Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "刻痕"
厳しい訓練を終え、夜の帳が降りた頃。
珠桜、ルイ、響哉、律灯の四人は翠霞庵の浴場へと足を運んだ。
浴場は男女で利用時間が分かれており、シアと琴葉は既に汗や汚れを流し終え、去った後だったはずだ。
重厚な木製の扉を開けると、湯気がもうもうと立ち込め、ほのかに檜の香りが漂う広い空間が広がっていた。天井は吹き抜けになっており、ミコの力が描き出す偽りの星空が、湯気に滲み、ぼんやりと幻想的な輝きを放っている。星明かりが、湯気の粒子に反射し、微かな虹色に揺らめいていた。
四人は黙って衣服を脱ぎ、白い湯巻きを腰に巻く。洗い場の小さな木製の椅子に、それぞれ腰を下ろした。石畳の床には、黒光りする手桶と柄杓が規則正しく並べられ、壁からは温水が注がれる竹筒が伸びている。
「せっかくだからルイ君、背中、流してあげようか」
珠桜が、疲れた様子は微塵も見せず、むしろどこか楽しげな優しい口調で言った。
ルイは一瞬戸惑い、自分でできると断ろうかと思ったが、珠桜の眼差しに押され、「はい……お願いします」と小さく返事をし、椅子の向きを珠桜の方へ変えた。
珠桜は手桶に湯をたっぷり汲み、柄杓ですくって、ルイの肩からそっ湯をかける。熱い湯が、訓練の汗と砂埃を優しく洗い流す。
彼は泡立たせた檜の香りの石鹸を手に取り、ルイの背中に優しく、しかし凝りをほぐすための確かな力で、大きな円を描くように洗い始めた。指先が、肩甲骨の周りや背筋の凝り固まった部分を、熟知した者のように丁寧にほぐしていく。その手つきは、戦場であらゆる敵を切り伏せる時の冷酷さや、訓練での厳しさとは対照的に、驚くほど柔らかく、慈愛に満ちて繊細だった。
「あれ、ここ凝ってるね。変に力が入ってるかも」
「すみません……無意識に」
「謝らなくていい。気づけて良かった。また今度、ちゃんと力の抜き方、教えてあげるね」
隣では、響哉が黙々と自分の体を洗い、律灯も同じく一人で手早く済ませていた。彼らには、互いに手を貸すような習慣はなかった。それが彼ら、兄弟なりの距離感だった。
ルイの背中を丁寧に流し終えると、珠桜は最後にもう一度温かい湯をかけて、泡をきれいに落とした。
「ありがとうございます。すっきりしました」
「ん。なら良かった」珠桜は小さく頷き、そしてほほえんだ。「じゃあ、今度は私の背中を洗ってくれるかな」
珠桜が椅子に座り、白く滑らかな背中をルイに向ける。湯気に濡れて微かに光るその肌は、近くで見ると、より一層、浅く、しかし確かに刻まれた幾つもの古い傷跡が浮かび上がって見えた。ルイは少し緊張しながらも、石鹸を手に取り、水でぬらしたスポンジに泡を立てる。
珠桜の背中に触れる。肌は思った以上に滑らかで、しかし、その柔らかな感触の下には、鍛え上げられた鋼のような筋肉の動きが、微かに伝わってくる。
ルイは、できるだけ丁寧に、力を込めすぎず、しかし汚れを落とすように洗った。傷跡の凹凸をスポンジが通るたび、胸の奥が少し、締め付けられるように痛んだ。
「……たくさん、傷があるんですね」
「そうだね。目立つかな? 昔はね、怪我をしても、十分な薬もないし、ちゃんとした手当てができる環境じゃないことも多かったから、こうして結構残っちゃったんだ」
珠桜の声は、どこか遠い過去を見つめるようであり、淡々としていた。
「……またあの頃に戻らないようにしないとね」
ルイは返す言葉が見つからなかった。感謝の言葉も、慰めの言葉も、この傷の前ではあまりに軽すぎるように感じられた。彼は無言で、ただ丁寧に手を動かし続けた。背中の泡を最後に柄杓の湯で流し終えると、珠桜は「ありがとう」と静かに言った。
