理やり引き寄せる。

 琴葉の体が一瞬、反応する。戦士としての本能が、拘束を拒む。彼女の左腕がルイの手首を掴み返し、離そうとする。その握力はかつてのそれとは明らかに違う。弱々しく、震えている。まるで、心が砕けたことで、肉体を支える意志そのものが失われてしまったかのように。

 その抵抗は短命に終わる。琴葉の力が、明らかに弱まっていく。指が緩み、握力が消える。まるで、抵抗する意志そのものが、内側から崩れ落ちているかのように。彼女はルイにすら──今この瞬間、異能の乱用で疲労と消耗が限界に達しているルイにさえ、抵抗しきれていない。心の砕け方が、それほどまでに深い。


 ルイは最後の一引きを加える。琴葉の体が椅子から浮き、両手をルイの顔の横について、ベッドの縁に片膝をついて覆いかぶさるような姿勢になった。

 ルイが琴葉の手首を掴んでいる力が、ギリギリと音が立つほどに強くなっているのがわかる。骨と骨が擦れ合うような、かすかな軋み音。離さないという意思表示だ。



 琴葉の深紅の瞳が、真近でルイを見つめていた。

 驚愕と、混乱と、そして──やっと、諦めのような色が混ざった。



「──逃げるな」



 ルイの声は低く、しかし部屋中に響くような重みがあった。

 琴葉の唇が震える。もう一度、言おうとする。古い習慣のように、自分を繕うための言葉を。


「だめ……聞きたくないはず……」

「俺は、聞きたい」


 ルイはきっぱりと遮った。その目には、琴葉がこれまで見たことのない確固たる決意が光っている。少年ではなく、守る者の目だ。

 しばらくして、琴葉は体を起こそうとした。今度は、抵抗の力が完全に抜けている。彼女の腕はルイの手の中でだらりと力が抜け、まるで操り人形の糸が切れたようだ。彼女自身が、もう戦う気力を失っている。ルイは手を緩めた。

 そして、琴葉が体を起こすのに合わせて、ルイも体を起こした。怠さはあるが、座っている分には問題ない。むしろ、この姿勢でしっかりと琴葉に向き合いたい。


「もう……一人で背負わなくていい」

 ルイが静かに、しかし確かな声で言う。

「お前が守ってきてくれたように、今度は俺が守る。そのために……真実を知りたい」


 琴葉は目を閉じる。長い睫毛が涙で重たそうに震える。彼女の体全体が、ゆっくりと、崩れ落ちるようにルイの方へ傾く。抵抗する力を完全に失い、ただ、支えを求めるように。まるで、長年一人で耐えてきた重荷を、ようやく降ろせる場所を見つけたかのように。

 ルイはそっと彼女を受け止める。冷たい体が、ベッドの上で細かく震えている。

 ここで、初めて琴葉が本当の意味で「弱っている」ことを実感する。物理的な傷ではなく、心の砕け方が、彼女の存在そのものを脆くしている。ルイですら、今ならこの最強の戦士を押し留められるほどの、深い消耗。彼女はもう、一人では立てないほどに傷ついている。



「……教えてほしい」


 ルイが囁くように言う。声には、責めるような響きはなく、ただ真実を知りたいという純粋な願いが籠っていた。


「何がお前を、そんなに苦しめてるのか。俺に、話してくれないか」



 琴葉は、ゆっくりと顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、深紅の瞳がルイを真っ直ぐ見つめる。そして、ついに──堰を切ったように、言葉が溢れ出し始めた。



「もう……誰かを殺すことは……疲れたの……」



 ──その瞬間、ルイは言葉を失った。

 琴葉がそんなことを口にするなんて、想像の埒外だった。彼女は常に「守るためなら手段を選ばない」と語り、ルイとシアにもその冷酷な現実を叩き込んできた。敵を見つけたら即座に殲滅せよ、躊躇いは死を招く、と。

 琴葉の目から、また涙が零れる。だが、その涙には激しい感情はない。ただ、枯れた井戸から湧き出る水のように、自然に、しかし尽きることなく流れ落ちる。疲れすぎて、もう感情を動かすエネルギーさえ残っていないようだった。


