第五十四話 冷刃纏いし鍍金は剥がれ
ルイとシアが駆け寄る。足取りは慌てており、時々、足元で徐々に広がる漆黒の液体に足を取られそうになる。それは粘性が高く、靴底にまとわりつく。最後には、服が汚れることも気にせずに、その黒い海に膝を突き、座り込んだ。
冷たく、粘ついたそれは、見た目は異様だが、触感だけなら人間の血液となんら変わらない感触で、思わず吐き気が上がってきた。金属臭と、腐敗した花のような甘ったるい匂いが混ざり合っている。
琴葉はまだ意識があった。漆黒の液体が広がる地面の中心で、彼女は片腕を失い、腰は脇腹から左足の付け根あたりまで、大きく抉られた状態で横たわっていた。
失った右腕の付け根からは、肉の断片と、黒い液体が滴り落ちている。腰の傷口からは、死んだ時に変色したのであろう"中身"が、ぐずりと溢れ落ちそうになっている。彼女の左手が、必死にそれを押さえようとしているが、指の間から黒いものが滲み出る。
顔は蝋のように青白く、汗ではなく冷や汗のようなものが額に浮かび、髪がその液体で顔にへばりついている。呼吸はない。彼女には呼吸という機能は存在しないからだ。しかし、何かが動いている感覚はある。生命ではなく、存在そのものが痙攣しているような。
ルイとシアは、何も言えなかった。震える手を伸ばすが、どこに触れていいかわからない。触れば傷口がさらに崩れそうだ。傷口からはあの異様な液体がじわじわと、しかし確実に滲み出ており、周囲の黒い海がさらに広がっていく。
吐きそうだ。胃が痙攣し、喉の奥が酸っぱくなる。しかし、それ以上に胸を締め付けるのは無力感だった。
何かしてやらないと。彼女は死んでしまうのか?
いや、彼女はすでに死んでいる。では、この状態は何なのか? 消滅? 消滅に向かっているのか?
そのとき、深紅の瞳がかすかに焦点を結び、二人の姿を捉えた。琴葉の唇が微かに動く。声はかすれ、一音発するたびに、喉の奥で液体が沸き立つような、ゴロゴロという不気味な音が伴った。
「……だい……じょう……ぶ……」
その言葉を、ルイはどう受け止めていいかわからなかった。明らかに「大丈夫」ではない。しかし彼女は生きている、いや、存在を保っている。もう自分は死んでいるのだと話す彼女が、再び「死ぬ」とはどういうことなのか。死者の死。二度目の死の定義とは、何なのか。
背後から、重い足音が近づく。砂利を踏みしめる音。響哉だ。彼の顔は無表情で、感情の影が見えない。しかし、その銀灰色の瞳の奥には、沸騰しそうな何かが潜んでいる。顎の筋がピンと張り、拳がぎゅっと握りしめられている。
「……援軍が来るかもしれない。ここに留まるのは危険だ」
響哉の声は平坦で、冷徹に、事務的な指示のように響く。しかし、その声の端にほんのわずかな震えがある。怒りか、それとも別の感情か。
彼は屈み、片腕で琴葉を抱き上げた。その動作は──不機嫌なように、乱暴に見えた。腕を失った琴葉の体を無造作に引き寄せ、自分の胸に押し当てる。
琴葉が微かに抵抗した。失った腕の付け根が震え、残った左手が響哉の胸を押そうとする。力はほとんどない。
「……じぶん、で……」
「黙ってろ」
響哉の言葉は鋭い。
彼は静かに目を瞑り、澄幽までの道のりを鮮明にイメージした。足元から微かな魔力の光が広がり、空間が歪む。転移魔法だ。普段は使わない、負担の大きい魔法だが、今はそれどころではない。魔力が動いた影響で、空気が重くなり、耳が詰まったような感覚になる。
「ルイ、シア、近くに来い」
名前を呼ばれた二人が寄り集まる。次の瞬間、視界がぐらりと揺れる。地面が抜ける感覚。足の裏の感触が消え、体が宙に浮くような錯覚。一瞬の暗転──闇が視界を覆い、音が消え、重力の感覚が乱れる。
そして、再び足に体重がかかる。違う地面の感触。冷たい石の床。澄んだ空気。
澄幽の入口だ。外界の重く淀んだ空気から、澄幽の清涼で少し冷たい空気へと変わった。周囲に見慣れた美しい林が広がっているが──今は、その緑が、色褪せて見える。木々の葉が微かに揺れる音も、鳥のさえずりも、すべてが遠く、現実感を失っている。
琴葉が、僅かに響哉に抱えられたところで身じろぎした。彼女の残った左手が、響哉の肩をつかみ、今度は確実に押した。
「……みんなに……見られたく、ない……」
声はか細いが、はっきりとした拒絶だ。震えているが、意思は強い。
「心配……かけたく……ない」
「わかってる」
響哉はそっと琴葉を床に下ろす。石畳の上に、彼女の黒く染まった破れたドレスが広がる。布地が血のような黒い液体で重たくなり、床にべっとりと貼り付いている。
