第x話 混沌、胎動する刻:勅令は下り - 1
海を越えた、その先。
荒廃した大地の只中に、一つの異質な輝きが存在していた。
白く、清らかな城壁と、雲を掴みそうな優美な東洋様式の楼閣が織りなすこの都市は、終末の世界においてあり得ざる完璧な秩序を保っていた。街路には一片の埃もなく、住人の足音は時計の秒針のように均質に響き、すべての営みが目に見えぬ巨大な時計仕掛けの歯車として、正確に噛み合っていた。
その中枢たる、権威を示すためにそびえ立つ荘厳な建造物の最上層。広大な執務室に、ただ一人、男の姿があった。
彼は、巨大な窓の外に広がる、整然としすぎて息苦しいほどの街並みを眺めながら、深く、重い、本音のこもったため息を吐き出した。普段は軽薄に吊り上げた口元が、今や力なく緩み、琥珀色の瞳の奥には、窓の外の人工の灯りとは別種の、冷たく陰鬱な影が沈殿していた。
「……はぁ、マジで大変なことになってるんだよねぇ、これ……」
男の机の上には、乱雑に積まれた厚い報告書の山が、小さな塔のようにそびえていた。その頂から一つを手に取り、ぱらぱらとめくる。羊皮紙の上に記されたのは、西の廃墟都市群で観測された「星溶粒子」の異常な移動の軌跡。
データが示唆するのは、脅威であった巨大な都市丸ごとが──まるで意志を持ったかのように、ここへと歩を進めているという、荒唐無稽な事態だった。
「しかもさ〜、変異体級の反応がぽんぽこ二つ現れては、消えたし〜? ねえ、これ、普通にやばくない? 世界の危機だよこりゃあ〜!」
彼の独白が、広すぎる執務室に虚しく吸い込まれようとしたその時──
コン、コン、コン。
硬質で規則的な、扉を叩く音が響いた。
男は瞬時に、まるで仕掛けが作動したように、頬の筋肉が滑らかに引き上げられ、軽薄で能天気な笑顔が、仮面のように顔に貼り付けられる。ゆっくりと、背後の椅子ごと回転し、扉へと視線を向けた。
「はーい、どうぞ~っ♪」
扉が音もなく滑り開き、そこに立っていたのは──白色の、感情の影すら感じさせない瞳を持つ、この組織の正式な黒白の装束に身を包んだ人型。その動作には生物的な無駄や揺らぎが一切なく、ただ"存在"している。便宜上、彼女と呼ぶ。
「宰衡閣下。将衡閣下より、伝令がございます」
その声は、抑揚も温度もない、清らかで無機質なものだった。銀鈴を揺らせば、きっとこんな音がするのだろう。優美な宣告のようでもあり、死の宣告のようにも冷たい。
「おー、なになに〜? 将衡殿ったら、忙しいのにわざわざー?」
指先でデスクの端をコツ、コツと叩きながら、男は軽やかに言った。だが──その軽薄も、ここまでだ。
「『"崩山"を連れ戻せ』とのお言葉です」
伝令を伝える女の姿は、影のように微動だにしない。赤い漆の器のような色の髪は、彫像のように整えられ、その顔には一切の感情の影がなかった。まるで、言葉そのものが、生きた意思を離れてここにあるかのようだ。
男の、作り上げた笑顔が、一瞬だけ──ほんの一瞬、微かにひび割れた。目尻の笑みの皺だけが、ぴくりと動いた。
「……え? 崩山? 本当に仰ってる? 秩序を破ったアイツ?」
「はい。"院主様"より直接、ご下命を受けたと将衡閣下は申しております」
女の声は、変わらず平坦だ。が、その一言が持つ重みは、部屋の気圧を一気に下げた。『院主様』という言葉が、無機質な空気にさえ、異様な威圧を滲ませる。
彼女は、さらにもう一言、淡々と、しかし確実に刃のように付け加える。
「加えて、東方に潜伏していると『桜の幻城』についても、早期の発見と、その"一部戦闘員の勧誘"を、とのことです」
その言葉が、空気を凍らせた。
宰衡の、机を軽やかに叩いていた指が、ぴたりと止まる。
「え?」
一瞬、理解できなかったような、間の抜けた声。だが、その瞳だけは、一瞬で冷たい鋼のように輝きを変えている。