ほぼ同時に、響哉と律灯も洗い場を終え、湯船へと向かう音がした。二人もそれに従い、洗い場を離れ、湯気の奥に広がる大きな石の湯船へと歩いていった。
◇◆◇
「ルイ君、こっちこっち」
響哉に手招きされ、ルイは響哉の隣の湯船の縁にゆっくりと腰を下ろした。
熱い湯が、"居残り"の鍛錬で酷使され、張りつめていた筋肉の奥深くに染み渡り、疲労をじわじわと解きほぐしていく。全身の力が抜ける感覚に、ルイは思わず、深く、長いため息をもらした。
「……はぁ……」
「そういや、ルイ君って過去のこと思い出したんだっけ。それなら、もう出自の話も解禁か」
響哉が、いつもの軽薄な、しかしどこか温かい声で笑う。
「温泉でそんなリラックスできるなら、すっかり日本人だよな。フランス人じゃなくて」
「向こうって、たしかあまり湯舟に浸からないんだよね」
珠桜も、ゆったりとした口調で口を挟んだ。
確かに、ルイの蘇った記憶の中では、家族とこのようにゆっくり湯舟に浸かった情景はない。日本、フランス……あまり馴染みのない、しかし自分を定義する言葉を頭の中で繰り返しつつ、ルイはぼんやりと頷いた。
体の芯から温まる感覚が、言葉にならない深い安らぎをもたらす。ただ、湯に浸かり、何も考えずにいる。
ふと、ルイは隣に深く浸かっている響哉の、湯に浮かぶ肩や胸を見た。
そこは──珠桜の傷跡よりも、さらに濃密に、激しく傷だらけだった。
古い瘢痕が、皮膚の上に無数の、生死をかけた物語を刻んでいた。鋭い刃物による細長い切傷の跡、何かにえぐられたような深い抉り傷、広範囲に広がる火傷の痕、無数の打撲による変色した痣、酷い内出血を起こしたのか紫色がまだ褪せていない部分、そして小さくへこんだ、明らかな銃創の痕。
「響哉って……」
考えるよりも前に、声が零れてしまっていた。慌てて口を押さえるが、もう遅い。
「何?」
響哉が、湯気の向こうからニヤリと不敵に笑いながら、こっちを向く。水が揺れる。
「どこ見てんの。傷?」
「……」
聞いてもいいものか分からず、ルイは何も返せなかった。だが、無意識に、こくりと、わずかに顎を引いてしまった。
「……これは、前暴槌使ったときの内出血。こっちは、『暴槌使うな』って琴葉が蹴り入れやがったときの痣。抉れてんのは、魔法士にやられたやつ。銃はなんだっけな……あ、そうだ、珠桜様と旅してるとき、庇って喰らったやつだ」
響哉は、あたかも古びた地図の傷跡を一つずつ辿るかのように、淡々と、しかしその声の底には微かな自嘲の響きを込めて説明する。
「あと……コレだな」
そして、彼は自分の顔、特に目元をゆっくりと指さした。銀灰色の、普段は鋭くもどこか虚ろに見えるその瞳。
──そういえば、彼と律灯は兄弟であるはずなのに、なぜ響哉の目はこのくすんだ銀灰で、律灯は髪色に呼応するような深い紫檀色なのだろう。遺伝という単純な理屈では説明できない、何か違う理由があるのではないか。疑問が、湯気の中でふわりと頭をよぎった。
「コレ、六歳くらいンとき、頭ぶん殴られ続けておかしくなっちまったんだよ。実は今、両目ともあんま見えてない」
──背後で、かすかに、しかし鋭く息を呑む音がした。湯気が揺れる。ルイは思わず振り返った。
珠桜と律灯が、湯面を見つめながら、同じように硬い、痛みを内に秘めた表情を浮かべている。珠桜の長い睫毛が伏せられ、律灯は無意識に唇を噛みしめていた。それは、単に衝撃を受けたという以上に、その言葉が彼ら自身の記憶の、痛む部分を抉る何かであることを示していた。だが、二人とも何も言わない。ただ、重い沈黙が湯気をさらに濃くしていくだけだった。
「ま、でもさ」
響哉の声が、その重苦しい空気を、あえて軽く切り裂くように響いた。
「星溶粒子の感覚さえ掴めば、周りの気配や形はだいたい分かるし、その後琴葉に、魔法を使って見る方法も教えてもらったから、何とかなってるよ。普段の生活には、まったく困らねえ」
