第三話 希望の灯火を消さぬように - 8
律灯とは、橋のたもとで別れた。
律灯は寧静亭へ。ルイは静月舎へ。別れ際、律灯は「お疲れ様でした」とだけ言った。帳面は、懐に仕舞われたままだった。
何が書かれていたのか、最後まで見えなかった。
静月舎の戸を引く。建て付けの悪い音が、暗い部屋に吸い込まれた。
戸口の脇に、盆がひとつ置かれていた。布巾をかけられている。そっと捲ると、握り飯が三つと、漬物の小皿。まだ、ほんのりと温かかった。
書き置きはなかった。なくても、誰のものかはわかった。
夕飯の刻限は、とうに過ぎている。ルイが食堂に来なかったから、あの人は、ここまで運んできたのだ。いつ戻るかわからない誰かのために、冷めきらないうちに。
寝台の縁に腰を下ろして、ひとつ齧る。塩が、効いていた。噛むたびに、米の甘みが舌の上でほどけていく。
三つとも、残さず食べた。漬物の最後の一切れまで。
空になった皿を見下ろして、しばらく動けなかった。
灯りは、点けなかった。窓から差し込む月の光だけで、部屋の輪郭は見えていた。
寝台に横になる。天井の節が、暗がりの中からこちらを見下ろしている。
眠れなかった。
目を閉じると、瞼の裏に白いものが浮かぶ。墓石の名前の溝を埋めていく霜。ほどけていく霧。宙で止まった自分の息。雪の上の、あったのかどうかもわからない、浅い窪み。
開けると、天井の節がある。
閉じる。開ける。何度繰り返しても、眠りはどこにも見当たらなかった。
『少し休みなさい。これは命令』
あの人の声が、耳の奥で鳴る。
命令を破るのは、二度目になるのだろうか。
起き上がった。
足の裏に触れた床板が、冷たかった。澄幽の夜に、床が冷たいと感じたことはない。いつだって、春の終わりのような温度をしていたはずだった。
窓辺に立つ。
月明かりの下で、谷が眠っている。森の梢が、黒い影の連なりになって静まり返っていた。その向こう、東の杜のあたりが、ほんのりと白い。
霜だ。
白の縁は、夕方に見たのと同じ場所にあった。墓石の列の、外側から数えて三つ目のあたり。そこから先へは、少しも広がっていなかった。
机に目を落とす。月の光が、そこに並べたものを淡く照らしていた。
藤崎の包み。二冊の手帳。
手帳の一冊を、手に取った。柔らかい字のほうだった。開きはしなかった。表紙の擦り切れた革を、親指でなぞる。
『過去に、立ち向かって』
あの人は、そう言った。越えてほしい、とも。
立ち向かうべきものが何なのか、ルイにはまだわからない。この手帳に書かれているのかもしれない。書かれていないのかもしれない。読めない以上、どちらでも同じことだ。
訊いても、答えはもらえなかった。
今は気にしなくていい、と。私を頼ってね、と。
頼れば、あの人はきっと支えてくれる。全力で、と言ってくれた。その言葉に嘘はないのだと思う。
けれど、あの人が支えるということは、あの人が何かを決めるということだ。誰かを配し、何かを固め、手を打つ。
そうして、門の夜が来る。
配された者は、他愛のない偶然ひとつで、盤面から払い落とされる。ミコがそう視て、そのとおりになった。
変わらない未来だと、あの人たちは知っている。知っていて、それでも手を打つ。打たずにはいられないのが、あの人なのだ。今朝、ミコの手を握りしめていた、あの白い指を思い出す。止まらないまま、どこにも届かない、あの手を。
その手に、これ以上、何かを握らせたくなかった。
壁の地図に、目を移す。
月明かりの中で、赤い印がいくつも黒く沈んで見えた。その横に書き添えた、小さな名前たち。
澄幽の周りは、もう何年も歩いてきた。北の廃墟。南の海岸線。東の果ては、何もない雪原が、ただ地平まで続いているだけだ。
西には、海がある。
海の向こうには、大陸がある。この星で唯一、国と呼べるものが残っているという場所。
あの二人が、何かを追っている場所。
空の色が変わる場所。
白い光が、空から降るのだとしたら。それが最初に落ちるのは、澄幽ではない気がした。
夕方、線の手前で見たものが、瞼の裏に戻ってくる。
雪の上の、浅い窪み。自分の踵の、半歩後ろ。風紋だったのかもしれない。光の加減だったのかもしれない。確かめる前に、風がすべてを均してしまった。
