Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "人参"
ベンチに座ったまま、二人は言葉を交わすこともなく、ただ穏やかな時間を過ごした。交わした手の温もりが、静かな鼓動のように伝わり合い、それだけで十分だった。澄んだ青空の下、花の香りと微風だけが、この小さな世界を満たしていた。
──やがて、昼食の時間を告げる優しい鐘の音が、風に乗って届いてきた。
その音を聞いて、二人はそっと顔を見合わせた。そして──まだ繋いだ手のまま、ルイとシアはゆっくりと、まるで夢から覚めるようにベンチから立ち上がった。
「そろそろ、お昼の時間みたいだな」
「うん。なんだか……急にお腹が空いちゃった」
シアが少し恥ずかしそうに、しかし満たされた笑顔を浮かべる。二人は、ぎゅっと握り合っていた手を、ほんの少しだけ緩める。指と指がゆっくりと離れていくとき、名残惜しさが、ほのかな電流のように走った。
シアの指先が、ルイの手のひらから滑り落ちる直前、ルイが思わずそっと、もう一度軽く握り返した。その一瞬の触れ合いに、シアの頬がまた淡く染まった。
手は完全に離れたが、その間には、目には見えない温かな糸が張られたように感じられた。
食堂のある翠霞庵へと、二人は並んで歩き始めた。
少し離れた距離で、しかし確かに同じリズムで刻まれる足音。時折、そっと触れる肩。振り返るわけでもなく、ただ前方を見つめながらも、互いの存在をしっかりと感じ合っているその空間は、何よりも安らぎに満ちていた。
◇◆◇
食堂の扉を開けた瞬間、あまりにも異様な光景が目に飛び込んできて、ルイとシアは思わず足を止めた。
「……え?」
シアが、理解できないというように呆然と呟く。ルイもまた、次の一歩を踏み出せずに立ち尽くした。
そこには──響哉と律灯が、壁際に並んで立ち、明らかに「またか」という白けた、あるいは諦観に満ちた目で見守る中、畳の上で正座してうつむいている琴葉と、その前に仁王立ちする藤崎がいた。空気が、妙に張り詰めている。
「琴葉ちゃん、わかってはるよねえ?」
藤崎の声は、普段のあの蜂蜜のように甘く柔らかい口調とは裏腹に、有無を言わさぬ、母親の如き圧力を帯びていた。その手には、一つの弁当箱がしっかりと握られている。それは、どう見ても使い込まれた愛着のある一品だ。
「……はい」
琴葉の声は、驚くほど小さく、か細かった。いつものあの鋭く凛とした、近寄りがたい気配はどこへやら、まるで大過を犯して叱られた子供のように、肩を小さく縮め、首を垂れている。
「この前、外に出る時、琴葉ちゃんに渡したお弁当や。せっかく琴葉ちゃんの好きなもん、いっぱい詰めて、人参もバレへんように、細かく刻んでこっそり入れといたのに──」
藤崎が弁当箱を握る手に、静かだが確かな力がこもる。その手の甲に、ほんのりと静脈が浮き上がる。パキッ、と小さな、しかし明らかに危険な音が弁当箱から聞こえてきたような気がして、その場にいた全員の背筋が一瞬で凍り付いた。響哉は目を見開き、律灯はそっと目を閉じた。
「そこの人参だけ、きれいに残しとったやろ!?」
「ご、ごめんなさい!! でもしょうがないじゃない!!」
琴葉が顔を上げ、珍しく声を荒げて反論した。その深紅の瞳には、言い訳に追い詰められたような必死さが浮かんでいる。そして、また──その目尻が、悔しさか、情けなさか、ほんのりと赤く染まり、潤んでいるようにも見える。彼女は拳をぎゅっと握りしめ、膝の上で微かに震えている。
「人参は嫌なの! 絶対に嫌なの! きっと、この……この体の子が、生きているときに、すごーく苦手だったのよ!! 私には、どうしようもないことなんだから!!」
「へえー。いつも生前のことなんて『自分の過去じゃない』って口を閉ざすくせに、こういう好き嫌いのときだけ、その話をちゃっかり持ち出すんだな。都合がいいなあ」
響哉が、呆れ半分、面白がり半分で、壁にもたれながら言った。その口元は、確かに忍び笑いをこらえている。頬がわずかに引きつり、目が細くなっている。
