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第五十五話 空洞の部屋と白き闇への一歩 - 3

「どこにもいない……」


 ルイは一度立ち止まり、深い溜息を吐きつつ、空に浮かぶ月を仰いだ。白い息が冷たい空気の中でゆらめき、すぐに消える。肩に疲労が重くのしかかる。

 試刃院でも診療所でも、彼女の気配は感じられなかった。他のところも見に行ってもいいが、橋を渡り様々な場所を探し回るのは、少し疲れる。それに、時間が経てば経つほど、琴葉は遠ざかっていく気がした。


 ルイはそっと目を閉じた。建物を探すだけでは不十分だろう。澄幽には建物よりも数も面積も大きな墓地も、幻想の林もある。

 それであれば──澄幽全体の星溶粒子を感じ取ろうとした。自分の能力を、最大限に研ぎ澄ます。



 住人たちの気配は、まだすべて食堂にあった。珠桜の深く静かな波動──悠久の時を思わせる、落ち着いた輝き。律灯の小さくて温かい輝き──揺らめく炎のように優しい。シアの煌めくような粒子の煌めき──若い生命の躍動を感じさせる鮮やかさ。それらより鮮明さは劣るが、藤崎たち保護対象のものも感じ取れる。それぞれが個性のある星溶粒子の気配を放っている。

 しかし、琴葉に宿っているはずの魔力の塊の気配は――澄幽のどこにもない。


(もしかして、外に出たのか?)


 その考えが頭をよぎった瞬間、背筋が冷たくなった。


 これもまた、普段よくあることではある。夜の荒野は、生命活動の維持が対策をしない限り不可能なほど寒く、星骸の活動が活発になり、危険だ。それでも、琴葉は「寒さは関係ない。活発になるのは、見つけやすくて好都合」と一人で外に出る。夜は異能者や魔法士の活動が少ないことを逆手に取り、目立つような魔法を使い星骸をおびき寄せ、一掃する。それが彼女にとっての、"夜の散歩"だった。


 だが、今日の彼女は普段とは明らかに違う。あの魔法士たちに対する躊躇い。戦場での動揺。再生後の脆さ。

 "少ない"とはいえ、再び魔法士と遭遇する可能性はある。昼間の集団が偵察部隊だったとしたら、夜には本隊が動き出すかもしれない。今の状態で、夜の荒野に一人で出るなど──



 食堂に戻り、響哉やシアを呼ぼうと思って、一歩踏み出した。仲間を呼ぶべきだ。それが当然だ。


 しかし足が止まる。


 今、この夜の時間に外に出るなんて、危険すぎると、皆が止めるだろう。琴葉は何か目的をもって外に出たのだろうし、琴葉の居場所も辿れない。みんなを巻き込む理由があるのか? 琴葉自身が望んでいるのか?

 でも、嫌な胸騒ぎがした。昼間の琴葉の様子――あの躊躇い、震える手、そして「いつか話す」という言葉。それが、別れの言葉に聞こえてしまった。


 本当は頼るべきだ。仲間なのだから。だが、響哉に割り込まれることでうやむやにされるのは嫌だ。シアは、今は琴葉の再生の光景に衝撃を受けたばかりで、無理をさせたくない。珠桜と律灯は、確実にルイを止める。「無茶はするな」と。


 ルイは拳を握りしめた。


 それでも行く。彼女が一人で危険に直面しているかもしれない。自分が「澄幽を守る」と言った以上、琴葉もその対象だ。



 自室に急いで戻り、机の上に走り書きのメモを残した。インクの滲んだペンで、勢いよく、しかし確かな筆圧で書く。文字は乱れているが、意志ははっきりと伝わる。


『琴葉を探しに外に出ます。

 魔法式で、活動できるところまで。

 厳しそうだと感じたらすぐに戻ります』


 食事の前に既に入浴は済ませており、外に出るときとは違うゆったりした服を着ていたが、それを一度脱ぎ戦闘服を着直す。黒い機能的な生地が肌に密着し、動きを妨げない。縫い目は補強され、関節部には伸縮性のある素材が使われている。

 ショルダーホルスターを確認し、双銃が確実に収まっているのを触覚で確かめる。腰の予備弾薬ポーチには核弾がきちんと収まっている。すべてがいつもの位置にある。

 最後に、ポケットに琴葉が以前くれた魔法式が編みこまれた小さな布製の袋を忍ばせた。魔法士たちの国に伝わるという技術で、魔力を加えれば即座に魔法が発動できる状態まで事前に準備されたものだ。

 体温を維持するためにと渡されているこれは、原理的には使い捨てカイロに近い。振れば、内部に刻まれた"式"が環境中の微かな魔力に反応し、一定時間、熱の膜を体に纏わせる。

 ルイの体質や必要熱量に合わせて、琴葉が一つひとつ丁寧に調整して作ってくれたものだ。効果は一つにつき十分程度。それ以上は式の構造が崩れ、魔法が暴走する危険があるらしい。



 扉を開ける。夜の冷気が一気に顔を撫でる。寝室の温もりが一瞬で剥ぎ取られ、肺が冷たい空気で満たされる。偽りの星空が頭上に広がり、無機質に、しかし残酷なほど美しく瞬いている。その光は何も温めない。ただ闇を照らし、孤独を際立たせるだけだ。


 ルイは門まで駆けて、一度体を温めた。そして、その魔法式を握りしめ、軽く振って発動させた。袋の中で何かがかすかに動き、ほんのりとした温もりが、掌から腕へ、そして全身を優しく包み込む。琴葉の魔力の気配が微かに感じられるような気がする。鋭く冷たい彼女の魔力が、今は優しい温かさに変わっている。彼女の気遣いが、今この瞬間、自分の命を繋いでいる。


 ルイは静かに澄幽の外へ踏み出した。門をくぐり、歩を進めていく。徐々に澄幽の幻影が消えていき──足音が変わった。砂利の音から、ザク、という非常に小さな音へ。

 荒野の夜風が、コートの裾を激しく揺らす。外は吹雪だ。昼間の厚い雲が夜になって雪を降らせ始めたのか。白い雪片が渦を巻き、視界を遮る。珠桜から貰ったゴーグルをしっかりとつけ、レンズの上を雪が流れ落ちる。

 視界を無理に頼ろうとせず、落ち着いて星溶粒子の気配を辿ることにした。目を閉じ、意識を拡げる。吹雪の中を漂う微かな粒子の流れを感じ取る。琴葉の気配を探す。あの冷たく、鋭く、しかし今は乱れているかもしれない魔力の痕跡を。



 時間との勝負。



 ルイはその闇へ、吹雪へ、一歩を踏み込んだ。足跡はすぐに雪に埋もれ、消える。後戻りはできない。進むだけだ。


 琴葉を探す。自分のことを守ってきてくれた仲間を、今度は自分が守る番だ。

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