彼は姿勢を低くし、琴葉と目線を合わせる。大きな体が折り曲げられ、銀灰色の瞳が深紅の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「だから、ここでやれ。時間はない」
琴葉はゆっくりとうなずく。そして目を閉じる。長い睫毛が青白い頬に影を落とす。彼女の呼吸がないことが、この瞬間さらに不気味に感じられる。ただ、胸の動きがないだけなのだが。
次の瞬間、信じがたい光景が始まった。
彼女の傷口から、微かな魔力の粒子が立ち上る。黒白の煌めき。
腕の切断面から、白骨が伸びる。それが神経、筋肉、血管、皮膚と順に覆われ、織りなされていく。すべてが内側から外側へ、秩序立って進行する。まるで、彼女の体内に完璧な設計図が存在し、それに従って肉体が再構築されているかのようだ。自然の治癒をはるかに超えた、意図的で精密な再生だ。
ルイは息を呑んで見つめていた。喉が詰まり、言葉が出ない。この光景は美しくもあり、不気味でもあった。生命の神秘というより、何か別の原理で動く機械の修復のように見える。
一方でシアは膝が、ついに耐え切れず崩れた。大きなアメジスト色の瞳から、涙がとめどなく溢れ、石畳にポタポタと落ちてシミを作った。彼女は琴葉の再生する腕を見つめながら、声を震わせて尋ねた。
「琴葉ちゃん……痛くないの……?」
琴葉は目を開けず、微かに首を振る。顔には依然として表情がない。蝋細工のように美しく、そして無機質だ。
「……感覚は……ある。でも……痛みとは……違う」
彼女の声は、どこか遠くを見ているようだった。再生の過程で、彼女の表情には苦痛の皺一つ刻まれていない。だが、その代わりに深い疲労──魂の消耗のようなものが滲み出ている。青白い肌がさらに色を失い、まつ毛の下に薄い影ができる。
シアはバッと視線を逸らし、そして横に広がる林の方へ、半ば這うように駆け込んだ。ゲホ、ゲホと苦しそうに咳き込む音が聞こえた。ルイと響哉はそっと視線を逸らした。
腕がほぼ元通りになった頃、左半身も元通りになりつつあった。筋肉が編み込まれ、皮膚が張られる。すべてが終わるまで、十分ほどかかったが、その時間は、その光景を初めて見るルイにとっては永遠のように感じられた。
琴葉が目を開けた時、彼女の体は一見、無傷に見えた。白く滑らかな肌に、傷跡一つない。ただドレスの布地までもはさすがに再生されておらず、腕の部分は大きく破れ、腰のあたりは布がなくなっている。彼女は困ったように残っている布の端と端を摘まんだ。その仕草は、どこか少女のように無力で、さっきまで戦場で魔法士たちを無惨に絞め殺した戦士とは別人のようだった。
「……着替えてくる」
琴葉がかすかに呟く。そして──本当に、何事もなかったように、確かな足取りで立ち上がり、自分の荷物がある澄幽のはずれにある小屋へ歩き出そうとした。その動きには、さっきまで倒れていたという痕跡が一切ない。まるで、この場から一刻も早く消え去りたいかのように。
「琴葉」
ルイが声をかける。琴葉の足が一瞬止まる。ゆっくりと彼の方を見る。深紅の瞳には、疲労の色がまだ濃く残っている。
「あの魔法士たち……何か、気になることでもあったのか?」
直接的な質問だ。ルイはもう回りくどい問い方をしない。琴葉の瞳が一瞬、かすかに揺れる。水面に石を投げ込んだ時のような、小さな波紋が広がる。彼女は口を開こうとするが、言葉が出てこない。唇が微かに震え、喉が動く。声帯が震える前にかすれた息が漏れる。
数秒間の沈黙が流れる。林の風が葉を揺らす音だけが聞こえる。響哉は少し離れた場所で立ち尽くし、銀灰色の瞳で二人を見つめている。何も言わない。
迷って、出した答え。
「──いつか……すべて話すわ。貴方が……その時、まだ……生きていたら」
その言葉は、約束というより、ただの別れの言葉のように響いた。先延ばし。あるいは、永遠に語られないことへの免罪符。
琴葉は踵を返し、澄幽の奥へと歩き出した。その背中は、さっきまであれほど無力に倒れていたとは思えないほど、まっすぐだった。だが、そのまっすぐさがむしろ不自然だった。傷ついた者が背筋を伸ばしすぎると、かえってその傷の深さが透けて見える。
彼女は内面で、何かを深く傷つけている。肉体以上の何かを。あの一瞬の躊躇い、震える手、こちらを見たあの瞬間の視線――それらすべてが、琴葉という完璧な戦士の仮面の下にある、壊れやすい何かを露呈していた。
──その真相は、いつ引き出せる?
