第五十六話 理を嗤い、光花を咲かせ - 2
距離が縮まるにつれ、戦闘の気配が肌で感じられるようになった。魔力の爆発が空気を振動させ、ガラスが砕けるような鋭い破裂音が風に乗ってくる。鼓膜が痛むような高音と、内臓を揺さぶる低音が混ざり合う。
そして琴葉の――乱れた魔力の脈動。彼女は押されている。数の暴力に、完璧な連携に、そしておそらくは、再び、自らの中にある何かと戦っている。
(もっと早く……!)
心臓が喉元まで上がってくる。焦燥が脳を焼く。
その時、視界の彼方に閃光を見た。吹雪を貫く黒白の魔力奔流と、それを迎え撃とうとする深紅の光芒。琴葉の魔力だ。しかし、その深紅の光は、いつもの鋭さを失い、僅かにブレているように見える。魔法の衝突が雪の幕を引き裂き、一瞬だけ戦場の全景が露わになる。あと百メートル。
「……っ!」
ルイは無我夢中で駆け抜けた。残りの距離を、早朝の響哉とのトレーニングで鍛え上げた全速力で。滑り転ぶ危険は考えない。転ばなければいい。響哉と琴葉に、散々雪の中を走り回る方法は教えてもらった。体重のかけ方、呼吸のリズム、ルイが持つ特別な視界の使い方――すべてが血肉となっている。自分を信じるだけ。教えてもらって、一度できたことが、出来ないわけがない。
雪が顔を打ち、足が時折深く沈む。それでも前に進む。琴葉がそこにいる。
そしてついに、戦場の光景が目の前に広がった。
広い窪地の中心で、琴葉が立っていた。いや、立とうとしていた。
彼女は深紅の瞳を爛々と輝かせ、両手を前に構えている。だが、その姿勢は明らかに不安定だった。足元がふらつき、片膝が地面に触れそうになっている。白いドレスはまたも無残に破れ、腰や肩からは――昼間と同じ漆黒の液体がじわじわと流れ落ちている。再生が完全ではなかったのか、あるいは新たな深手を負っているのか。彼女の周囲の雪は、その黒い液体で染まり、不気味な模様を描いていた。
三十人近い魔法士が彼女を包囲し、魔力の圧力が雪すら押しのけている。その中心で、琴葉はただ一人、深紅の瞳を敵に向けていた。
「──琴葉ッ!!」
ルイが叫ぶ。声は吹雪にかき消されそうになったが、琴葉の耳に届いたようだ。
彼女が一瞬、ルイの方を振り向く。深紅の瞳が驚愕に大きく見開かれる。その目には、複雑な感情が一気に渦巻いている。
「なぜここに?」という困惑――計算外の事態への戸惑い。
「来るな」という警告――戦場の残酷さを知る者としての拒絶。
そして――最も強い感情として、赤裸々な恐怖の色が浮かび上がる。
琴葉の顔が一瞬で青ざめる。唇が震え、声が詰まる。彼女がルイを見るその目は、今までのどんな戦いの中でも見せたことのない、完全な動揺に満ちていた。
「ルイ……!」
その一声が、すべてを物語っていた。声の端が裂け、かすれている。彼女は片手をルイの方へ伸ばす――止めようとして。
「逃げて! 今すぐに!」
声が次第に大きくなる。必死さが増す。
「ここに来ないで! やめて、お願い!!!」
絶叫に近い。琴葉は今、敵との戦いよりも、ルイがこの場にいることの方を恐れている。彼女の深紅の瞳には、ルイが傷つく光景、いや、もっと残酷な結末が映っているようだった。
だが、ルイはその叫びを遮るように、腹の底から、己の決意を叩きつけるように叫び返した。
「『逃げるなよ』って言っただろ!!」
その言葉には、琴葉への怒りも、心配も、そして何よりも「お前を守る」という固い意志が込められていた。琴葉が自分を守ろうとするのなら、自分だって琴葉を守る。それだけだ。
その瞬間、魔法士たちの視線が一斉にルイへ向く。
三十を超える双眼が、一斉にルイを捉える。雪の中で不気味に輝く瞳の群れが、新たな獲物を確認する。覚悟はしていたが、いざ対峙すると心が揺らぎそうになる。圧倒的な数、完璧な規律、そして琴葉を追い詰めてきた確かな殺意。生と死の境目が、この一瞬で決まるような緊張感が空気を震わせる。
だが、守るためなのだと、自分を奮い立たせ、ルイはその視線を"睨み返そうとした"──歯を食いしばり、目を見開き、敵意を対峙しようと。
「……?」
──しかし、睨み返さなかった。違和感が、警戒心よりも先に湧き上がった。
今まで見てきた魔法士たちと、今対峙している魔法士たちは、どこか雰囲気が違った。
まず、服装が異なる。普段遭遇する魔法士が纏う装束よりも、使われている布が少ない。いつもは、肌を覆い尽くすような、防寒対策をしっかりしているという印象なのに──腕や足など、いくらか肌の露出が見られる。その肌は、人間のそれとは微妙に色合いが違う。青白く、あるいは灰色がかっている。雪の反射光にかすかに光沢を帯びている。生きている人間の肌というより、大理石か陶器のような質感だ。
次に、瞳。吹雪の中で煌めくそれらは、人間のような虹彩を持たない。それこそ、琴葉のような──ガラス玉のような瞳だ。深紅、銀灰、翡翠、琥珀……不自然に鮮やかな色が、雪の中できらめいている。感情を読むことが難しく、ただ無機質にルイを見つめている。
そして最も異様なのは、全身から放たれる気配だ。星溶粒子の視覚で見れば、彼らの体内には通常の魔法士が持つ血流のような魔力の流れすらなく、全身が一つの巨大な魔力の塊のように均質に練り上げられている。肉体そのものが魔力で構成されているかのようだ。琴葉と同じような──しかし琴葉よりもさらに純粋な、魔力による存在。
(──もしかして、彼らもまた……人間ではない?)
