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第五十七話 殺意は枯れ、刃は涙に濡れる - 1

 意識が、ゆっくりと深い闇から浮かび上がってきた。

 最初に感じたのは、微かな温もり。魔法の力でもなく──暖房の熱。次に、柔らかいシーツの感触。清潔な布地が肌に触れる。目を開けたそこに、見慣れた木目の天井があった。診療所の一室だ。澄幽に戻ってきていた。

 ルイはゆっくりと体を起こそうとした。しかし、筋肉が鉛のように重い。通常の筋肉痛とは次元が違う。まるで体の奥深く、骨髄まで疲労が染み込んでいるような感覚。頭の奥は鈍い鉄槌で叩かれ続けているようで、思考するだけで疼く。口の中は砂を噛んだようにカラカラに乾き、喉が焼けるように痛む。全身が、戦いの余韻で細かく震えている。異能を乱用した代償のようだ。

 それでも──部屋は暖かかった。それだけで、心が徐々に落ち着いていく。



「……ルイ……? 目、覚めた……?」


 すぐ横から、掠れて、壊れそうな声が聞こえてきた。

 視線を動かすと、琴葉がベッドサイドの椅子に座り、こちらを見ていた。深紅の瞳には、疲労の色が濃く、下瞼に薄い影ができている。身だしなみは一応整えられ、純白のドレスを纏い、黒いジャケットを羽織っているのに、髪はまだ少し乱れ、普段は綺麗にまとめられる髪にほつれがあった。そこまで気が回らなかったのだろう。彼女の姿は、完璧な戦士の仮面が剥がれ、中から現れた壊れかけた人形のように儚く、ルイの胸を鋭く締め付けた。


「琴葉……」


 名前を呼んだ瞬間──

 氷のように冷たい手が、ルイの手を強く、強く、骨が軋むほどに掴んだ。



「っ、冷っ──!」


 思わず声が漏れる。琴葉の手は死者のそれで、体温がなく、冷たさが直接骨に伝わる。だが次の瞬間、その冷たさすらも感じられなくなる。


 琴葉はその手を、自分の額に押し当てた。


 縋るように。

 祈るように。

 まだ脈がある、心臓が動いている、命が繋がっていると確かめるように。


 前髪に隠れて顔は見えない。

 ただ──ぽたり、ぽたり。熱い雫がシーツに落ち、小さな染みを広げていく。



「よかった……よかった……っ!」


 声が震え、途切れる。それは感謝の言葉というより、苦しみから解放された安堵の呻きのように響く。


「……なぜ、外になんか出たの……駄目だと、何度も言ったでしょう……!」


 声が次第に大きくなり、怒りにも似た感情が滲む。しかしその怒りの奥には、もっと深い恐怖が潜んでいる。

 ルイはかすれた声で答える。


「……お前に言っただろ。逃げるなよって」


 琴葉が顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔が露わになる。目は赤く腫れ、鼻先も赤い。これが、あの冷徹な戦士の顔なのか。


「それが理由になるわけ……ないじゃない! 待っていれば……待っていればよかったのに…! 私が戻るまで……!!」


 声が再び詰まる。彼女は拳を握りしめ、白い指の関節が浮き上がる。力を込めすぎて、手の甲に黒い血管のような模様──死者の体に現れる不気味な痕跡が浮き出ている。それは生者のものとは明らかに異なり、魔力の粒子を思わせる色をしていた。


「……私を、あの吹雪の中で見つけられるのも……意味が分からない。

 魔法を使えない、一つの能力しか持っていないはずなのに……追ってくるなんて……馬鹿げてる。

 あの……兵器たちを……一瞬で……全部……!」


 琴葉は自分を見つめられず、感情を制御しきれていない。あの戦場での動揺が、まだ完全には消えていない。ルイがあの異形たちを一瞬で消し去った光景が、彼女の中の何かを根本から揺さぶっている。

 ルイはゆっくりと、もう片方の手を伸ばし、琴葉の冷たい手に重ねた。死者の冷たさ。氷のように硬く、生命の温もりがない。なのに、その下で、何かが──狂おしいほどに激しく震えている。まるで、失われた心臓の代わりに、魂そのものが痙攣しているかのように。


