Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "朝霧" - 3
脱衣所で、二人は静かに服を着ていた。湯上がりの肌に冷たい空気が触れ、汗の気持ちよさが少しずつ引いていく。
「俺さ、ずっとガキの頃から珠桜様に付き従ってたから、大人たちにバカにされることも多かったんだよ。未熟者、まだ小僧のくせにって」
響哉は清潔な白いタオルで濡れた紫檀色の髪を拭いながら、何気ない口調で語り始めた。
「でも、バカにされるのは苛つくだろ?それに、珠桜様の格も下がる。それが嫌で、さっきみてえな演技を覚えたってわけ」
ルイは黒いズボンのベルトを通しながら、疑わしげに響哉の横顔を見た。
話の筋は通っている。確かに、珠桜という高位の存在に仕える若き護衛が、周囲から軽んじられることはあっただろう。その苛立ちを演技という武器で克服する──筋は通っているが、あまりに都合が良すぎる。まるで、予め用意しておいた説明のようで、先ほどのあの危険な気配をすべて覆い隠すには物足りない。
「本当かぁ……?」
ルイの声には、隠せない疑念が滲んでいた。脱衣所の木の壁、鏡の縁の古びた金属、床のタイルの継ぎ目──どこかへ視線をやりながら、本心を探るように問うた。
「ホントホント」
響哉は軽く手を振り、鏡台の前まで移動した。そこに置いてある黒いドライヤーを手に取り、スイッチを入れる。低い唸り音が脱衣所に響く。彼は肩につくか、つかないか、くらいの少し長めの髪を、無造作に乾かし始めた。熱風が紫檀色の髪を揺らし、湯気の残る空気をかき混ぜる。
「わかった……信じるよ」
ルイはそう言ったが、その言葉は半分嘘だった。内心では完全には納得していなかった。
この男の言葉をそのまま受け取ることは、どうしてもできない。響哉という男は、常に幾重にも意味を重ね、本心を霞ませる霧のような存在だと、段々と分かってきてしまったから。
ただ言葉を投げていても、ドライヤーの唸りにかき消され聞こえない。ルイも手早く新しいシャツを着て、髪を濡れたタオルで拭きながら響哉に近付いた。タオルの冷たい感触が首筋に触れ、少しだけ目が覚めるようだった。
「で、琴葉の様子がおかしい原因、知らないか?」
ドライヤーの音に消されないよう、少し声を張った。また別の場所に置かれた鏡に映る自分の顔が、どこか必死に見えた。
「んー。ガチで疲れてんだよ、アイツ」
響哉も嫌がる様子はなく、声を大きくして返答した。ドライヤーを動かす手は止めない。
「あの琴葉が……?」
「ああ。疲れて、頭がおかしくなってる」
響哉の言葉は、軽いようでいて重かった。
「もしかして、シアのことか……?」
ルイは思わず口にした。最近の琴葉の視線が、特にシアに向けられているように感じたからだ。
厳格に、物理法則や世界の理に則った上で構築しなければならない魔法では不可能であろうことを、簡単にやってのける、偽物のシアの魔法——異能の力。それへ対する、羨望と焦燥。琴葉の深紅の瞳には、時に自分でも説明できない複雑な感情が渦巻いているようだった。
「ン? シアちゃん? なんかあったのか?」
響哉の眉がわずかに動いた。鏡に映る彼の表情には、一瞬だけ本物の困惑が走った。それは本当に知らないという反応のように見えた。あるいは、それほどまでに巧みな演技なのか。
──考えていてはキリがないと思い、ルイは後者の可能性は排除することにした。
「違うか。それならいいんだけど……」
ルイは小さく呟き、鏡台の近くに置かれた丸椅子を引き寄せて腰をかけた。木の椅子が軋む。
「なあ、ルイ君さ。話変わるんだけど……」
ドライヤーの唸りが続く中、響哉の声が不意に響いた。その音に紛れるように、軽薄な調子で投げかけられる言葉は──
「ルイ君は、誰かを守るために、人を殺すのは悪いことだと思う?」
軽薄な声と、その内容の対比に、一瞬思考が止まった。
