Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "繋手" - 1
館を出て、ルイは大きく伸びをした。
肩から背筋にかけて、長い間こわばっていた重いものが、ふわりと溶けていくのを感じた。ずっと、心の奥で澱のように溜まっていた言葉を、ようやく口にできた。言い切ったあとの虚脱感と、それ以上に広がる清々しさが、彼の内側を満たす。
(そういえば……この件で、琴葉に相談した日もあったな。後でちゃんとお礼を言いに行かないと)
ほんのりと、そのことを考えながら、姿勢を戻したその時──橋の手前、石畳みの脇に佇む小さな人影が視界に入った。
「……シア?」
白銀の髪が微かな風に揺れる。シアが、ゆっくりと顔を上げた。
彼女はそこの古びた石の柵に寄りかかり、何かを待つように立っていたのだ。その透き通るようなアメジストの瞳に浮かぶのは、ほんのりとした心配、そして少しだけ不安の混じった色。
「おはよう、ルイ」
シアが、小さく、しかし確かな微笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、ルイは胸の奥がふわりと温かく溶けていくのを感じた。
「待っててくれたのか?」
「うん。珠桜様と、大事な話してるみたいだったから……邪魔しちゃいけないかなって思って」
彼女はそう言いながら、少し恥ずかしそうに、そっと視線を逸らす。白い指が、柵の上を無意識に撫でる。その素直で控えめな仕草が、妙に愛らしく、ルイは思わず自然な笑みが零れた。
「ありがとう……気にかけてくれて」
「ううん、勝手に待ってただけだから……! あっ」
シアはふと何かに気づいたように顔を上げ、ほんのり頬を染めながら提案する。
「そうだ、ちょっと……一緒に、散歩したいなぁ。えっと……その……空気が気持ちいいから……?」
ルイは、彼女の瞳に映る、かすかな期待の色を見逃さなかった。
「ああ、いいよ。行こう」
彼が頷くと、シアの顔がぱあっと明るくなる。その瞬間、陽の光が雲の切れ間から差し込み、彼女の白銀の髪を、一瞬、本物の銀のようにきらめかせた。
◇◆◇
二人は並んで、ゆっくりと歩き出す。
澄幽の中心部へと続く霧渡りの橋を渡る。足下からは、薄く靄がかかった深い谷間が覗き、遠くで絶え間なく流れる滝の音が、微かに、しかし確かに耳に届く。ミコが奇跡のように創り出した、この終末世界にただ一つ残された、小さな楽園の息づかいだ。
「……最近、二人であんまりゆっくり話せてなかったね」
シアが、冷たい石の欄干に手をかけながら、そっと呟いた。その声には、意識的に隠そうとしている、しかし滲み出てしまうほどの寂しさが、微かに揺らいでいた。
「……ああ。そうだな」
ルイがここ最近の、あの怒涛のような日々を思い返そうとする。
──ミレディーナとの、狂気と悲しみが入り混じった死闘。それが終わり、一同が執務室に介し安堵の表情を見せたのも束の間、謎の狭間に引きずり込まれ、すぐさまファロンとの因縁が待ち構えていた。今まで澄幽に隠され、命の危機に瀕することがないようにされてきた珠桜すらも巻き込まれた死闘。そこから帰還し、療養が終われば──シアに関してはその期間が終わるよりも前に──今度は琴葉による地獄の特訓と、ヴァルケイアへの旅。
「気が付けば、もう二か月近く……戦ってたんだな」
ルイが呟くと、シアが小さくうなずく。彼女の白銀の髪が、谷間から上がってくる湿った風に揺れる。
「……何度も、死ぬかと思った」
シアの声が、かすかに、しかし魂の芯から震える。それは、恐怖を思い出したというよりも、あの極限状態を乗り越えたことへの、ある種の感慨に近い。ルイはそっと彼女の横顔を見た。宝石のように澄んだ瞳が、遠くの靄をただよう谷を見つめながら──血と汗に塗れた記憶の断片を、一片ずつ拾い集めているようだった。
「私、この前まで星骸も倒せなかったのにね」
シアが、自嘲のようにほほえむ。
「あ、確かにそうだ」
ルイも思い返す。
「でも、それを言ったら俺も、立てないくらい戦いが怖くなることがあったなあ」
「あったあった!」
「ミレディーナと戦ってるときなんて、俺たちずっと叫んでた気がする。谷に落とされたり、空に巻き上げられたり」
「そうだ、確かに! あの後、声枯れちゃったんだよ」
シアが、当時の必死さを少し滑稽に思い返すように、クスクスと笑いながら続ける。
「でも今、叫ぶと……?」
ルイは一瞬考え、いたずらっぽく口元をゆがめる。
「琴葉に『うるさい』って背中蹴られて、転がされる!」
「そうっ! それで、私たち、顔だけ擦り傷ができるの!」
顔を見合わせ、二人は思わず噴き出した。緊張の糸がぷつりと切れ、代わりに共有した時間の重みが、優しい絆となって胸に残る。
笑い声が風に散り、少し温かい、言葉の要らない沈黙が二人の間に流れた。
やがて、シアがゆっくりと、そっと顔を向けた。その目には、先ほどまでの笑いの余韻と、それとはまた別の、深く静かな感情が光っていた。
「……でもさ、ルイは、本当に強くなったよね」
彼女の瞳には、飾らない純粋な尊敬と、まるで自分自身の成長のように感じる、どこか誇らしげな光が宿っていた。それは、並走してきた者にしか持てない、特別な称賛の形だった。
「俺が?」
