第x話 混沌、胎動する刻:勅令は下り - 2
──静謐なる書庫。
パラ、パラ、と。
古びた紙葉が擦れ合う、乾いた呼吸のような音だけが、埃の舞う重厚な静寂を切り、柔らかく響いていた。それは、この空間に唯一許された、生きた時間の証しであった。
高くそびえる黒檀の本棚が作り出す細い谷間。天井から吊るされた古式のランプが放つ、温かな橙色の光が、仄暗い空間にゆらめく輪郭線を描く。その光の束の中に、"彼"はいた。
流麗な、雪原の如き長い白髪が、鈍く冷ややかな銀色の輝きを纏っている。それは光を反射するのではなく、むしろ光そのものを静かに吸い込み、内側から微かに透き通るように浮かび上がっていた。前髪──幾重にも重なり、そのほとんどが左目を優しく隠すその陰から、一筋だけ深紅の瞳が覗いている。その視線は、手に抱かれた革装丁の古書のページを、瞬き一つせず、右上から左下へと滑らせていた。
一枚。二枚。三枚──。
そして、彼の滑らかに動いていた指が、微かに、しかし確かに止まった。
求めていた記述を見つけたか? それは彼だけが知る。彼は静かに、手作りの銀糸の栞をページの間に挟み込む。動作には一切の無駄がなく、本そのものが傷つくことを畏れるかのような、慎み深い優しさがあった。
歩き出そうとしたその一瞬。
「ゴキゲンいかがかな? ちょっと頼みがあるんだよねぇ」
背後から響く、馴れ馴れしく、しかし底に冷たい何かを潜ませた声。
白髪の彼の、それまで無表情に近かった顔が、露骨に、しかし音もなく歪んだ。眉の端が微かに釣り上がり、隠された左目が、前髪の陰で鋭く光った。唇が一瞬、不快に引き攣る。
当然の反応だ。天衡院の秩序は、行動のほとんどを鉄のように規定する。たとえ上位の者であれ、無断でこの書庫の静寂を破ることは許されない。事前の通告、そして許可。それが定められた礼儀である。
が、今日の来訪者は、その数少ない例外の一つを手にしている。
男が差し出したのは、一枚の薄い金符。周囲の温かい光を拒むように、冷たい金属光沢を放ち、その表面には天衡院の紋章が、権威そのもののように刻まれていた。
「"院主様"からのご用命〜。できる限り、迅速に準備を願いたいねぇ──"マキくん"」
"マキ"──そう呼ばれた彼は、ほんの少しの間、完全に動きを止めた。まるで時間そのものが、彼の周囲で凝固したかのように。深紅の瞳が、眼前の金符一点を見つめ、その奥で何かが高速で回転し、砕けていく音が聞こえてきそうな静けさだった。
やがて、彼はゆっくりと、滑るように体を捻り、来訪者の男に向き直る。そして、深く、深く目を伏せた。長い白髪が、その動作に従って流れ、肩を覆う。
「……院主様のご用命とあらば」
彼の声は、か細く、しかし研ぎ澄まされた冷たい金属線のようだ。そこには従順さ以外の感情は微塵も感じられない。
男は満面の笑みを浮かべ、その恭順の姿勢を上から眺めていた。
「了解了解〜。では、詳細は改めて。頑張ってね。院主様も、君の手腕を大いに期待してらっしゃるよ?」
軽く手を振り、男は踵を返した。革靴の音さえ、この書庫の重厚な絨毯には吸い込まれ、濁った残響も残さずに遠ざかっていった。
扉が閉じる、かすかで重い音。静寂が、再び書庫の隅々に染み渡る。
しかし、それは決して元の静けさではなかった。張り詰めた、薄い氷の膜のように鋭く脆い無音。堰を切って迸り、そして一瞬で凍り付いた感情の欠片が、空気中に無数に漂っている。目には見えないが、肌を刺す。
マキは、ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。
長い睫毛が陰を揺らし、前髪の隙間から再び覗く深紅の瞳は、先ほどまでとは明らかに輝度が異なっていた。曇りガラスのように、内側の光を遮断している。
彼の手の中には、まだあの金符が握られていた。冷たい金属が、彼のわずかな体温でかすかに温められ、曖昧な境界を保っている。
「……ふ」
一声の、吐息にもならない吐息。
彼は振り返り、再び幾重にも続く本棚の谷間へと歩き出した。流れるような白髪が背後で揺れ、鈍い銀色の軌跡を残す。背筋は、一見すると相変わらず完璧に伸びているように見える。が、よく観察すれば──肩の線に、ほんのわずかな弛みが生じていた。
執務の再開。それだけだ。
たとえ、それが上司の、院主の命令であったとしても。定常業務を阻害する差し込みは、不愉快で、億劫なものだ。
ゆっくりと。いつものペースを、乱さずに。
丁寧に、正確に。誰にも邪魔されずに。
誰にも、気付かれやしない。
(──たとえ、万一、気付かれたとしても)
マキの、本棚の影に溶けかけた横顔で、唇の端が、ほんの一ミリ、微かに──しかし確実に、引き攣った。
(その時は、その時だ。多少、余計に頑張ればいい)
それだけの話。