朝の柔らかな光が小窓から差し込み、脱衣所の木の床に四角い光の斑を落としている。埃の粒子が光の筋の中でゆらゆらと舞い、湯気の残る空気が微かにきらめく。そんな穏やかで日常的な空間で、この質問はあまりに不釣り合いだった。ドライヤーの温風がルイの頬をかすめ、その人工的な温もりがむしろ生々しい現実を突きつけるように感じられる。
「……誰かを守るために……人を殺す」
ルイは舌の上で、その言葉の苦味を転がした。
ふと、父の最期を思い出す。珠桜の手にかかって消えた父の顔──苦悶の表情でもなく、安堵の表情でもない、ただ"終わり"を受け入れた虚ろな顔。珠桜にとっては、守るべき世界を壊しかねない男を、やむなく葬らなければならなかったあの瞬間。
「……どうして、今そんなことを?」
ようやく絞り出した言葉は、問いに対する答えではなく、またしても逃げのような返事だった。
鏡の前で、響哉はドライヤーを左手に持ち替え、右手で濡れた前髪をかき上げながら、軽く肩を竦めて見せた。その動きはあまりに自然で、無造作で、この重い問いとのギャップがかえって残酷だった。湯上がりの肌は少し赤みを帯び、肩の筋肉が滑らかに動く。彼はまるで天気の話をするように、生死の倫理を問うている。
「いや、ふと思ってな。ルイ君がこれから先、ずっと『守る』って言ってるからさ」
ドライヤーの音が背景に響き続ける。ブーン、という低く均質な唸りが、この会話に奇妙なリズムを与えている。響哉は鏡に映るルイを見つめたまま、髪の一部を指で梳きながら乾かし続けている。右手の人差し指と中指で髪の毛束をつまみ、ドライヤーの熱風を当てる。その動作は慣れたものだ。
行動と言動の不釣り合い──命の重さを問う言葉が、日常的な身だしなみの手入れと同時進行で語られる不自然さ。それがこの瞬間の不気味な現実感を増幅させる。
その言葉の裏には、もっと深い意味が潜んでいるように感じた。響哉は単なる哲学的な問いを投げているのではなく、ルイの覚悟を確かめているのだろうか。
ルイは膝の上に置いた手のひらを見つめる。湯上がりで指先が皺になっている。
「……場合によるかも」
声が乾いている。ルイは唾を飲み込む。
響哉はドライヤーを右耳の上にかざしながら、ゆっくりと上げている左腕の間からルイを見た。その姿勢はくつろいでいるように見えて、鏡に映る彼の銀灰色の瞳は研ぎ澄まされている。ドライヤーの熱風が彼の側頭部の髪を揺らし、その影が頬に揺れる。
「ほう? もっと詳しく」
促す声は相変わらず軽いが、銀灰色の瞳は真剣だった。ルイは膝の上で拳を軽く握った。タオルがだらりと床についていることには気付かなかった。
「悪人は、時に殺さなければいけないこともあると思う」
ルイは言葉を選びながら、ゆっくりと話し始める。父のことを考えながら。
「父さんは、世界に悪と判断されたから……珠桜さんが、その命を断ち切った。
これを、俺を悪いこととは思わない。全部、そういう事実が生まれてしまったから……仕方ないこととして、受け止める」
──もう少し、父と共に過ごす時間が長かったら、こういう納得の仕方をできなかったのではないかと、考えたこともある。もっと子供らしく、善悪を単純に分けていたかもしれない。
だが、今言った通りなのだ。世界にとって、父は悪だった。だから、仕方ない。
「あん時は世界に法律っつールールがあった。それを定めるヤツが明確にいて、その罪を裁く役割も明確にあった」
響哉が静かに続ける。ドライヤーをいったん止め、コードをほぐす。その手の動きはゆったりしているが、言葉は速く、鋭い。
「じゃあ、今は? もう、誰もそれを決められるヤツはいなくなったぞ」
カチ、とドライヤーの電源が再び入る。熱風の音が再開する。ブーン、という音が、響哉の言葉の余韻を引きずりながら空間を満たす。その音が、この問いの切実さを不思議なほど浮き立たせる。
ルイは深く息を吸う。脱衣所の空気は、湯気とドライヤーの熱で温かく、湿っている。