「死んでほしくなかった。ずっと、様子がおかしかったから……心配になった」

「……ばか……意味が分からない……」


 琴葉の声が詰まる。彼女はゆっくりと顔を上げ、深紅の瞳には涙が光っていた。

 死んだ肉体が涙を流すことができるのか、ルイは知らない。生物学上は当然、不可能だろう。だが、今この瞬間、琴葉の目は確かに潤み、透明な一滴が頬を伝い落ちる。その涙は生者のそれよりも透明で、光を反射すると虹色にきらめく。

 ルイの胸が、痛むように締め付けられる。あの涙は、どれだけ深い悲しみを湛えているのか。死者の涙は、生きる者のものより、ずっと重いものに思えた。



「私は……もう死んでるのよ」


 琴葉の声は、まるで壊れた楽器の最後の音のように歪んでいた。


「体は壊れても、また繕える。消えかかっても、また呼び戻せる。何度でも……何度でも『死ねる』──でも、貴方は違う。一度の死が、すべての終わり。一度の失敗が、永遠の別れ。もう二度と……会えなくなる」


 琴葉の手が、ルイの腕を掴む力がさらに強くなる。冷たい指が、生者の温もりを求めるように食い込む。


「私は……もうたくさん、失ってきた」


 声がかすれる。目から流れ落ちる涙が、透明なのに、血のように深い悲しみを運んでいるようだった。


「守ろうとしたのに、守れなかった。手を伸ばしたのに、届かなかった。『次は』『次は』って、何度も誓ったのに……!」


 彼女の肩が激しく震える。もう戦士の姿はない。そこにいるのは、ただ傷つき、疲れ果て、もうこれ以上失うものがないと怯える、一人の存在だった。


「お願い……もう、無理をしないで……」


 声が、哀願に変わる。絶対的な強者だった彼女が、今はただ懇願する。



「もう、誰かを失うのは……嫌……ッ!!」



 最後の言葉は、ほとんど叫びに近かった。それは、理性を超えた、本能的な恐怖の表出だ。琴葉の深紅の瞳が、ルイの中に映る自分の姿──かつて失った者たちの面影と重ね合わせているかのように。

 ルイは、喉が詰まるのを感じた。琴葉のこの姿は、初めて見るものだった。いつも強くて、冷徹で、守るための絶対的な壁のように立っていた彼女が、今、目の前で粉々に砕け散っている。それは、戦場での物理的な傷よりも深く、何度魔法で再生しようとしても決して癒えない、魂の亀裂のように思えた。


 しばらくの重い沈黙が流れる。その間に、琴葉は何か言葉を探しているのか、唇が微かに動くが、声にならない。涙が頬を伝う速度が増し、小さな嗚咽が零れる。肩が細かく震え、彼女は片手で口を押さえ、もう一方の手で胸を掴む──まるで、死者が持たないはずの痛みに耐えているかのように。


「……大丈夫か?」


 控えめに、しかし確実に声をかける。ルイは琴葉から目を離さない。

 苦しそうに、琴葉は首を振る。胸をおさえる手の力が強まる。視線が揺れ、天井を見、壁を見、床を見──ただルイを見つめられない。言おうかどうか、激しい葛藤が表情に表れている。唇が一瞬開き、息を吸い込む。声が出かける。


「わたし……は……」


 言葉が、かすかに漏れる。しかし次の瞬間、彼女はきつく唇を噛みしめ、声を飲み込む。目をぎゅっと閉じ、長い睫毛が涙で濡れている。視線が完全に逸れ、再び彼女の瞳には深い影が落ち、濁った暗紅色に変わる。まるで、内側から湧き上がる苦悩が、文字通り視界を曇らせているかのようだ。



 ──隠す気だ。また、心の奥深くに押し込め、決して表に出さないと決めている。今までと、全く同じように。痛みも、後悔も、真実も、すべてを自分一人で背負い込み、仮面の下に封印しようとしている。傷ついた獣が巣穴に戻り、独りで傷を舐めるように。



 そう悟った瞬間、ルイの胸に熱い怒りのようなものが滾った。

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