第x話 混沌、胎動する刻:死者の巡礼 - 1
廃墟の街に、暗い魂の炎が灯る。それは、かつてそこで死んだ者たちの残滓──憎悪、絶望、未練という名の不純物が凝縮され、青白くゆらめく焔となって、砕けたコンクリートの隙間や、朽ちた鉄骨の影で揺らめいている。彼らは今、誰かの強固な意志によって、魂の鎖で縛られ、再びこの地を永遠に彷徨うことを強いられている。
ヴァルケイア。変異体ベリースヴェートが作り出した、弱肉強食の異能者無法地帯。その中でも、特に忌み嫌われる領域の一つ。
「オルター・オブ・ザ・ディパーティッド」──死者の祭壇。
そこは、生者が決して足を踏み入れてはならない禁忌の領域だ。空気自体が死の匂いを纏い、足を踏み入れる者の生命力を、微かに、しかし確実に蝕んでいく。なぜなら、この地を支配する二人の異能者は、生者を死者へ、死者を操り人形へと変える力を、遊び心さえ込めて行使するからだ。
ファロンとミレディーナは、賢明にも一度もそこに足を踏み入れなかった。用があれば、逆に彼らを呼び出した。
ベリースヴェートは、その不気味な領域を殲滅してやろうと、何度も自身の領域に住みついた異能者を送り込んだ。だが、誰一人として帰還することはなかった。結果が見えていたからこそ、彼は自身の直系の眷属を、その深淵へと差し向けることはしなかった。
ヴァルケイアの有力候補といえば、人間を超越した絶対者たる変異体ベリースヴェート。
元イージス・コンコードで、かつて返しきれないほどの恩と借りを抱えた者も多い、ファロン。
そして、あと一人が──この「死者の祭壇」を支配する存在。
「ねえ、エゼ」
幼い少女の声が、重苦しい静寂を、軽やかに、残酷に破った。
リタ・クレスト。プラチナブロンドの髪が、死の気配しかない微風にも揺れることはなく、まるで固体の光のように静止している。片目を覆う黒い眼帯は、彼女の顔に不釣り合いなほどの陰鬱さを添えていた。彼女は崩れかけたビルの縁に腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしている。その腰をかけている付近には、乾ききった、あるいはまだ生温かいかも知れない血の痕が無数に広がり、幾何学的な模様を成しては混ざり合い、まるで彼女を中心に咲き乱れ、そして枯れていく紅い曼珠沙華のようだった。
「……なに、リタ」
答えたのは、彼女のすぐ後ろ、影そのものが濃縮されたような地点に立つ男──エゼキエル・ファルナスティア。深いネイビー色の髪の隙間から覗く赤い瞳は、感情の輝きを失っている。血の気のない、蝋のように青白い肌は、むしろ周囲の死の気配と調和し、彼をこの風景の一部のように見せていた。
「ボク、暇!!」
「そう言われても困るよぉ……」
もう、何百回と繰り返したであろうやり取りに、エゼキエルは本当に困ったように眉を寄せ、目尻が微かに湿った。
ファロンとミレディーナの二人が命を落として以降、ずっとこれなのだ。もう、ファロンが執着した少年の幻影と自分たちを重ねて、奇妙な保護欲を振り回されることもない。ミレディーナの、熱狂的で陶酔的、時には底知れぬ哀しみに沈んだ独白を、まるで子守唄のように数時間も聞かされることもない。それが、リタにとっては「遊び」の大半を失ったことに等しく、致命的に退屈らしい。
そのとき、ガシッと、小さな手がエゼキエルの脇腹を掴んだ。本当は両肩に手を置いてじっと見つめたいところだが──身長差がそれを許さず、それではただの道化になってしまうので、代わりに脇腹を鷲掴みにする。わずかなくすぐったさと、予期せぬ接触に、エゼキエルは数ミリ、ぴくりと跳ねた。
「エゼ」
リタの声が、先ほどまでの退屈そうな響きから、ぴんと張り詰めた、遊びを見つけた子どものような尖った音色に変わった。彼女はくるりと体を向けて、ビルの縁から埃一つ立てずにエゼキエルの真正面に立つ。プラチナブロンドの髪が、動きに遅れてわずかに揺れる。
「な、なに……?」
エゼキエルは、彼女の片目──眼帯で覆われていない方の血色の瞳が、自分をしっかりと捕えているのを感じた。その瞳は、何かしら危険な閃きに満ちていた。彼は思わず、わずかながら後退りそうになる足をこらえた。
「東にいくよ!! 今から!!」
リタは両手を大きく広げ、くるりと一回転しながら宣言する。
「え!?」
計画性のない突発的な行動。エゼキエルは反射的に声を上げた。東──彼女のいうそれが、どこを意味しているのかは分かっている。
「もう待たないもーん! 暇すぎて死んじゃいそう!」
リタは足を踏み鳴らす。その足元に広がる血の華の模様が、新たな滴りによってほんの少し色濃くなる。
彼女の退屈は、単なる気分の問題ではない。それは彼女の異能そのものの渇望であり、放っておけば彼女自身を、あるいは周囲のすべてを内側から腐食していく危険な空虚だ。
「ちょ、ちょちょちょちょ……リタ、お願いだから……まずは計画を……落ち着いて……」
エゼキエルは必死に両手を前に出し、押しとどめるような仕草をする。彼のネイビーの髪が額に乱れ、赤い瞳が慌てて揺れる。