「……本当に、俺に聞くか? まだ外でちゃんと戦い始めたのは最近で……自分で言うのもなんだが、ひよっこだぞ」
ルイの声には、自嘲めいた響きが混じる。しかし響哉の答えは即座だった。
「うん。聞きたい」
ドライヤーをかける手を止めずに、彼はきっぱりと言った。鏡に映る彼の表情は、遊びではない。口元は緩んでいるが、目は鋭い。この不釣り合いな状況──ドライヤーの日常音と、生死の覚悟を問う会話の組み合わせが、かえってこの問いの本気度を高めている。響哉は、くつろいだ日常のふりをしながら、ルイの魂の奥底を覗き込もうとしている。
「なら……」
ルイは深く息を吸い、吐く。脱衣所の湯気の残る空気が肺に入る。
「悪かどうかは、分からない。どちらとも言えない」
一息置き、言葉を噛み締めるように。
「──でも、そういう生き方しかできない」
もう、ルイの手は誰かの命を奪ったことがある。ルイの武器は、血を吸っている。ルイの異能は、生きるための道具だけでなく──もう、殺すための道具となっている。
前髪の先端に水滴が一つ、ぽたりと落ちた。首筋を伝う冷たい軌跡。ルイは無意識に手を上げ、それを拭いながら言葉を続けた。
「俺は……シアを守りたい。澄幽のみんなを守りたい。そのために、もし誰かを殺さなきゃいけないとしたら……俺は、殺すと思う……というか……今までそうだっただろ? 曲げる気はない」
そこで、髪を乾かし終わったのか、響哉はドライヤーを止めた。腕を下ろし、彼はルイの姿を見下ろした。
「……ぶっちゃけ、悪かどうかなんて、考えたことなかったほどにはどうでもいいのかもしれない」
自分の声だけが響く脱衣所。壁から伝わる微かな水音、遠くで聞こえる鳥の声──すべてが、この告白を際立たせる。
一度言葉を切り、顔を上げる。ルイは鏡越しではなく、直接、響哉の瞳を見た。銀灰色の瞳が、動かずに自分を捉えている。
「守りたいものが、守れるなら」
最後の言葉が、静かな脱衣所に落ちる。
急に訪れた静寂が、ルイの言葉の余韻を際立たせる。脱衣所には湯気の残り香と、ドライヤーのわずかな温もりだけが漂う。光の筋の中で埃がゆらゆら舞い、時間がゆっくりと流れているようだ。
響哉はゆっくりと動作を再開する。ドライヤーを手に取り、コードを丁寧に巻き始める。黒いコードが彼の大きな手の中で滑らかに巻かれていく。一周、二周──その動作はあまりに日常的で、丁寧で、先ほどの重い問答がまるで夢だったかのようだ。まるで、朝の身支度の一環として、髪を乾かし、道具を片付けているだけのように。
コードを巻き終え、フックにかける。その一連の動作が終わると、彼はゆっくりと振り向いた。朝の光が彼の片側を照らし、もう片側を影に沈める。
「……へえ」
ただそれだけ。銀灰色の瞳に、何かが一瞬光ったような気がした。認められたのか、評価されたのか、あるいは──危惧されたのか。あるいは全部なのか。響哉の表情は読み取れない。口元は緩んでいるが、目は深く、何かを測っている。
彼は何も追加せず、脱衣所の扉に向かって歩き出した。革靴の音が木の床に響く。一歩、二歩。
背中越しに、投げやりなように声をかける。
「朝飯、遅れるなよ」
扉が開き、閉まる。パタン、という静かな音。
ルイは一人残され、自分の手を見つめた。この手はもう、迷わず銃を握り、引き金を引くことができる。守るために。その覚悟を、ドライヤーの日常音の中であえて問うた男の意図は何だったのか。
(……あれ、俺、結局何を聞こうとしてたんだっけ?)
琴葉のこと。彼女の変化の理由。それなのに、いつの間にか自分の覚悟を問われる側に回っていた。
(……うまいこと逃げられてしまった気がする)
ルイはため息をつき、流れるように響哉に片付けられてしまったドライヤーへ手を伸ばした。まだ温もりが残っている。彼はコードを解き始めた──今度は自分が使うために。黒いコードが滑らかにほどけていく。
朝から、ドッと疲れた日だった。