「うん」
シアは小さく肯き、言葉を探すように一瞬間を置いた。
「最初は……一戦一戦が、死に物狂いだった。次の攻撃が来るのが怖くて、手の中の武器が震えて止まらなくて」
彼女の目が、少し遠くの靄のかかった峰を見つめる。そこには、かつてのルイの姿が映っているようだった。
「でも今は……琴葉ちゃんと並んで、戦ってる。
前線に立って、私を引っ張ってくれる。難しい判断も、怖い顔もできるようになった……そういうところ、かっこいいな、って、いつも思ってる」
彼女の頬が、思わずほんのり桜色に染まる。その素直すぎる、濾過されていない褒め言葉に、ルイは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気持ちになり、思わず目を逸らして、橋の下に漂う深い靄を見つめた。頬が少し熱い。
「……シアだって、すごく強くなっただろ」
ルイは、橋の下に広がる果てしない靄の海を見つめたまま、そっと呟いた。視線は敢えて合わさない。その方が、胸の奥にある率直な思いを、飾らずに伝えられると感じたからだ。言葉には、軽い褒め言葉ではない、戦場を共に生き延びてきた者同士だからこそ分かる、確かな重みがあった。
「え?」
「魔法の制御とか。最初は発動すら危ういときもあったのに、今は威力のコントロールもできるようになってる。今じゃ──琴葉があからさまに"焦ってる"くらいだ」
シアは、ルイの横顔をまっすぐに見つめ、その言葉の真意を測ろうと耳を傾けていた。だが、耳にした内容があまりにも意外で、思わず目を見開いた。
「焦って……? え、琴葉ちゃんが? 私のことで?」
「気付いてなかったのか?」
ルイはようやくシアの方にゆっくりと顔を向けた。真剣な、しかしどこか複雑な表情で言葉を続ける。
「琴葉がシアに対して当たりがキツイの、多分──嫉妬だと思うんだ。ただの推測だけど」
「嫉妬!?」
シアの声は、純粋な驚きに揺れた。彼女の頬がほんのり赤くなり、混乱したように首をかすかに振る。
「なんで……? あの琴葉ちゃんが、私に? だって、琴葉ちゃんは……いつもあんなに強くて、カッコよくて、私なんかよりずっと……私が追いつきたいって思ってる側なのに……」
(──"もしも、自分に異能の力があったのなら")
ルイの脳裏を、琴葉の、時々覗かせる後悔と悲しみを滲ませた横顔が一瞬よぎる。
異能を持たない者が、必死に努力と魔法で理不尽に対抗しようと、その溝を埋めようとする姿。
その孤独な戦いのすぐ傍らで、天性の異能の持ち主であるシアが、吸い込まれるように魔法を習得し、驚異的な速さで成長していく姿。琴葉がおそらく、血のにじむような努力で築いてきたものを、シアが"才能"という名の風に乗って、やすやすと追い越していくかもしれないという事実。
──しかし、それを口にすることは、琴葉の心を軽々しく語ることになる。それに、この推測がシアを不必要に悩ませ、彼女たちの関係に影を落とすかもしれない。ルイは、その先の危うい言葉を飲み込んだ。
代わりに、彼は揺るぎない事実だけを、静かに、しかし確かに並べることにした。
「だって、シア、琴葉の魔法を、すごく研究してるだろ?」
「う、うん……! だって、琴葉ちゃんの魔法って、すごく無駄がなくて、綺麗で、強くて……私、あんな風に、確実で力強い魔法が使える人になりたくて」
「だからなんだ」
ルイは小さく笑った。
「傍から見ててさ、もうほとんど見分けがつかないくらいに似てきてるんだ。上達が早すぎて、あの琴葉でさえ、内心はかなり焦ってるんじゃないかって、本気で思うよ」
彼は言葉を切り、ほんの少し間を置いた。
深い谷間から絶え間なく吹き上げる風が、二人の間をすり抜け、湿った冷たさと草木の香りを運んでくる。その音を、ルイはしばらく耳を澄まして聴いていた。一方のシアは、混乱と驚き、そしてどこか嬉しそうな戸惑いの入り混じった複雑な表情を浮かべ、ルイの横顔を見つめ続けている。彼女の頬は、気づかないうちに薄い薔薇色に染まり、白銀の髪が風に乱れ、幾筋も頬にまとわりついても、それを直そうとするそぶりさえ見せなかった。
「……私、琴葉ちゃんに追いつきたいなんて、これっぽっちも思ってなかったのに」
シアが、かすかに震える声で呟く。
「ただ……あんな風に、強くて、誰かを守れる人になりたかっただけなのに」
ルイは、そっとシアの方を向いた。彼女のアメジストの瞳が、憧れと自責、そして純粋な喜びが入り混じった複雑な感情でゆらいでいるのを見て取った。
「それでいいんだよ」
彼の声は、ごく自然に、しかし深く響いた。嵐の後を見守る海のように、静かで確かだった。
「琴葉がどう思おうと、シアが圧倒的に強くなったのは紛れもない事実だ。それは、誰のためでもない、シア自身が、血のにじむような努力を積み重ねて掴み取った結果だ。胸を張っていいし、誇っていいんだと思う」
シアの目が、ぱあっと見開かれた。まるで闇の中に、突然、確かな灯がともされたように。そして、ゆっくりと、揺るぎない確信の光がその瞳の奥深くに灯り、広がっていく。
ルイは一瞬、言葉を切り、谷間から吹き上げる冷たく清らかな風に、頬を撫でられながら、
「その力で、俺は何度も救われたんだからな」
小さく、しかし確かな温もりを芯に秘めた笑みを浮かべた。




