Interlude II: 21xx - Inhale Exhale "誓約"
──パタン。
静かな音を立てて、扉が閉まった。
珠桜は、心配が拭いきれないのか、あるいは別れを告げるかのように、ほんの少しの間、あの扉から目を離さなかった。だが、やがて彼は、微かに肩を揺らし、覚悟を決めたように深く、長く一つ息を吐いた。そして、ゆっくりと踵を返す。その動きには、疲労の影がにじんでいたが、背筋は相変わらず真っ直ぐだった。
「……さて、付き合ってくれてありがとう、ルイ君。確か、今日は午後まで用事はなかったよね? 無理はしないで、ちゃんと体を休めるんだよ。これは命令」
執務室の入口の扉の方へ、珠桜は静かな足取りで歩いていく。ルイはその細くも強い背中を追う。
──でも、待ってほしい。まだ、話したいことがある。喉の奥に、淀んだまま沈殿していた言葉の欠片が、今、沸き立ち、喉元を灼きながら昇ってきていた。
「翠霞庵に行く? 送っていくよ」
「あの、珠桜さん」
ルイの声が、静寂に張り詰めた廊下に、石を投げ込んだように響く。彼は少し躊躇いながら、珠桜の着物の袖の端を──ほんの少し、子供の頃を思い出させるように、指先で引いた。
振り返った珠桜の視線は、疲れを帯びながらも、芯は変わらず優しかった。漆黒の瞳が、ルイの緑色の瞳をまっすぐに見つめ、微かに首をかしげる。長い睫毛が、柔らかな陰を落とす。
「ん? どうしたのかな」
珠桜の声は、僅かな疲労を滲ませながらも、変わらない優しさで包み込むように響いた。
──ファロンとの戦いのあと、診療所で珠桜と交わした会話を、ルイはヴァルケイアから澄幽へ帰る道の中で、寝ても覚めても思い出していた。
『珠桜さんのこと……信じたい。でも、まだ、本当のことが……全部、わかったわけじゃなくて……』
『時間をかけていい。君が答えを見つけるまで、傍にいさせてほしい。支えさせてほしい。見返りも、何も求めないから』
(……言わなきゃ。記憶を取り戻したこと。自分の思いが決まったこと……全部、きちんと伝えたい)
ルイは一度、胸の奥深くから、冷たく淀んだ空気を吸い込んだ。肺が鋭く締め付けられ、心臓が高鳴る。
目をしっかりと見開き、珠桜の瞳を捉えたまま、震えを込めた声で、その重い空気を言葉に変えて吐きだした。
「……俺、記憶が戻りました」
一呼吸。
時間が、廊下という細長い空間で、濃密な蜜のように重く流れるのを感じた。
「父さんのこと……母さんのこと……事件のこと……異能の代償として失った過去の全部を、思い出したんです」
珠桜の表情が、一瞬で凍りついた。
まるで世界の歯車が、一つの瞬間のために完全に停止したかのように、すべての動きが失われる。漆黒の瞳が、驚きではなく──深い畏れ、そして痛みを伴うほどの覚悟にも似た感情で、大きく、大きく見開かれた。吸い込まれそうな深淵の底が、かすかに、しかし激しく揺さぶられる。微かに開かれた、色の薄い唇から、息が完全に止まったのがわかった。彼は、瞬きさえ忘れていた。
長い、魂が抜け出るような数秒の沈黙。彼の視線がわずかに泳ぎ、何か言葉を紡ごうとするが、声は喉の奥で砕ける。はく、はく、と無音で唇が開閉し、優美な喉仏が細かく震える。それは、あまりにも多くのものを詰め込みすぎた心が、出口を失って暴れているようだった。
そして、その後に──
彼は、躊躇いもためらいもなく、まるで崩れ落ちるように一歩踏み出した。そして、ルイを、強く、強く抱き締めた。着物の滑らかな絹がルイの背中に触れ、その腕は、初めは軽く、そして次第に、失いかけたものを取り戻すかのように力強く締め付けられた。
「……よかった……」
声は、かすれ、詰まり、涙で濡れていた。一滴の温かいものが、ルイの肩の布をほんのり濡らす。
「……本当に……よかった……ね、ルイ……」
言葉が続かない。彼は深く息を吸い、震える吐息をもう一度言葉に紡ぐ。
「ずっと……ずっと……心配していたんだ……よかった……」
"よかった"。
その単純な言葉が、珠桜の胸の奥で何層にも折り重なった思い──罪悪感、安堵、恐れ、慈しみ──をすべて圧縮していた。
ルイは、その肩に寄りかかる珠桜の、全身から伝わるかすかな震えを感じた。無力で、ただ祈ることしかできなかった時間の重みを、その震えは如実に物語っていた。その言葉の重みを、ルイ自身の胸に沈めるまでには、深い、深い呼吸を必要とした。
しばらくの間、二人はただそのままだった。廊下の静寂が、この重くも温かい時間を優しく包み込む。
やがて、珠桜はゆっくりと、とてもゆっくりと距離を置き、顔を上げた。彼の目元は、明らかに赤く、潤んでいた。長い睫毛が幾重にも重なり、その隙間からこぼれる漆黒の瞳は、曇りガラスを通したように柔らかく、そして深い悲しみと安堵が入り混じっていた。彼は恥ずかしそうに、そっと袖の端で目頭を押さえたが、その仕草さえも、彼の美しさを損なうことはなかった。
ルイは、その瞳を見つめたまま、次に言うべき言葉を、胸の中で固めていった。
「──すみませんでした」
言葉と同時に、ルイは頭を深く下げる。
