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第七話 微熱に浸る余韻 - 2

 不意に、心臓が跳ねた。


「……え?」


 さっきまでの騒がしさが、まるで幻だったかのように空気が静まり返る。

 風の音さえ聞こえない。ただ、彼の声だけが胸に残っていた。


 ルイはコートを脱ぎ、丁寧に広げ、シアをそっとその上に座らせる。

 彼の動きに、無理やりさはなかった。ただ静かに、少しだけ冷たく感じられる寂しさが漂っていた。


「……勝手に持ち出してきたんだ。印象、悪いかもしれないけど」


 ぼそりと呟きながら、ルイはポーチの中身を取り出す。アルコールと、傷薬が染み込んだテープ。澄幽から密かに持ち出した応急処置の道具だ。

 怪我をしないわけがない。これがなければ無駄死にする。だから持ってきた。まさか、他人のために使うことになんて思いもしていなかったが。


 ルイの手が、そっとシアの傷口に触れる。


「っ……」


 沁みる痛みにシアが小さく肩をすくめると、彼はほんのわずかに力を緩めた。その仕草に――優しさ以上の、なにかが宿っているように思えて、胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。


「ル、イ……」


 小さく名前を呼ぶと、彼の手がほんの一瞬、動きを止めた。

 呼吸が、近い。距離も、ぬくもりも、言葉より先に、心に届いてくる。


 まつ毛がわずかに揺れ、ルイの瞳がシアをまっすぐと見つめた。

 そして、ぽつりと零れるように言った。


「……悪かった。あんな……心にもないことを」


 その声音は、どこまでも静かだった。

 けれど、その静けさの奥に――確かに何かを押し殺すような、重たい色があった。


「……!」


 シアの喉がきゅっと詰まった。それは、ただの謝罪ではないと、彼女は感じていた。もっと深く、もっと強く、けれど彼の口からは決してこぼれない、言葉にできない“何か”が込められている。

 その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような、痛みを伴ったざわつきが走った。彼の声は、まっすぐに、重く、心の奥まで届いてきた。


「ううん……私、何も知らないのにいろいろ無茶なこと言って……でも、ルイがまた立ち上がってくれて、よかったと思ってるよ」


 シアは精一杯の笑顔を作った。けれどその笑顔には、ほんの少しだけ引きつりがあり、彼女の心がその裏で揺れていることを隠しきれなかった。彼女もまた、どこかで自分の言葉や行動が、ルイに重荷を押し付けているのではないかと感じていた。

 ルイはその微かな違和感をすぐに察したが、どう声をかければよいのか分からず、しばらくの間、ただ黙って彼女を見つめることしかできなかった。


 ルイはゆっくりと視線を落とし、深く息を吐く。その動作に、何かを堪えようとするような空気が漂う。


 指先に、全身に、あの瞬間の感覚が今もなおしっかりと残っている。

 ――酷く熱く、痛く、確実に"死"を感じたあの瞬間の記憶。


「まだ完全に立ち直れたわけでは……正直、無い」


 ルイは、ぎりぎりのところで言葉を絞り出す。


「でもお前が……シアが無茶するのを……見過ごせなくて」

「っ……」


 シアの心臓が、ぎゅっと掴まれたように跳ねる。

 ルイの言葉はあまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐだった。まるで「それ以外に理由があるのか?」とでも言うかのように、何の疑いもなく、当然のように紡がれる。時々彼が無意識に漏らす素直すぎる言葉が、シアの胸に深く、痛いほどに響く。


「無茶なことを言うのはいいんだけどさ」


 ルイは、シアの肩にそっと手を置いた。

 温かくて、優しくて、だけどどこか無造作なその仕草。けれどそれはシアにとって、ただの優しさではなく、もっと深い――彼の心の中の、シアへの強い想いがにじみ出ているように感じられた。


