第五十五話 空洞の部屋と白き闇への一歩 - 2
ルイはまず、彼女が澄幽で拠点として使っている部屋へ向かった。以前、シアについていって、彼女を食堂へ連行する手伝いをしたときに一度来たことがある。彼女の部屋は居住棟の一番奥にあることを、ルイは知っていた。廊下の終わりにひっそりと存在する、他の部屋より少し小さい扉。色は褪せた濃紺で、取っ手は古びた真鍮製。
建物全体の造りはルイとシアが暮らす居住棟と同じだが、雰囲気が全く違う。
足を踏み入れた瞬間、床が軋む音がやけに大きく響いた。この廊下は普段誰も通らないのだろう。その軋み音が、不気味なほど長く反響する。以前はシアの明るさに押され、部屋の不気味さを深く考えずに済んだが、今は一人だ。ぞわりと鳥肌が立ったのも、仕方ない。
階段と、何個もある扉をスルーして、最奥を目指す。壁にはかつて絵が掛けられていた跡があり、燭台が取り外された後の黒い染みが残っている。ここにはたくさんの人が暮らしていたと聞くが──今は誰もいない。扉についているフックに、部屋の主を表すための札は一つもかかっていない。もう、それも必要なくないほどに、ここで今も生きる人間は少ない。
そう考えているうちに、彼女の部屋の前に辿り着いた。
少し緊張するが、手を軽く握り、目の前の扉を三回叩いた。コン、コン、コン──音が空洞に響く。
──だが、数秒経っても、返事はなかった。
「琴葉?」
声を少し大きくして。今度は少し強めに。それでも無反応だ。廊下の闇が深く、自分の息の音だけが響く。
ルイは耳を扉に近づけた。中の気配を感じ取ろうとするが、何もない。完全な静寂。
ルイは申し訳なさを感じながらも、慎重にドアを開けた。取っ手が冷たく、滑らかに回る。鍵はかかっていない。彼女は侵入を拒む気さえなかったのか、それともこの部屋に守るべきものなど何もないと思っているのか。
──そこには、殺風景な部屋が広がっている。
部屋に入ってすぐのところに、古びた黒漆の箪笥が一つ。漆はところどころ剥がれ、木地が覗いている。その隣に、木製のハンガーラックがある。そこには彼女の白いドレスとその上にいつも羽織っているジャケットが数着、整然と掛けられていた。今日着ていた破れたものはなかった。洗濯済みか、あるいは処分したか。
ベッドもあったが、シーツには皺一つなく、真っ白なまま。枕はふっくらとしたまま、誰も使った形跡がない。布団はきちんと畳まれ、端に置かれている。四隅が完璧な直角を保っている。彼女は床なんかで寝ているのだろうか。いや、死者に睡眠は必要ないと言って、彼女は寝ていない可能性もある。このベッドはただの飾りか、彼女の意思とは別に置かれた"無駄"なのかもしれない。誰かが厚意で用意した、生者らしさを演じるための小道具。
この部屋は、琴葉が「生活」している場所というより、仮の置き場にすぎないようだった。荷物を置く場所。着替える場所。戦いに出るための準備場所。それ以上でも以下でもない。
ここには彼女の本質は何もなかった。思い出の品も、大切なものも、何一つ。
ルイはそっと扉を閉め、部屋を後にした。閉める時も、軋む音が響く。冷たい空気が背中にまとわりつき、廊下に出てもなかなか離れない。
この空洞のような部屋が、琴葉の内面を象徴しているような気がした。整然とし、清潔で、必要なものだけがあり──そして、何よりも寂しい。
◇◆◇
ここにいないなら、とルイは試刃院に向かった。あの夜、響哉と話していた場所。もしかしたら、彼女が何かを思い詰めるときに立ち寄る場所だったのかもしれない。
広い庭を横切る。夜の庭は静かで、池の水面に偽りの月が揺れている。その光は本物の月のように冷たく、水の動きに合わせて細かく砕け、また集まる。庭石の影が長く伸び、まるで何かが潜んでいるようだ。
試刃院の扉は開いていた。わずかな隙間から闇が覗いている。中は闇に包まれ、ろうそくの灯りもなく、ただ月明かりが窓から細長く差し込むだけ。その青白い光の筋の中で、塵の粒子がゆらゆらと舞い、まるで時間そのものが静止しているかのようだ。
「琴葉?」
声を潜めて呼ぶ。名前が闇に吸い込まれていく。応答はない。ただ自分の声の反響だけが、高い天井からかすかに返ってくる。
中へ一歩踏み入れる。足音が木の床に響く。剣が掛けられた壁、刀架に整然と並ぶ日本刀、鍛錬用の床——すべてが静かに佇み、主人を待っている。しかし今、それらを使う者は誰もいない。
あの夜、琴葉が響哉に詰め寄られ、床に落ちた場所にも何の痕跡もない。
彼女の気配はどこにも感じなかった。この空間には、琴葉の鋭い緊張感も、深い絶望も、今は何も残っていない。ただ、古い木と鉄の匂い、そして長い時間が積もった静寂だけが満ちている。
ルイは肩を落とし、そっと扉を閉めて出た。閉まる音が庭に響く。
◇◆◇
次に診療所に行った。医師の葛城が薬草を調合するあの場所。
琴葉は薬の知識があるようで、たまに訪れていることをルイは知っている。特に漢方の知識に富んでいるようだが、ルイはあの苦味や香りが苦手で、一度もそれをもらったことはない。
ランプが一つ灯っているだけで、中は薄暗かった。薬瓶が棚に整然と並び、ガラスが微かに光を反射している。瓶の中には乾いた薬草や色のついた液体が入っており、ラベンダーやカモミール、そしてもっと鋭い薬品の香りが混ざり合って漂う。
机の上には、今日使ったのか、すり鉢がそのままになっている。乳棒が横に置かれ、底には緑色の粉末が残っている。しかし、やはり琴葉の気配はない。
葛城自身の姿もない。先ほど食堂にいたが、まだ戻ってきていないようだ。ということは、他の面々も、まだ解散していないのだろう。
ルイは入り口で立ち止まり、最後にもう一度中を見渡す。棚の影、机の下、カーテンの後ろ——どこにも人の気配は感じられない。ただ薬草のささやきのような、かすかな匂いだけが、不在を告げている。