まだ、心の奥でファロンと珠桜──どちらの手を取ればいいか、迷ったあの時のこと。そして、決断の末に銃口を向け、火花を散らせてしまったあの瞬間。珠桜の脇腹に瞬時に広がる、不吉な赤の花。彼の驚きと、それ以上に深い悲しみに満ちた表情は、魂に焼き付いて離れない。罪の意識は、今も胸の内を灼熱の烙印のように疼かせている。
「……もう、いいんだよ」
珠桜の声は、涙でほぐれたように柔らかく、それでいて、自らを責める脆さでわずかに揺らいでいた。彼は一歩近づき、そっとルイの肩に手を置いた。その手のひらは温かく、触れるだけで不思議な安らぎを運んできた。
「君に話していなかった……隠し通した私のせいだって、前も言っただろ? 謝る必要なんて、君には一片もない。むしろ、謝るべきは私の方だって──」
「言わせてください」
ルイは、顔を上げず、床を見つめたまま、しかし声には全ての想いを込めて、それを阻むように言い切った。
「何回でも、千回でも、言い続けないと……この胸に刺さったままの棘が、少しも抜けないんです。この苦しみが、癒える気がしないんです」
一瞬の沈黙が、重くのしかかる。
そして、ルイはゆっくりと顔を上げた。涙は一筋、頬を伝っていた。しかし、その緑色の瞳は、曇り一つなく、すべてを見据えていた。
「……これからも、澄幽にいさせてもらえませんか」
珠桜の息が止まった。
「……!」
彼の漆黒の瞳が、一瞬で大きく見開かれる。まるで、闇夜に突然、思いがけない星が輝きだしたかのように。彼の美しい顔に、驚きと、そしてそれ以上に、押し寄せるような感情の波が押し寄せた。
「……いいのかい?」
珠桜の声は、かすれ、震えていた。それは、諦めかけた願いが、突然現実の光を浴びて差し出された時の、あまりにも儚い確認だった。触れたら壊れてしまうのではないか、目を離したら消えてしまうのではないかという、純粋な怯えが、その完璧な声音に、かすかなヒビを入れていた。
「父さんの、あの事件で……俺は、危険人物だったんですよね」
ルイの声は、静かに、しかし過去の重みをしっかりと背負って響いた。
「血も、過去も……全てが『問題』だった。本当は、この澄幽にも、俺みたいな得体の知れない人間は踏み入れさせたくなかったはずです。普通、誰だってそう思う」
彼はゆっくりと顔を上げた。潤んだ緑色の瞳は、涙に曇ってはいなかった。むしろ、長い霧が晴れ、全ての迷いを振り切った先にある、一筋の強い光が宿っていた。少年の面影はまだ残るが、そこには確かな男の意志が、固く刻まれていた。
「それでも……珠桜さんは受け入れてくれた。門を開けてくれた。
ただ生きさせるだけじゃなかった。言葉をかけ、教え、時には叱って……大切に、本当に大切に育ててくれた。この恩は……俺が幾つの人生を費やしても、返しきれないかもしれない。でも……だからこそ」
一息深く吸い込み、珠桜の顔を、逃さず見据えた。
「誓います。珠桜さんを、守ります。あなたがすべてを賭けて守ろうとするこの澄幽も、そこに生きる人たちも、未来も……全部、俺が守りたいんです。
珠桜さんが夢見る、ほんの少しでも明るい明日も、全部、俺が守りたい。俺に……その役目を、やらせてください」
──珠桜は、言葉を失っていた。
彼の漆黒の瞳は、ルイの瞳に釘付けになり、その奥で燃え盛る決意の炎を、一瞬たりとも見逃すまいとしていた。驚き、動揺、そして──長い間、ぼんやりと形が定まらなかった希望の灯が、突然、確かな炎となってゆらめき始めるのを、彼は自分の目に映し出していた。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、珠桜はゆっくりと、細く美しい指をルイの頬に近づけ、ほんのりと触れた。その感触は、春の初めの風のように、かすかで儚かった。
「……バカだな」
彼の声は、かすれた笑いを帯びている。しかし、その目尻には、一筋の涙が光っていた。
「そんな大げさなことを、誓わなくてもいい。君がただ、ここにいて、こうして笑ってくれているだけで……それだけで、私は、もう何もいらないんだよ」
「それじゃ足りないんです。俺は……受け取るだけの存在じゃなくなりたい。支えられる側から、支える側に立ちたい。珠桜さんの背負っている荷の、ほんの少しでも、分けてもらいたい」
珠桜の唇が、微かに、かすかに震えた。彼は一瞬目を伏せ、長い睫毛が深い陰を作る。そして、胸の奥底から、すべてを洗い流すような深く深い息を吸い込み──
「……わかった」
静かな、しかし鋼のように確かな声で、彼は宣言した。
「その覚悟、しっかりと受け取った。ありがとう、ルイ」
彼が顔を上げた時、涙の痕は消えていた。代わりに、凜とした、研ぎ澄まされた決意が、その完璧な美貌に、これまでになかった重厚な深みと輝きを与えていた。
「でも、約束してほしい。無茶は絶対にするな。自分を傷つけ、犠牲にすることで守ろうとするな。本当に守りたいと思うなら──まず、自分自身の命と心を、何よりも大切に守れ。それが……私からの、たった一つのお願いだ」
ルイの胸の奥で、熱いものが一気にこみ上げ、喉元を押し上げてきた。彼は涙を堪え、全身の力で強く頷いた。
「はい。約束します。必ず守ります」
珠桜は微笑んだ。
それは、ルイが今まで見たどんな笑顔とも違う、深い疲労の跡を認めながらも、その芯から滲み出る、ほんとうの安らぎに満ちた笑みだった。