それでも、もし。もし、あれが本当に、そこにいたのなら。
窪みが並んでいたのは、ルイの足跡の後ろだった。前を歩く律灯の足跡の後ろには、何もなかった。そう、見えた。
なら、ルイが澄幽を離れれば、あれも離れるのかもしれない。
離れないのかもしれない。
そもそも、あれなど、最初からいなかったのかもしれないが。
わからない。
わからないことばかりだった。今日一日で、わからないことが、両手で抱えきれないほど増えた。
それでも、ひとつだけ、わかっていることがあった。
ここにいれば、あれは、線が削れるのを待っているだけでいい。ルイが動けば、少なくとも、あれがどこで止まるのかは、ルイが選べる。
『──君の試練は、君ひとりのものとは限らないだろう?』
限らないのかもしれない。
けれど、ひとりのものにすることは、できる。
ルイは、手帳を机に戻した。
コートを羽織る。
ホルスターに双銃を収める。
棚からランタンを下ろした。札は、ない。
珠桜から手渡されたゴーグルを、首にかける。
机の上の包みを、手に取った。藤崎の菓子。炒った木の実を、蜜で固めたもの。取り合う子らは、もういない。全部、ルイのものだ。
懐に入れる。ほんのりとした重さが、胸の上に落ち着いた。
手帳は、置いていくことにした。読めないものを持っていっても、仕方がない。それに、ここに置いておけば、戻る理由がひとつ残る。
机の端に、紙と鉛筆があった。何か書いておくべきだと思った。黙って出ていけば、あの人たちはきっと探す。
鉛筆を取る。
『少し、出てきます』
そう書きかけて、手が止まった。
少し、ではないかもしれない。出てきます、の先に、戻ります、と書けるのかもわからない。
試練です、とも書けない。あの足跡のことも書けない。書けば、あの人たちは追ってくる。
書けることが、何もなかった。
鉛筆を置いた。紙は、白いままだった。
戸を引く。建て付けの悪い音が、今夜だけは、ひどく大きく聞こえた。
夜明け前の谷は、青かった。
偽りの月が傾き、偽りの陽はまだ昇らない。そのあいだの、どちらのものでもない薄明かり。霧が、谷底から静かに湧き始めている。
足音を殺して、翠霞庵の前を通り過ぎる。
療養所の裏手の戸は、いつも鍵がかかっていない。棚の二段目に、消毒用のアルコールと、傷薬を染み込ませたテープが仕舞われているのも知っている。
ひと揃いだけ、ポーチに入れた。葛城に知られたら、ただでは済まない。戻ったら、まずそれを謝らないといけない。
戻ったら。
療養所を出たところで、足が止まった。
翠霞庵の奥。いくつも並んだ窓のひとつ。
あの向こうで、シアが眠っている。
『一人で行っちゃだめだよ。絶対ね』
赤くかじかんだ指が、袖を掴んでいた。今朝のことだ。ずっと昔のことのように思える。
起こせば、あの子は来る。
どれだけ止めても、来る。止めれば止めるほど、あの子は光を探すように、前へ出てくる。
だから、起こさない。
窓に背を向けた。
厨房の窓からは、まだ灯りが漏れていなかった。藤崎が起きるのは、もう少し後だ。
『明日の朝も、ちゃんと食べにおいでや』
はい、と答えた。
その約束を、今、破ろうとしている。
霧渡りの橋を渡る。
足の下で、板が鳴った。真ん中で、立ち止まりはしなかった。立ち止まっても、もう誰も怒鳴らない。それを確かめるのは、昨日だけで十分だった。
月風門が、霧の中に浮かび上がる。
風化した巨石と、古木の柱。その足元に、白が厚く渦を巻いている。門は、まだ大丈夫です。律灯の声が、耳の奥をかすめた。
ゴーグルを、目元まで下ろす。
前髪を、掻き上げる。
振り返りはしなかった。
振り返ったら、今度こそ、足が動かなくなる気がした。
門をくぐる。
世界が、白に沈んだ。
手の先さえ見えない霧の中を、ルイは一歩ずつ歩いた。方角も、距離も、どこから来たのかさえも、ゆっくりと溶かされていく。
いつもなら、この白の先で、花の匂いがして、谷が開ける。
帰ってきた、と思う瞬間が来る。
今日は、その反対側へ歩いていく。
霧の向こうで、灰色が待っている。