彼は「親友」として、彼女の衝動に常にブレーキをかけなければならない。それが彼の役目であり、存在理由だった。
しかし、彼の声にはいつも以上に切迫した響きがあった。東行きは、ただの散歩では済まない。東の、"魔法士"の恐ろしさを──彼は、忘れていない。
──その時。
領域を定義する、地面から立ち上る黒い靄の外縁から、微かな、しかし生々しい「生」の気配がした。血の流れる音、鼓動の高鳴り、汗の匂い──生者の持つ雑多で煩わしい生命の音色が、死の領域の静寂をかすかに濁した。
エゼキエルの表情が、一瞬だけ鋭く引き締まる。それまでの困り顔は消え、赤い瞳が、靄の向こう、廃墟の彼方を見据えた。その視線は、獲物の位置を特定する捕食者のそれだった。
「……リタ」
「んー?」
「……誰か、来た。生きてる」
リタの、眼帯で覆われていない片方の目が、きらりと宝石のように輝いた。
「お友達候補!」
エゼキエルの視界──否、彼が支配する亡霊を通した共有視覚に、三人の異能者の姿が映し出される。
十代後半から二十代前半。衣服はボロボロだが、武器は手入れされている。目には、必死に這い上がろうとする者だけが持つ、かすかな希望の灯が揺らめいている。こんな辺境で、どうやってここまで生き延びたのだろうか。その疑問さえ、少しばかりの興味をそそる。
「……この人たち、どうしようか?」
「お友達、増やそ! 新しいみんなと、みーんなで東に行く!」
リタが嬉しそうに、くるっと軽く跳ねて頷いた。
「じゃあエゼ、よろしくー♪ ちゃんと、壊さないで迎えてね?」
「……うん。わかった」
エゼキエルがゆっくりと、細く長い指を絡め、順番に鳴らす。
カチ、カチ、カチ。
骨が乾いた音を立てて擦れ合うような、不気味な響きが、靄の中を静かに伝わり、領域全体に指令を行き渡らせる。
──領域の外縁。黒い靄がわずかに薄まる境界線。
「……なんだ、この気配……」
ヴァルケイアの外から逃げ延び、この無法地帯に迷い込んだ三人の異能者のうち、リーダー格の男が眉をひそめ、足を止めた。背筋に、本能的な警告が走る。
「妙だな……辺り一帯を見ても、ここは特に静かすぎる。鳥の声も、変異体の気配もない……」
「ここでなら少し休憩できるかな……索敵にも何も反応しないし」
仲間の一人が、掌に浮かび上がる淡い緑色の光の円環を見つめながら呟く。異能による生命探知──だが、その円環は、あるべき生命反応を示さず、むしろ不自然な「空白」を指し示している。
「……待て」
リーダーの声が、低く警戒を含んで響く。
「どうしたの?」
「……足元を見ろ。影が、おかしい」
三人が視線を落とす。
コンクリートの割れ目に落ちる自分たちの影が、ゆっくりと、しかし明らかに、独立して蠢いているではないか。まるで黒い泥が沸き立ち、形を変えようとしているように。
「──ごきげんよう」
静かな、冷たく、どこか空虚な声が、彼らの真後ろからではなく、周囲の空気全体を震わせるように響いた。
次の瞬間、三人の足元の影、そして周囲のあらゆる瓦礫の陰から、無数の亡霊が這い出してきた。白骨がかすかに軋み、黒い衣をまとった者の足音はなく、錆びた武器を握る者の目窩には青白い火が灯る。その数は数十体、いや、百を超えるかも知れない。彼らは完全に包囲網を形成した。
「な、なんだこいつらっ……!?」
リーダーが反射的に異能を発動させる。掌から迸る炎の奔流が、眼前の骸骨の群れを吞み込む。しかし、炎は骸骨を素通りし、彼らを揺らすことさえできない。亡霊たちは炎の中を悠然と歩み寄る。
「物理攻撃が効かない……!」
「異能も通じない!? こいつら、実体がないのか!?」
「ごきげんようー♪」
高い、無邪気な声が包囲網の外から響く。リタが、エゼキエルと手を繋いだまま、ぴょんぴょんと軽く跳ねている。その笑顔は、新しくできた友達に会えた子供のように、純粋に明るく、温かい。
だが、その一片の瞳の奥に宿る光は──何かを弄び、壊し、愛おしむという、矛盾した感情が渦巻く、底知れぬ残酷さを秘めていた。
「ねえねえ、お名前は?」
「な……」
「ボクはリタ! こっちはエゼ! よろしくねー!」
リタがエゼキエルの腕を抱きしめ、くるりと一回転する。エゼキエルは、わずかに困惑したような、しかし拒まない表情を浮かべる。
「ボクたち、今から東の方に行くの! 新しいお友達に会いに行くんだー!」
「ひ、東……? そんな遠くまで……?」
リーダーが、喉を詰まらせたような声で呟く。東──それは、この大陸で最も危険な巨大勢力がひしめく地域だ。
「そう! すっごく遠いところにいるんだけどね!」
「や、やめておけ!! 向こうには魔法士の連中も、黎冥の狂信者もいる!! 安易に近付けば、お前たちですら死ぬぞ!!」
「でもお友達ほしいじゃん!」
「と、友達!? なにを寝ぼけたことを!! 悪いことは言わない、今すぐここを離れろ! 俺たちに関わるな!!」
「……どうして?」
リタの声が、ほんの少しだけ低くなる。それは、無邪気さという薄い氷の膜が、その下に蠢く何かによって、ほんの一瞬、裂け目を生じさせた瞬間だった。