「だ、だまってなさいっ、響哉!!」
琴葉が鋭く響哉を睨みつける。しかし、その眉尻はどこか垂れ下がっており、いつもの冷徹な迫力がすっかり半減している。むしろ、ますます追い詰められている印象さえ与える。
「あの……何が、起こってるんですか……?」
シアが恐る恐る、場の空気を乱さないように小声で尋ねると、隣に立つ律灯が小さく、しかし深い溜息をついた。
「この前の遠征のとき、藤崎様が作って下さったお弁当の、隠し人参入りのおかずを、琴葉様が完璧に残してきたのです」
「それだけで……?」
「それだけです」
律灯の淡々とした説明に、ルイとシアは余計困惑するだけだった。
ちらりと食堂の奥を見た。そこには、昼食の準備が整えられ、色とりどりの料理が並んでいる。その中に、特に色鮮やかな、甘辛く炒められた人参が山盛りに盛られていた。それは、明らかに"特別な一品"としての存在感を放っている。
「あらぁ、ルイ君、シアちゃん、いらっしゃい~。みんなで、お昼にしましょ」
藤崎が振り返り、いつもの深く穏やかな笑顔で言った。だが、その目は一切笑っていない。
「琴葉ちゃんも、もちろん食べるよなぁ? 今日は、栄養バランスもばっちりやからね」
「え……ちょ、ちょっと待って……今、急に魔力の調子が悪くて……」
琴葉の顔色が見る見るうちに青ざめ、血の気が引いていく。彼女は素早く正座から立ち上がり、まるで幻影のように滑るように扉へと向かって走り出そうとした──が。
「あかん」
藤崎の手が、稲妻のように琴葉の肩を掴んだ。
「逃がしまへんで」
「ちょ、藤崎──」
次の瞬間、琴葉は強引に、しかし不思議と痛みのない巧みな力加減で、メインのテーブル前の椅子に座らされていた。彼女の両脇には、響哉と藤崎が陣取り、完全に逃げ道を塞いでいる。背後は壁だ。
「さあ、召し上がれ」
藤崎が、自ら箸で人参の炒め物を一番美味しそうなところから摘み、琴葉の目の前、鼻先までそっと差し出す。甘い香りが漂う。
「い、いやよ……そんなの、無理……!」
「あーん。口開けてえな♪」
「やめてぇ……」
琴葉の口元が、今にも泣き出しそうなほどにへの字に曲がった。細い眉が八の字になり、その姿は、あの冷徹無比な魔法士とは思えないほど、無垢で子供っぽい抗議の表情だった。
「……すごい光景だな」
ルイが、思わず感嘆するように呟く。シアも、目を大きく見開きながら、そっと自分の席に着いた。
「琴葉ちゃん、頑張って……! きっと美味しいよ!」
「シア! 貴方、見てないで、何とか言って! 助けて!」
琴葉が、唯一の希望のような目でシアに助けを求める。だが、シアは申し訳なさそうに、しかしどこか微笑ましそうな表情で、小さく首を振った。
「琴葉、観念した方がいい。藤崎さんの本気モードは、お前でも歯が立たない。経験則だ」
響哉が、同情するような、しかしその口元は確実に笑みをたたえながら、上から見下ろすように言った。
「響哉まで……! 律灯、助けて……!」
「……申し訳ありません、琴葉様。この件については、僕は中立の立場を取らせていただきます。介入いたしません」
律灯がきっぱりと、しかし恭順の姿勢を崩さずに言い、紫檀色の前髪で目を隠しながら、そっと一歩後退する。
「裏切り者……!」
琴葉の悲痛な叫びが、食堂に響き渡る。それは、戦場での断末魔にも似ていたが、今この場には悲壮感より、どこか滑稽さが漂っている。
「ほら、琴葉ちゃん。ほんの一口でええから。頑張りんさい」
藤崎の声は、底知れぬ優しさに満ちている。しかし、その手に握られた箸は、不撓不屈の決意で、人参を琴葉の口元へと運んでいく。逃げ場はない。
「う……うう……」
琴葉は、完全に追い詰められたことを悟ったかのように、観念して目をぎゅっと閉じた。長い睫毛が震える。そして、恐る恐る、最小限に口を開く。藤崎が、その隙間へと丁寧に人参を置いていく。
もぐ、もぐ、と琴葉が噛む。その表情は、まるで毒でも飲まされているかのようだ。頬が微かに動き、眉根が寄る。
「……にが……い……」
「そんなわけないやろ! 甘辛く味付けしとるんやで! ほら、この照り!」
