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END OF HOPE:21xx - Last Call  作者: 久遠-kuon-
Interlude II: 21xx - Inhale Exhale
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Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "朝霧" - 2

 翠霞庵(すいかあん)の温泉に駆け込むのは、この朝の鍛錬の一番の楽しみだった。ミコの加護により疲労回復や再生効果のある熱い湯に浸かれば、疲れた筋肉がじんわりとほぐれていく。湯気が立ち込める中、響哉は湯船の端に寄りかかり、目を閉じてくつろいでいる。鍛え上げられた胸板に水滴が伝い、光っている。

 ルイも湯につかり、天井をぼんやりと見上げた。木造の天井から湯気がゆらゆらと立ち上る。体の芯から温まり、朝の冷えが完全に抜けていく。

 確かに厳しいメニューではあったが、それだけ力になっているということだ。できる日は一日も欠かしたことがないし、これからも欠かすつもりはない。

 湯の中から自分の手を見る。水に濡れて色が濃くなった肌の下に、血管が浮き上がっている。以前より確かに力強くなった。拳を握れば、かつてないほどの確かな手応えを感じる。この手で、銃を握り、ダガーを握り、守るべきものを守る──その実感が、少しずつだが確かに湧いてきていた。


「疲れすぎてねえか? 痛みがあったりするならさっさと言えよ。今日も外に出るんだからな」


 響哉が目を開けずにそう言った。湯に浸かったままの声は、いつもより低く、響きが柔らかい。


「大丈夫だ。痛みはない」


 ルイはそう答え、湯面を見つめた。自分の顔がゆがんで映っている。

 少し間を置いて、ルイは口を開いた。


「響哉さ……」

「ん?」

「最近、琴葉の調子が悪いだろ? アイツ、どうしたのかな……」


 湯の中で、響哉がゆっくりと体勢を変える。水がざぶりと音を立て、湯気が乱れる。彼は湯船の縁に肘をつき、ルイの方を見た。


「さあ? 疲れてるんじゃねえの」

「琴葉が……疲れる? 信じられないな」


 琴葉は死者だ。体温もなく、呼吸もない。そんな彼女が「疲れる」という概念に縛られるだろうか。あるいは、それは肉体ではなく、心の疲れなのか。

 そういう考えが脳裏を巡ると同時に──ある疑念が芽生えた。響哉はあの夜のことを、あくまで「見なかったこと」にさせようとしているのではないか。


 響哉のあの態度。試刃院で耳にした、普段とはまるで違う声──あの重く、冷たく、刃物の峰でこするような響き。あれは紛れもなく響哉の声だったが、ルイが知る"響哉"からはかけ離れていた。


 だから、つい、口に出してしまった。



「……あの時からだよな。響哉……お前が、試刃院で、琴葉と話してたとき」


 一瞬、湯場の空気が凍りついたように感じた。

 ピクリと、顔を拭いていた響哉の手が止まる。紫檀色の髪から滴る湯の雫が、ゆっくりと頬を伝い、顎から湯船の水面へ落ちる。ポトン、という小さな音。水面に描かれた波紋が、ゆらりと広がっていく。

 彼はゆっくりと、非常にゆっくりとルイの方に向き直った。その動きには、いつもの緩さはない。戦場で見せる、"獲物"の動きを確かめるような、計算された滑らかさがあった。


「俺のせいだってか?」


 銀灰の瞳が、鋭くルイを見る。その目には、いつもの飄々とした色はなく、冷たく研ぎ澄まされた光だけがあった。

 思わずルイは息を呑んだ。湯の温もりが一瞬で冷めたように感じる。背筋に冷たいものが走り、無意識に湯の中で拳を握りしめた。

 今の瞬間、響哉の鍛え上げられた肩の筋肉が微かに張り、湯に浸かった胴体からは、危険な気配が漂っている。迫力に、ルイはつい身じろぎする。湯がざぶりと音を立てる。


「っ、違う、そうじゃない……けど……」


 言葉が出てこない。喉が渇き、舌が重い。湯気が目の前で厚くゆらめき、響哉の顔がぼやけて見える。そのぼやけた輪郭の向こうで、銀灰色の瞳だけがくっきりと、ルイを捉えている。


「……響哉なら、なにか……知ってるんじゃないかってだけ」


 ようやく絞り出した言葉は、自分でも情けなく思えるほど弱々しかった。

 長い沈黙が流れた。湯の音だけが響く。湯船から立ち上る湯気、壁を伝い落ちる水滴の音、遠くで聞こえる澄幽の朝の気配──全てが、この張り詰めた沈黙を際立たせた。

 響哉は動かない。ただ、ルイを見つめたまま。その視線は、ルイの目、口元、震える肩、湯に隠れた拳──すべてを読み取るように移動する。評価している。測定している。この少年がどれほどの覚悟を持っているのか、どれほどの危険をはらんでいるのかを。



 そして、突然──



「……っぶ、はははッ! そんなビビんなって!」


 響哉が大声で笑いだした。爆発的な笑い声が湯場全体に響き渡り、先ほどの殺気だった緊張が嘘のように吹き飛んだ。彼は湯船の縁を叩きながら笑い続ける。肩を震わせ、涙が出るほどに。

 ルイは一瞬、何がなんだか理解できなかった。あまりに急な変化に、思考が追いつかない。だが、涙を拭いながら、笑いすぎて息が切れている響哉の様子を数秒間見つめた後──やっと気付いた。また自分はからかわれていたのだ。巧妙に仕掛けられた心理的な罠に、まんまと引っかかっていた。


「おま……っ、時々怖いんだよ……!」


 ルイはほっとしたように深く息を吐き、同時に沸き上がる苛立ちを込めて言った。心臓がまだ高鳴り、その鼓動が耳の奥で響いている。湯の温もりに包まれていても、背筋に走った冷や汗の感触が消えない。

 響哉は湯から上がり、壁に掛けてあるタオルを取ると、顔から拭い始めた。笑いの余韻で肩がまだ微かに震えている。水を滴らせる紫檀色の髪が、朝の明かりに鈍い光を反射させた。


「怖い演技、俺得意なんだよ」

「演技……? 演技なのかアレ」


 ルイは呆れたように呟いた。あれが本当に演技だったのか、それとも本心の一端が表れたのか、判断が全くつかない。

 響哉という男は、いつもそうだった。本心と冗談の境界を曖昧にし、人を翻弄する。仲間として笑い、時に厳しく指導し──そして時折、まるで別人のような冷たさを覗かせる。


 タオルを肩にかけると、響哉は振り返らずに脱衣所へ向かって歩き出した。鍛え上げられた背中の筋肉が、朝の光を浴びて陰影を刻む。

 ルイも、納得いかないままではあったが、タオルを取ってその背中を追いかけた。

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