第五十五話 空洞の部屋と白き闇への一歩 - 1
その日の夕食、琴葉は食堂に姿を現すことはなかった。
藤崎が用意した夕食は、いつも通り琴葉の分も含めて温められていた。彼女の席には、白米と小さな椀物、焼き魚が丁寧に並べられ、箸は真っ直ぐに置かれている。しかし、結局誰にも手つかずのまま、湯気が細くなり、表面に薄い膜が張っていった。
彼女が食事を摂らないのは、よくあることだ。むしろ、少し前まではそれが当たり前だった。死者に栄養は必要ないから。空腹も渇きも感じない。自分が消費するのはもったいないことである。琴葉はずっとそのように言い続けていた。
だが、最近はシアに強引に連れられ、「琴葉ちゃんと一緒に食べるのが楽しい」と説得され、渋々食堂を訪れる日があった。食事は断ることももちろんあるが、頻繁に顔を見られると、藤崎が嬉しそうにしていたのに。
食堂に集まった者たちの間には、微妙な緊張が漂っていた。静かな食事の音だけが響く中、誰もが何かを考えている。シアは琴葉の空いた席を何度も見つめ、箸の動きが鈍い。彼女のアメジスト色の瞳には、心配と戸惑いが浮かんでいる。
珠桜は静かに茶を啜りながら、何かを考え込んでいるようだった。今日の出来事について、珠桜にも当然共有されている。それ以降、ずっとこの表情だった。優雅ながらも、どこか遠くを見つめるような目。
「珠桜さん」
ルイが口を開いた。自分の声が、静かな食堂に意外にはっきり響く。食器の音が一瞬止み、全員の視線がルイに集まる。シアが箸を持ったままふと顔を上げ、響哉がゆっくりと茶碗を置く。
「ん? なんだい、ルイ君」
珠桜がゆっくりと視線を向ける。いつもの慈愛に満ちた表情だが、その奥に深い疲労が滲んでいる。目元の僅かなしわが少し深く刻まれ、口元の微笑みがどこか力なく見える。
今日の出来事が、彼にも重くのしかかっているようだった。
「琴葉について、教えてくれませんか?」
その問いに対して、珠桜は一瞬、箸を止めた。漆器の箸先が空中で微かに震える。
直球な問いが、彼を困らせるということはルイも予想できてていた。だが、長く戦場で琴葉と時間を過ごしたであろう響哉が駄目なのであれば──次は、指導者である珠桜だと思っていた。
しかし、彼は少し悩むような素振りを見せた後、申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね。彼女のことを……彼女の気持ちを、勝手に話すのは……ちょっと気が引けるかな」
その言葉には、深い敬意と配慮が込められている。琴葉を一人の人格として尊重し、彼女の内面を他人が語ることを避けている。たとえそれが琴葉のためであっても、本人の意思を超えて秘密を明かすことはしないという、珠桜なりの倫理だった。
そう言われてしまっては、追求しづらい。ルイは唇を噛んだ。もどかしさが胸を締め付ける。珠桜がそう判断したからか、律灯を見ても、申し訳なさそうに眉をハの字に歪めて、黙り込んでいた。
「でも、一つ言えるのは……」
珠桜が静かに続ける。視線は茶碗の中の緑茶の水面に注がれ、そこに映る自分の顔を見つめているようだ。湯気がゆらゆらと立ち上り、彼の表情をぼかす。
「彼女を気遣って、それで私たちが命を落としてしまうのは……違う、ということかな」
謎めいた言葉だ。だが、その言葉の重みは感じる。胸に留めておくことにした。
そのやり取りのあと、ルイは琴葉の居場所を尋ねた。
その場にいた全員が、顔を見合わせた。微妙な空気が流れる。藤崎が心配そうに首を振り。珠桜と律灯が一度顔を見合わせてから、「見ていない」と口にする。シアが不安そうにルイを見つめる。
響哉はご飯を最後にかき込み、茶碗を置くと「んー、知らねえな」と投げやりに答える。だが、その銀灰色の瞳は一瞬、窓の外の暗闇を見た。何か知っているのか、あるいは予想がつくのか。
「後で追及しにいく」。昼間に彼女に宣言したあの言葉。肩を掴み、コートをかけ、「逃げるなよ」と言ったあの瞬間。それもまだ実行していなかった。時間が経つほど、琴葉はまた心の鎧を固めるだろう。
全ては自分のエゴでしかないことを、ルイは自覚している。それでも、無性に彼女を探し出し、ここに連れてくる必要があると思った。
「……俺、探してきますね」
ルイは席を立った。椅子が後ろに引かれる音が食堂に響く。食器を手に取り、流し台へ運ぶ。藤崎が「あら、いいのよ、置いていって」と言うが、ルイは丁寧に頭を下げる。
「藤崎さん、ごちそうさまでした。今日もすっごく美味しかったです」
丁寧に手を合わせて感謝を伝える。彼は食器を洗い場に置き、振り返る。食堂の明かりの中に、心配そうなシアの顔、飄々としながらも何かを考えている響哉、深く考え込む珠桜の姿がある。
食堂を出るときには、振り返って「おやすみなさい」と手を振り、静かに扉を閉めた。木の扉がぱたんと音を立てて閉まる。