「人を守るために私はまだ存在する……なのに……人を殺さないといけない。殺さないと、大切なものが、奪われてしまう」


 声がかすかに震える。それは恐怖ではなく、長年にわたる矛盾への諦めに近い。


「でも……そうとは分かっていても……本当は殺したくなんてない……未来を、夢を、希望を……奪いたくない……」


 琴葉の声が次第に小さくなる。まるで、自分の告白が許されない罪であるかのように、声を潜める。殺すことへの嫌悪は、この世界での守護者としての存在意義そのものを否定する。


「こんなの……間違ってる……守るために殺すなんて……"正当化されていいわけが、ない"」


 声は次第に小さくなり、ついに囁きに変わる。彼女は手で顔を覆い、深く俯く。一滴、また一滴。涙がシーツに落ち、既にある染みをさらに広げていく。まるで、彼女の罪が可視化されているようだ。



 一度、彼女の様子を見るべく、ルイは少し体を離した。だが琴葉は完全に俯いてしまい、黒い前髪がカーテンのように顔を覆い、その表情を伺うことができない。ただ、震える肩と、滴り落ちる涙の軌跡だけが、彼女の苦悩を物語っている。


「生きている貴方たちと……一緒にいすぎた」


 琴葉の声に、初めてかすかな自嘲が混じる。


「貴方と……シアが笑うたび。藤崎の料理を美味しいと言うたび。寒い、疲れたと喚くたび……羨ましくて……たまらなかった」


 彼女の肩が、小さく、しかし激しく震える。

 ルイは、最近の思い出が鮮明によみがえる。澄幽での穏やかな日々。琴葉が珍しく食卓を囲み、シアの話に微かに頷く姿。温かい料理の湯気が立ち上り、笑い声が響く空間。あの時、琴葉の深紅の瞳に浮かんでいたのは、確かに優しさだった。

 薄く引かれた口元の曲線。でも今思えば、それは生きる者たちへの羨望だったのだ。彼女が永遠に失った、当たり前の日常への、痛いほどの憧れ。


「生きていれば、私も同じようにできたかもしれないって」


 声が夢見るように遠のく。


「温かいご飯を食べて、寒い日に火にあたって、疲れたら眠って……そして、誰かを守るために戦うのではなく、ただ一緒に笑うために生きられたかもしれない」


 琴葉の声は、夢を見ているかのように現実味を欠いている。彼女は今、自分が決して手にできないものを語っている。死者として蘇り、守護者として血に塗れた戦いを続ける運命からは、永遠に隔たれた日常を。それは、彼女がどれだけ願っても決して叶わない、残酷なまでの幻想だ。

 ルイは言葉を失った。琴葉の羨望が、どれほど深く、どれほど痛ましいものか、初めて理解した。彼女がただ静かに食卓に座り、彼らを見守っていたあの時間は、実は彼女にとって、むしろ苦痛だった。生きる者たちの幸せを間近で見ながら、自分はその輪に入れないという現実を突きつけられる時間が。


「そんなくだらないことを思ってしまったから……」


 琴葉が自嘲的に笑う。その笑みは、これまでルイが見たどんな表情よりも痛々しく、歪んでいる。口元だけが引きつり、目には笑いの光はない。

 深い絶望が滲み出て──ルイも、息が出来なくなった。



「守るために、全て殺すと、決めたはずだったのに……揺らいでしまった。

 最近、外で人間を見るたび……私が失ってしまった大切なものを、彼らから奪いたくなくて……手が止まってしまった」



 彼女はゆっくりと顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔に、絶望的な笑みが浮かんでいる。それは笑顔というより、痛みの歪みだ。

 頬を伝う涙が、窓からの微かな月光を反射して不気味に青白く輝く。死者の涙は生者のものとは質が違い、より透明で、光を通すと内部に微かな魔力の粒子がきらめく。それは、魂の欠片が溶け出しているかのようだった。


「もう、やめたい。この役目を降りたい。私じゃ……救えないものも、多すぎる」


 琴葉の目がルイを真っ直ぐ見つめる。深紅の瞳には、長い年月を戦い続けてきた疲労が、深い割れ目のように刻まれている。

 そして、一度深い息をつくような間を置いて──彼女は最後の告白を告げた。



「異能が使える、貴方たちが代わってくれたらいいのに、なんて……卑怯な願いだろう」



 その言葉は、琴葉自身への最大の裏切りだった。

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