「もう二度と、俺のために犠牲になるなんてことだけは……言わないで」


 ルイの声は低く、静かながらも、彼女の心に強く響く。言葉が胸に突き刺さるようで、シアの心の中に冷たい空気がひゅっと流れ込む。


「ルイ……?」


 彼は答えず、ただじっとシアの肩の傷を見つめていた。その瞳には、痛みと苦しみがにじみ出ている。

 シアはようやく、"それ"を理解する。自分がどれだけ無茶をして、どれだけ彼に心配をかけたのか――その重みが、今、じわじわと押し寄せてきた。



「……お前を守りたくて戦ってるのに、シアが俺を庇って犠牲になっちゃ、意味がないだろ」


 ルイの声には、かすかな震えがあった。指先が、わずかに震えているのを感じる。彼は何も言わないけれど、間違いなく深く傷ついている。


「もっと自分を大切にしてくれ」



 その声はどこまでも真剣で、どこまでも優しさかった。けれど、その言葉の重みの割に、ルイの顔はまるで自覚がないようで、どこか少し無防備な表情を浮かべている。


(……ルイ、私のことなんて、なんとも思ってないと思ってたけど……)


 突然、胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなる。心臓がきゅーっと縮こまり、顔がじわっと熱くなるのが分かる。


(……だめだ、冷静にならないと。)


 本人はきっと「仲間だから」くらいのつもりで言っているのだろう。けれど、その無自覚な優しさが、シアの心を何度も何度も掻き乱していく。表情も、声のトーンも、ほんの些細な仕草のひとつひとつも、すべてが心に溶け込むようで。まるで自分を求められているような、甘い錯覚に陥りそうになって。


「シア?」


 ルイが小さく眉をひそめる。


「顔が赤い……もしかして、もう熱が出たのか!?」

「っ!!」

「さすがに解熱剤は持ってないな……背中、乗ってくれれば澄幽まで急ぐけど」

「ち、ちがう!! ちがうから!!!」


 シアは慌てて顔を背け、両手をぶんぶん振った。焦って裏返る声が、思わず顔をさらに熱くさせる。その必死さに、ルイはますます不思議そうな顔をして、シアの反応を気にしている。


「シア……お前。今日、なんかおかしい」


 シアの胸が、再びドキンと大きく跳ねる。さらに顔を赤らめながら、また両手を振った。


「いやもうほんと、ちがうんだってば!!!!」

「……?」


 自分でも何が言いたいのか分からなくなる。けれど、その言葉も、今となっては何もかもが空回りしているような気がして、胸がさらに苦しくなる。


 どうしてこんなにも恥ずかしくて、甘い気持ちがこみ上げてくるのか、説明できない。

 普段から自分はルイに対して、心の中の気持ちを包み隠さずに曝け出しているはずだった。それなのに、ふと、ほんの少しだけルイの気持ちが見えた気がした瞬間、シアの心は一気に揺さぶられ、乱されてしまうなんて。


 ルイはますます不思議そうにシアを見ている。彼が今、自分の気持ちに全く気づかないまま疑問を浮かべるその姿が、ますますシアを追い詰めていく。


(この無自覚バカ!!!!!)


 シアは心の中で叫びそうになるけれど、その叫びも、恥ずかしさと切なさで胸がいっぱいになって、思わず涙ぐみそうになる。こんなにも甘い感情を抱く自分が、どうしてこんなにも恥ずかしくてたまらないのか、もう分からなくなりそうだ。


 その時、ルイが何気なく、けれど真剣な表情で呟いた。


「……まだ、何があったかは話せない。けど、澄幽には一回戻ることにするよ」


 シアは思わずその言葉に耳を澄ませる。ルイが何を考えているのかを見逃さないように、必死で集中してしまう。


「珠桜さんと律灯に……きちんと謝って、頼ってみる」


 そして、ルイは傷口をテープで塞ぎ終わると、ほんの少しだけ口元を緩めて、穏やかな表情で言葉を続けた。


「それと、危なっかしいお前のことも、ちゃんと送り届けないとな」

「……!」


 その一言が、シアの胸をふわっと温かく包み込むような感覚を呼び起こす。思わず目が大きく見開かれ、驚きと同時に胸の奥がきゅっと痛んだ。


(もう! そういうことをさらっと言うの、ほんとズルい!!)


 顔が熱くて、言葉が詰まる。けれど、それでもその言葉が嬉しくてたまらない。シアはその感情を笑顔に変えようと、心の中で必死に努力し、「うん!」と、晴れやかに微笑んだ。

 その瞬間、ルイの顔にも少しだけ、穏やかな表情が浮かんだ。


 そんなふうに笑ってくれるから、ルイの心は少しだけ、楽になった気がした。

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