彼は湯に浸かった肩をすくめて見せた。
「ただ、それもあって、余計に細かい文字とか、色の微妙な違いとかは、正直苦手だからな。ルイ君、これから『雑』とか『大雑把』とか言って、俺のこと蹴ったり突っついたりすんじゃねえぞ? あの“クソ猫”みてえに、な」
──それが誰のことを指すのか。申し訳ないが、ルイにはすぐに分かってしまった。
自分の体を見下ろす。ここ数週間の遠征の中で、その"猫"につけられてきた痣や打撲がいくつかある。
だが、その程度だ。ファロンとの戦いで負った深い傷も、今では綺麗に癒え、痕もほとんど残っていない。葛城の薬が優秀なだけでなく、澄幽を満たす霧や水には、自然治癒力を高める不思議な効能があると言われている。気が付けば、いつの間にか消えていた。
湯船の反対側に座る珠桜の向こう──律灯の姿をそっと伺った。
律灯の肌にも、目立つ傷はほとんどない。鍛え上げられた体ではあるが、それは訓練によるものだ。
──本来、それが当たり前の姿のはずだ。こんな狂った世界でなければ、一生消えないような傷など、そうそう負うものではない、はず。
澄幽という小さな秩序の中で、それぞれが担う役割の違い。外の荒野に立ち、命を張って仲間とこの地を守る者。そして、その守りの恩恵を預かり、中核を支え、秩序そのものを維持する者。
律灯の主な役割は後者だ。珠桜を補佐し、この場所が回り続けるための歯車となること。外の戦場に立つのは、響哉と琴葉、そして最近ではルイとシアが加わった。だから、彼の体に刻まれる傷が少ないのは、役割分担として当然の帰結だった。
──けれど、だからこそ。
ルイは、律灯の紫水晶のような瞳に、時折、一瞬だけ浮かび上がる深い影や、沈黙の重みの意味を、ほんの少しだけ理解できたような気がした。守られる立場にある者が背負う、複雑な罪悪感と、それ以上に重い責任。それは、肌に刻まれた傷の数では決して測れない、魂の重さだった。
偽りの星々が、ゆっくりと瞬いている。
美しい、儚い、幻想。
ルイの胸の奥で、ふと、ミコのあの切なく透き通った思念が蘇った。
『世界は……白光に飲まれ……焼かれ……消えてゆきます……』
その「終わり」が、確実に迫っているとしたら。それは一体、いつなのか。
もし、希望と呼べるものがあるとしたら、その正体は一体、何なのか。
きっと、あの思念を共に聞いた珠桜と律灯も、事情を詳しく知る響哉も、この湯船にいる誰もが、それぞれの胸の内で同じことを考え、暗中模索し、かすかな答えの糸口を探し続けているはずだ。
ルイは、湯の中でそっと拳を握りしめた。温かい湯が指の間を流れ、握力でかすかに波紋が立つ。その手には、まだ遠征の時についた擦り傷の痕が、ほんのりと残っていた。
──その「終わり」の正体を、ルイは知っている。
思い出した記憶の断片の中に、父が全ての希望を失い、世界そのものを諦めるに至った、あの絶望的な光景の原因がある。
白光。それは──
(……考えるだけ無駄か)
頭をわずかに振り、ルイは天の星空をぼんやりと眺めた。深い、熱い湯に漬かった身体の芯から、重く、熱い溜息がもれる。湯気がその吐息に攫われ、白い渦を描きながらさらに濃く立ち上っていく。
──失うのは、怖いことだ。
特に、血は繋がっていなくとも、戦い、笑い、時には叱られながら、いつの間にか家族同然と心に刻まれたこの人たちのこと。シアの無邪気な輝き、珠桜の優しい手の温もり、響哉のざらついた笑い声、律灯の静かな気配──そして、この共有された静寂さえも。全てが、儚い朝露のように、あるいはこの偽りの星空のように、何の痕跡も残さず消え去っていく、必ず訪れる未来が、胸の奥を冷たい鋭い棘で締め上げる。
(……奪わせては、いけない)
拳が、湯底で微かに震えた。