「でも……苦いのよ……」
琴葉が、涙を浮かべた深紅の瞳で訴える。そのあまりにも無防備で、打ち拉がれたような姿に、シアは心が痛み、思わず胸に手を当てて目を伏せた。
「お前、そもそも死んでるんだから味覚なんてないだろ」
響哉が、冷静──というより冷徹に指摘する。
「嫌……! せっかく、藤崎が心を込めて作ってくれたんだから……! ちゃんと、味覚の神経を魔力で再現して……きちんと……味わってるの……! だから、余計に……うぅっ……」
「ごっくん」
藤崎が、優しく、しかしそれは絶対的な命令のような口調で言う。琴葉は震える喉を動かし、目に涙を溜めながら、ついに人参を飲み込んだ。ごくり、という小さな音がした。
「えらいえらい」
藤崎が、満足そうに琴葉の頭を撫でる。琴葉は完全に魂が抜けたような顔で、テーブルに突っ伏した。
「……死ぬ……魔力が……枯れる……」
「死なへん死なへん。人参の栄養たっぷりやで、むしろ魔力が湧くで」
「そもそも死んでるから死なねえだろ」
「響哉……今すぐ、あの世へと飛ばしてやる……」
その棘のある言葉にも、勢いはなかった。
「でも、藤崎さん。どうしてそこまで、無理やりに……?」
ルイが不思議そうに、恐る恐る尋ねると、藤崎は手を止め、少し真面目な──彼女らしい深い慈愛に満ちた表情になった。
「んー、だれがーとは教えへんけどぉ」
藤崎が、まだテーブルに突っ伏している琴葉の頭を、慈しむように優しく撫でながら言った。
「『時々、度が過ぎるときがあるから、"苦手なこと、できないことを頑張る"っていう感覚も忘れないでいてほしい』って、言われてん」
琴葉の肩が、ぴくりと震えた。
「……珠桜……」
琴葉が、テーブルに埋もれたような声で、小さく呟く。その声には、いつもの鋭さはなく、諦めと、どこかほんのりとした、言いようのない温かさが混じっていた。
「そういうことやねん。琴葉ちゃんは強すぎる。人間離れしとる。でも同時に、ルイ君やシアちゃん、響哉君、律灯君に、戦い方や生き方を教える、先生でもあるんや。せやから、こういう"人間らしい"一面──苦手なことに渋々向き合うとか、周りに助けられるとか、そういうことも、ちょっとだけでも大事にしとかんと、あかんと思うねん」
藤崎の声は、いつもの、どこまでも包み込むような優しさを取り戻していた。琴葉はゆっくりと顔を上げ、少しだけ頬を膨らませた。その口元には、もはや怒りではなく、ただただ面倒くさそうな、子供のような不満の色が浮かんでいる。
「……別に、苦手なままでいいじゃない。戦いに支障は出ないし」
「だあめ」
藤崎が、一瞬の迷いもなく即答する。その目は、真剣そのものだ。
「先生がそれで、どうするの? 生徒たちに、苦手なことは全部放り出していいって、教えんの?」
琴葉は深い、とても深い溜息をつき、再びぐったりとテーブルに突っ伏した。
「……わかったわよ……次からは……ちゃんと……食べるから……」
「うん、よろしい。琴葉ちゃんはえらい子や」
藤崎が、満足そうに、心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。
その光景を見つめていたルイとシアは、顔を見合わせて、思わず苦笑を漏らした。緊張が解け、ほっとした空気が流れる。
「……琴葉にも、こんな……弱点があるんだな」
「うん……なんだか、とってもほっこりしちゃった。珠桜様も、すごく考えてくれてるんだね」
シアが、温かい気持ちで小さく笑う。
やがて、全員がテーブルを囲み、昼食が始まった。琴葉は相変わらず不機嫌そうな顔をしているが、それでも箸を進めている。時折、ご飯の中に混ざった小さな人参のかけらを見つけると、一瞬顔を顰める。しかし、藤崎がそっと視線を送ると、彼女は目を逸らし、渋々──しかし確かに、口に運んでいた。
澄幽の食堂に、穏やかな会話と、時折漏れる笑い声が広がる。
外の世界がどんなに荒廃していようとも、ここには確かに、守るべき日常の一片が息づいていた。それは、戦いの合間の、かけがえのない、小さな奇跡の時間だった。




