Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "朝霧" - 1
──翌日。
澄幽の朝は、いつも通り静かに訪れた。
東の空がようやく藍色から紺碧へと色を変え始めた頃。偽りの星々の光がまだ天蓋に残り、冷たい霧が地を這うように漂っている。夜の冷気が部屋の隙間から忍び込み、肌にひんやりとした触感を残していた。
ルイはベッドから体を起こし、背筋を伸ばした。骨がほどよく鳴る。遠征から戻ってきてからというもの、日々の訓練が体に染みつき、目覚めの感覚が研ぎ澄まされてきた。睡眠の浅さは相変わらずだったが、目が覚めればすぐに体が動く。かつての無力さとは明らかに違う。
体はまだ少年の輪郭を保っていたが、筋肉の付き方が少しずつ変わってきているのを感じた。日常的に武器を握り、荒野を駆け、敵と対峙する日々が、確実に彼を形作っていた。
「……」
鏡の前で、ふっ、と腕に力を込めてみる。二の腕に、確かな張りがある。
拳を握りしめれば、手の甲に血管が浮き上がる。前に比べ、確かに太さが増してきた気がした。
まだ十分ではないが、少なくとも「守る」という意志を支えるだけの土台は築きつつある。
「……ふふん」
思わず、小さな満足の吐息が漏れた。
「おーい、そんなひょろひょろで満足してんなよー」
突然、背後から声がした。
「どわぁっ!?!?」
ルイは慌てて振り返った。ドアの枠に寄りかかるようにして立っているのは、響哉だった。今日はいつもの着物は羽織っておらず、黒いインナーとズボンだけの姿だ。鍛え上げられた肩幅の広い背中と、力強い筋肉が露わになっている。
──おかげで、ルイの何倍も立派な筋肉が、拝み放題の状態だ。
「そんなんじゃシアちゃん一人、余裕で抱えらんねえぜ? いざって時、盾にすらなれねえぞ」響哉は悪戯っぽく笑いながら、ルイの細い腕を一瞥した。
「……うるさい」ルイは顔をそむけ、小声でそう呟いた。だが、内心では響哉の言葉が胸に刺さっていた。確かにまだ足りない。もっと強くならなければ。守りたい者を守れるだけの力を。
ケラケラと朝からルイをからかう響哉。彼はドア枠から身を離し、廊下へと歩き出した。その背中を追って、ルイもベッドサイドに掛けてあるコートを取らず、薄着のまま部屋を出た。
廊下の冷たい空気が肌に触れるが、気にしない。
どうせ、すぐに暑いほどに変わる。
◇◆◇
ルイとシアの部屋がある建物の前で、響哉は待っていた。紫檀色の髪が朝の冷気にそっと揺れ、銀灰色の瞳が静かにルイを捉えていた。その視線はいつもの飄々としたものとは少し違い、鍛錬の師としての真剣さを宿していた。朝靄の中に立つ彼の姿は、どこか神々しくもあり、同時に荒々しい野生を感じさせた。
「来たな。早速始めるぜ。ウォーミングアップからな」
響哉の声は、朝の静けさを切り裂くように低く響いた。声の端に白い息がかすかに見え、それが朝の冷たさを際立たせた。ルイは無言でうなずき、響哉の横に並んだ。
──朝、澄幽に響哉がいる日はこれが日課となった。
ルイは響哉の動きを追いながら、自らの体をほぐし始めた。ジャンプで心拍数を上げ、肩を大きく回し、首の緊張を解いていく。股関節のストレッチでは、少しずつ可動域が広がってきているのを感じた。初めの頃はぎこちなかった動きが、今では滑らかになっている。
ウォーミングアップが終われば、次は試刃院を巡るジョギングだ。
「今日は三周な。ペースは最初ゆっくり、最後の一周でペース上げる。いいな?」
決められたルートを何周もする。距離にして、大体五キロは走る。最初の頃は、一周もする頃には息が上がり、足が鉛のように重くなっていた。響哉の言う"ゆっくり"は、全くゆっくりではないのだ。肺が焼けるように熱く、喉が乾き、視界が揺らぐこともあった。だが今では、呼吸のリズムを整えながら、一定のペースを保って走り切れるようになっていた。足取りも軽やかで、地面を蹴る感覚が確かになってきた。
三周目に入った頃、響哉が声をかける。
「よし、そろそろペース上げるぞ。ついて来い」
そう言って、彼の足が速くなる。ルイは歯を食いしばってペースを上げた。心臓がドクンドクンと鳴り、息が荒くなる。だが、逃げない。追いついていく。
ジョギングが終われば、次はスプリントトレーニングだ。瞬発力を鍛えるため、短い距離を全力で駆け抜けることを繰り返す。響哉が「もう一本!」と声をかけるたび、ルイは歯を食いしばって走った。足がつりそうになることもある。肺が痛む。それでも、最後までやり切る。五本、六本、七本──終わる頃には、膝が震え、視界が白む。
それでも休む間もなく、次はラダートレーニングだ。
地面に置かれたはしご状の道具を使って、足の運びを鍛える。複雑なステップを正確に、素早くこなしていく。最初は足が絡まり、よくつまずいていたが、今ではリズムに乗って軽やかに踏み込めるようになった。
コーンドリルでは、置かれたコーンの間を敏捷に動き回る。方向転換の速さ、体の切り返しの鋭さ。響哉の動きはまるで野生の獣のようで、ルイはその背中を追いかけながら、自分の体の限界を少しずつ広げていく。
さらに、筋力トレーニングも欠かさない。腹筋、懸垂、体幹トレーニング。射撃の精度を上げるためにも、絶対に欠かしたくないメニューだ。特に体幹は、銃を構えた時の安定性に直結する。
プランクの姿勢で、響哉がカウントを取る。
「……五十秒、五十五、六十。よし」
その声を聞いて、ようやく体を下ろせる。腕が震え、腹筋が熱を持っている。
当然、ルイは響哉ほどには長くは続かない。メニューの後半では息が乱れ、汗が額を伝い、頬を滴り落ちる。白い息と汗が混じり、朝の光にきらめく。それでも、初めの頃よりは確実に進歩している。以前なら半分もこなせなかったメニューを、今では最後までやり遂げられるようになったのだ。
「いいぞ、その調子」
響哉が時折かける声は、からかうような口調ながらも、どこか認めるような響きを帯びていた。ルイが苦しそうにしていても、休ませようとはしない。限界の一歩手前まで追い込むのが、彼の鍛錬のやり方だった。それは時に残酷に思えるが、この終末の世界で生き延びるためには、それが必要だとルイも理解していた。
全てが終わる頃には、辺りはすっかり明るくなっている。夜の冷気は消え、柔らかな朝の光が澄幽の建物を照らし始めていた。偽りの星空は薄れ、代わりに青白い空が広がる。
着ているシャツは汗で湿り、重たく感じられる。
最後に二人で丁寧にストレッチをする。地面に座り、足を伸ばし、ゆっくりと体を前に倒していく。背中や太ももの裏がじんわりと伸びる。
響哉は時にルイの背中を軽く押し、可動域を広げる手助けをした。その手の力加減は、荒々しい見た目に反して驚くほど繊細だった。
「ああ……っ」
筋肉が伸びる感覚に、思わず声が漏れる。だがそれは苦痛ではなく、鍛えた体がほぐれていく充実感に近い。痛みと快感の境界で、体が確かに変わっていくのを感じる。
「ほい、終わり。汗流しに行くか」