「……本当に?」
次の言葉は、低く、静かすぎた。
「外の……『幻城』の、戦闘員を? 勧誘? 殺せ、ではなく? 見つけ次第、始末しろ、でもない?」
彼の声には、ついに抑えきれない何かが滲み始めていた。それは、驚愕ではない。もっと根源的な、この世界のルールそのものが揺らいだことへの、苛立ちにも似た違和感だった。
この廃墟と化した世界で、組織の外にいる者は、原則として"敵"だ。見つけ次第、即座に排除。それが鉄則であり、生き残るための、あまりにも当然の選択であった。
──殺すのが、当たり前だ。
それが、この場所が秩序を保つための、絶対的なルール。なのに。
「はい。勧誘、とのことです」
女の声は、相変わらず平然としている。その無機質さが、かえって命令の異常さを際立たせる。
男はゆっくりと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。羽織の裾が、ゆらりと揺れる。窓の外、灰色の廃墟が、彼の背中に張り付いている。その目は、先刻までの気怠げな輝きを失い、鋭く、深い闇を覗かせている。
「ぜんぶマジなの? 言ってること、相当ヤバいって理解してる? 片方はかつての同僚で、こっちの秩序をぶち壊した破壊神、というか"失敗作"。もう片方は、イージス・コンコード崩壊以降噂すらまともに掴めない幽霊城塞だよ? 将衡殿、今日は何を召し上がった?」
「はい。理解しております。そして、将衡閣下は、本日の朝食は通常の栄養調整食であったと報告しております」
「……」
男は一瞬、言葉を失った。作り物の笑顔は完全に消え、無表情な顔が露わになる。そして、鼻から小さく、嘲るような息を漏らす。
「……っぷ」
次の瞬間、
「あっはっはっは!!!」
高らかな、どこか狂気の淵を覗き込むような大笑いが、冷え切った執務室の空気を刃物で切り裂いた。彼は椅子の背にもたれかけ、机に覆い被さるようにして、まるで腹の底から湧き上がる衝動を抑えきれずに笑い転げる。肩が震え、整えられた前髪が乱れる。
「面白い! ああ、面白すぎる! 院主様も、ついに気が触れたかーっ! それとも……これが、この終わった世界に、最後の狂宴を望んでるって証か!」
笑い声は、やがて喘ぎのような息遣いに変わり、ゆっくりと収束していく。
男は静かに顔を上げる。目には、笑いの涙すら浮かんでいない。あるのは、氷のように冷え切った興奮と、研ぎ澄まされた危険な好奇心だけだった。
彼は、伝令の女を、ゆっくりと見つめた。
「いいよ、そんな化物みたいなの、使っていいんだ。ぜんぶ、『わかったよーん、お任せあれ♪』って、愛嬌たっぷりに伝えといて」
その口元に、最初とは全く異質な、捕食者のような笑みが、ゆっくりと這い上がった。
彼女は無言で一礼し、入ってきた時と同じ無音の、滑るような足取りで部屋を後にした。
重厚な扉が閉じ、完全に外界と遮断されたその瞬間、男の顔からあの能天気な仮面は、跡形もなく剥がれ落ちた。残ったのは、研ぎ澄まされ、危険な興奮の冷たい炎を宿した瞳だけだった。
「……やっば……マジで、楽しくなってきちゃったー」
ゆっくりと立ち上がり、壁一面に広げられた巨大な詳細地図の前に歩み寄る。昔と比べ、随分と形を変えた海岸線。消えた都市、新たにできた内海。
彼の視線は、地図の東の領域へと滑る。
そして、ダンッ! と、わざとらしいほどに大きな音を立てて、鮮血のように赤い鋲を、その領域のほぼ中心へと、深く突き刺し込んだ。
「……ひっさしぶりに、オレの出番が回ってきたみたいだよーん?」
執務室には、不敵で冷たい独白だけが、残響として漂った。
窣の外では、完璧すぎる街が、やがて訪れるであろう嵐の予感など微塵も感じさせず、静かに、そして冷たく息づいていた。