ルイの頭が冷たい閃きに襲われる。
琴葉が昼間よりも、より絶望的で深い恐怖を浮かべる理由も、説明がつきそうだ。それは単なる敵対者への警戒などではない。昼間の魔法士たちとは次元が違う──琴葉と同格か、それ以上の、人間を超越した脅威だからなのではないか?
ルイはショルダーホルスターから双銃を抜き出した。どちらも、敵との距離を考慮し銃のまま構える。金属の冷たさが手袋越しに伝わり、いつもの重みが戦闘態勢への切り替えを告げる。指が引き金に自然にかかり、引き金の抵抗感が確かな手応えとして伝わる。
だが──今回、この相棒の出番はないかもしれない。
刹那、世界が息を呑んだ。
空気が歪む──というよりも、空間そのものが皺のようにしわが寄る。視界がゆがみ、雪の降る軌道が不自然に曲がり始める。音が消える。風の音も、自分の呼吸も、すべてが突然遠のく。
魔力が一点に収束する。しかし、詠唱も宣誓もない。陣も描かれない。ただ、三十の異形たちが一斉に腕を上げ、掌をルイと琴葉へ向けただけだ。その動作はあまりに完璧に同期していて、一人の存在が三十の分身を操っているかのように思える。
次の瞬間、すべてが起こった。
「ルイ!!」
琴葉の叫びが、歪んだ空間を引き裂く。彼女がルイを守るために動く──その速度は、人間の視覚が追跡できない爆発的な速さだった。傷ついた体を引きずりながらも、彼女は雪面に深い跡を残し、ルイの前に瞬間移動したかのように現れる。
冷たい腕がルイを強く抱き寄せる。琴葉の肌の感触、凍った大理石のように冷たく硬い。黒い液体の匂い──金属の鋭い匂いと、腐敗した花のような甘ったるい香りが混ざり合う。彼女は完全に背を敵に向け、ルイを覆い包むように身を寄せた。
彼女らの戦いには、もう人間の限界は関係ない。琴葉の超高速移動、異形たちの一瞬での魔力収束──すべてが、生の限界を超越した次元の戦いだ。
(──負けてたまるか……!)
ルイの思考が、本能的な怒りに変わる。
そして、空に何かが投影された。
岩石ではない。燃え盛る"何か"だ。直径十メートルを超える質量が、空間そのものから滲み出るように形成される。
周囲の雪は一瞬で存在を否定され、蒸発すら許されず、ただ消える。白い世界が、一瞬の隙もなく灼熱の絶対領域へと塗り替えられる。熱波が雪面をなぞり、水蒸気の爆発的な奔流が渦巻く。
音がない。すべてが光と熱の暴力だけだ。その質量がゆっくりと──いや、ゆっくりに見えるだけで、実際は信じられない速度で落下してくる。重力さえも歪んでいるようだ。
ルイは──そこから目を離した。落下する灼熱の巨塊から、琴葉の震える背中から、その先に見える異形たちを、一瞬で捉えた。三十の魔力の塊が、完璧な同期で破滅の術を構築している。彼らの体内では、秩序だった魔力の流れが精緻に脈打っている。
だが、秩序ほど、脆いものはない。
「《暴走》──!」
ルイの深緑の瞳に、明るいライムグリーンの強烈な煌めきが宿った。
視界が一瞬で切り替わる。色彩が消え、世界が粒子の奔流として現れる。周囲のほとんどの魔力は上空のあの魔法に消費されたのか、非常に視界はクリアだった。三十の異形たちの体内を流れる魔力の奔流が、よく見える。黒白の、不自然に美しい光の川が、それぞれの体という器の中で完璧な秩序を保って循環している。
それが、ルイの標的だ。
意識が拡がる。一つの意志が、三十の魔力回路に同時に触れる。指先で蜘蛛の糸を操るように、いや、神が世界の理を捻じ曲げるように。
強制的に流れを逆転させる。秩序だった循環を、突如として狂わせる。隣り合う流れを無理やり絡ませ、衝突させる。調和していた振動を、不協和音で満たす。
魔法士たち──いや、魔力で構成された異形たちの体が、一瞬で理解を超えた現象に襲われる。
──そして、岩石が落ちてくるよりも前に、一斉に彼らの存在が爆散した。
音ではなく、光だった。三十以上の異様な光の花が、吹雪の闇に同時に咲き乱れる。一つの花が深紅に染まり、次の花が銀灰に輝き、また次の花が翡翠色にきらめく。それぞれが生前の瞳の色を反映しているようだ。
肉体が──いや、魔力で形作られた擬似的な肉体が、内側からの暴走に耐えきれず、粉々に崩壊する。破片は雪に吸い込まれる前に蒸発し、魔力の残滓だけが微かにきらめいて消える。灼熱の岩石もまた、構成されていた魔力の秩序が根底から破壊され、陽炎のように揺らめき、あとかたもなく消え去った。




