第五十六話 理を嗤い、光花を咲かせ - 3
すべてが、三秒とかからなかった。
ルイはただ立っていた。瞳のライムグリーンの輝きが徐々に消え、通常の視界に戻る。
吹雪が再び吹き荒れ、さっきまで三十の敵がいた場所には、何の痕跡も残っていない。雪がすべてを覆い隠し、この一戦が存在したことさえ嘘のようだ。
あの一瞬、遠征の中で、星骸を爆散させたことを思い出した。
星骸は星溶粒子を元に体が作られている。粒子が生物として一定の秩序で集まり、そこに岩石で体を補強し、擬似的な生命を形作っている。暴走のコマンドは、その秩序を根本から撹拌し、粒子同士を衝突させ、自壊させる。結果は鮮やかな爆散だった。
では、魔力を固められているように思えた先ほどの異形たちも、同じではないかと。単純で、明快で、残酷な論理がルイの頭に浮かんだ。体内でその力を暴走させれば、同様に自壊するのではないか。いや、そうであってほしい。叶うことなら、あの忌々しい敵たちを一瞬で、一撃で、爆散させて致命的な傷を与えられるようにと、強くイメージした。
結果、想像通り、上手くいった。三十の敵が一瞬で光の花と化し、消え去った。理論通りの結果だ。
──だが、他の支配や増幅のコマンドとは違い、なんとなく"制御している"という感触が薄かった。乱暴に綱を引きちぎったような、無理矢理な、根源を破壊する感覚。この力は、創造や維持よりも、破壊に特化している。否、破壊こそがこの異能の本質なのかもしれない。異能の暴走が、自分自身を襲う日が来るかもしれない。
琴葉が、ゆっくりと顔を上げた。深紅の瞳が、近い距離でルイを見つめる。その目には、驚愕と恐怖、そして何か言葉にできない深い感情が渦巻いている。彼女は今起きたことを理解している。ルイが三十の敵を一瞬で消滅させた理不尽を。だが──その理解が、彼女の中の何かを根本から揺さぶっている。理解したくないと必死に抵抗しているのだろう。目をそらし、現実から逃げたいと願っているように見える。
ふぅ、とルイが息を吐く──その吐息が白く霞み、琴葉の顔にかかる。そして次の瞬間、視界がぐらりと傾いた。力が突然抜け、ルイの体が後ろに倒れこむ。琴葉が盾となろうと密着していたせいで、足が絡まり、彼女も道連れに引きずられた。
「きゃっ……!」
二人は雪の中に転がり、冷たい粉雪が顔や首元にざらりと入り込んだ。雪の感触が鋭く、一瞬だけ意識がはっきりするも──すぐに世界がぼやけていく。視界の焦点が合わない。
心拍がなぜか狂ったようにドクドクと速く鼓動を刻み、体中の血液が一気に熱くなる。耳元で脈打つ音が大きく響く。異能の乱用か、魔法式への過剰な介入の反動か、あるいは単に極限状態での体力消耗か。目が回り始め、視界の端がちらつく。原因が多すぎて、もはやどれが主要なのかわからない。すべてが重なり、体が限界を告げている。
「……早く、体直して……どこか、雪を凌げる場所に移動しないか?」
声がかすれ、息が続かない。雪が口に入り、溶けて冷たい水となる。喉が渇いているが、飲み込む気力さえない。舌が重く、動かない。
「……ルイ」
琴葉の腕が、明らかに震えている。彼女が抱きしめる力が強すぎて、その力みが震えとして伝わってくるだけではない。琴葉自身が震えているのだ。彼女の体が微かに、しかし確実に揺れている。呼吸──彼女にはないはずだが──が乱れているように感じる。鎖骨のあたりに、琴葉の顔が埋もれている。冷たい頬が肌に触れる。そこから、かすかな、嗚咽にも似た音が漏れている。
「……だめ……こんなの……だめ……」
彼女の声は、ルイが今まで聞いたどの声とも違う。張り裂けそうな悲鳴を必死に押し殺した、か細い断末魔のようだ。
──自分が震えているだけだろうか。極限状態での錯覚か。何か、幻聴が聞こえているのか。
だが否。琴葉が震えている。琴葉が泣いている。あの完璧で冷徹な戦士が、今、雪の上で、ルイを抱きしめながら、震え、嗚咽している。
意識の輪郭がぼやけ始める。雪の冷たさが、だんだん気持ちよくなってくる。
熱くなった体を冷やしてくれる心地よい感覚。深い眠りに誘われるような、甘い誘惑。
眠りたい。
疲れた。
もう、少しだけ……目を閉じよう。
ほんの一瞬、休ませて。
「……待って……だめ……眠らないで……」
琴葉の腕が、骨が軋むほど強く締め付けられる。まるで、離したらルイが消えてしまうかのように。手放したくないと、手放してたまるかと。苦しい思いを込めて。
「起きていて……お願い……ルイ……私を……一人にしないで……」
かすれた声が、雪の音にかき消されそうになりながらも、確かに耳に届く。その声には、これまでの琴葉にはなかった、子供のように無防備な恐怖が満ちている。
わからない。何が本当で何が錯覚か。痛みも、寒さも、琴葉の涙も、すべてが混ざり合い、遠のいていく。
琴葉の顔が近づく。冷たい唇がルイの額に触れる。
それは祝福というより、存在を確かめるための触れ合いのように。
「……絶対に……消させない……」
その誓いのような呟きを、最後の意識として──
そっとルイは意識を手放した。琴葉の冷たく、しかし必死に温めようとしている腕の中。雪の上で、吹雪が二人を覆い隠そうとしながら。琴葉の"涙"が、ルイの頬を伝い、雪に混じる。
彼女はひとり、ルイの体を抱きしめ、吹雪の中にうずくまった。そして、誰にも聞こえない声で、繰り返し呟き続けた。
「──生きていて……生きていて……」