また同様のことがあったらどうする。琴葉の状態はいつ回復する?
響哉から情報を引き出す? それは無理だ。あの男は、必要以上に何も語らない。
真実を掴むのは、自分の手で。今、ここで。
決意が固まる。ルイは地面を蹴って、早足で琴葉の真後ろまで、すぐに近付いた。今修復したばかりの右肩を──再び、壊すのではないかというくらい、全力で掴んだ。指が白い肌に食い込み、冷たさと、わずかな弾力が伝わる。死者の肌は、生きている人間のそれより少し硬い。
(……こうでもしないと、コイツは止まってくれない)
琴葉が振り向く。驚いたような、そして少し痛みをこらえたような表情が一瞬浮かぶ。深紅の瞳が大きく見開かれる。
「……何?」
「……逃げるなよ」
ルイの声は低く、渋い。目は琴葉をまっすぐ見つめている。
「後で追及しにいく。待ってろよ」
ルイの表情に浮かぶのは──心配ではなく、怒りだった。それを見て、琴葉の表情に動揺が走る。彼女はルイがこんな顔をするのを、初めて見たかもしれない。
ルイはコートを脱いで、雑に琴葉の肩にかけた。彼女の破れたドレスを隠すように。華奢で、ルイよりも僅かに背も低い彼女には、それは少し大きそうだった。布地の温もりが、冷たい彼女の肌に伝わる。
そして、「これ以上は話さない」と言わんばかりに、ふんっと鼻を鳴らしながら体の向きを変え、琴葉から目を逸らした。
彼の中での優先順位は変わらない。まずは、誰よりもシアだ。今、シアは林の中で崩れ落ち、苦しんでいる。琴葉は少なくとも、一応は「元通り」になった。だがシアは──あの光景を見て、心が傷ついたままだ。
ルイは琴葉をもう一瞥すると、林の方へ足を向けた。無性にイライラする。琴葉の秘密も、響哉の本心も、すべてがもやもやしている。でも今、まず確認すべきはシアの状態だ。背中に琴葉の視線を感じるが、振り向かない。彼女がどう思おうと、今はシアが第一だ。
林の中では、シアが木の根元にうずくまり、肩を震わせていた。葉の隙間から漏れる光が、彼女の綺麗な白髪をぼんやりと照らしている。ルイが近づくと、彼女が顔を上げる。目は赤く腫れ、頬には涙の跡が光っている。アメジスト色の瞳が濁り、恐怖と悲しみでいっぱいだ。
「ルイ……琴葉ちゃんは……?」
「大丈夫だよ。もう元通り」
ルイはそっとシアの前にしゃがみ、彼女の肩に手を置く。手はまだ冷たい。琴葉の肩を掴んだ時の感触が残っている。あの冷たさと、今シアの肩に伝わる温もり。生と死の違いが、手のひらで感じられる。
「シアは? 大丈夫か?」
シアはうなずくが、そのうなずきは弱々しい。彼女はルイの腕に飛び込み、小さな体を震わせる。ルイは何も言わず、そっと背中をさする。彼女の髪から、涙と少し汗の混じった匂いがする。
「怖かった……あの魔法士たちも……琴葉ちゃんも……全部怖かった……」
「わかってる。でも、もう終わった」
林の向こうで、琴葉が小屋へと消えていく足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。




