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第五十三話 この世界に、帰る場所 - 1

 澄幽に戻るまで、一週間かからなかった。

 道中、ベリースヴェートの眷属の力らしい空間跳躍で、魔法士の活動域をいくつか無理やり越えさせられたのだが──その代償として、本来まっすぐ澄幽へ向かえるはずが、全く見当違いの場所に降ろされたこともあった。琴葉が眉をひそめ、「今度やったら蝶の翅をもぎ取るから覚えてなさいよ」と、冷たく、しかし本気の脅しをかけたのを、ルイは今でも鮮明に覚えている。


 ──月風門をくぐった、その瞬間。


 視界が一変する。

 外の荒涼とした、命の匂いすら希薄な世界とは打って変わって、澄幽の空気は柔らかく、微かに湿り気を帯びていた。それは、傷ついた身体の奥底に染み渡るような、優しい冷たさでもある。霧渡りの橋の白い霧が足元を流れ、立ち昇る水煙が、帰還者の睫毛をわずかに濡らした。

 橋の向こう側、澄幽の中心へと続く石畳の道の先から、一人の人影が駆け寄ってくる。足音は小刻みに、しかし確かに、こちらの方へと近づく。


「おかえりー!!」


 その声は、耳を劈くほどに大きく、そしてどこまでも陽気に響いた。満面に笑みを浮かべた藤崎の姿が、霧の中からくっきりと浮かび上がる。

 彼女は息を切らしながら、まるで帰ってきたわが子を迎え入れるように──いや、それ以上に切実な思いを込めて、ルイとシアへと駆け寄ってきた。そして迷いなく、躊躇ひとつなく、二人の身体に飛びついた。ルイの胸に、シアの肩に、藤崎の柔らかく、しかししっかりとした腕が回される。


 暖かい。

 とても、とても暖かい。

 外の極寒と、死と隣り合わせの戦いを思い返せば、この肌に伝わる温もりが、どれほど儚く、そして尊いものか、嫌というほどに骨身に染みて分かってしまう。藤崎の服の感触、彼女の髪から漂う、澄幽で使われている柔らかな洗剤の香り──すべてが、「ここ」に帰ってきたという現実を、痛いほどに優しく突きつけてくる。


「おかえりなさい、ルイ君、シアちゃん。えらい遠出しはりましたねぇ……!!」


 藤崎の声は、いつもの柔らかさの中に、堰を切ったような安堵と喜びの震えが混ざっていた。彼女の目尻には、きらりと光る涙の気配さえ見える。長い間、二人が無事に帰ってくるかどうか──ここで、きっと毎日のように門の方を眺めながら、待ち続けていたのだろう。三週間近くも、心を苛ませ、待たせてしまった。


「ただいま、藤崎さん」


 ルイが、ようやくそう口にすると、喉の奥が詰まった。胸の奥底が、じわりと、ゆっくりと熱くなっていく。自分でも気づかないうちに、力が抜け、藤崎の抱擁に少しだけ体重を預けていた。

 ここは、確かに──帰ってくる場所なのだ。



 次に現れたのは響哉だった。


「ルイ君、シアちゃん、無事か!?」


 足音は軽やかで、まるで床を蹴るたびに躍動するようなリズムを刻んでいる。彼の表情は、この数週間で見たことのないほどに明るく、有頂天になった子供のようだった。医師・葛城に課せられた静養室での監禁生活から、ようやく外へ出ることを許されたのだろう。頬には薄く健康な血色が戻り、目には久々の外界の光がきらめいていた。

 その背後、一歩後ろを、影のように静かに従うのが律灯である。紫檀色の髪が微かに揺れ、いつも通りの穏やかで微かな笑みを浮かべていた。


「はい! もちろんです!」


 シアが、胸を張って元気よく答えた。その声には、外という苛烈な環境で鍛え上げられた確かな自信と、生死の境をくぐり抜けてきたという、どこか誇らしげな実感が込められていた。過酷な訓練の痕跡は、彼女の引き締まった肢体や、一層研ぎ澄まされた眼差しに如実に表れている。確かに苦痛はあったが、それを凌駕する成長の手応えが、彼女に凛とした勢いを与えていた。


「あの琴葉の訓練で……?」


 響哉の声は、思わず漏れたように、深い疑念と驚きを含んでいた。彼自身、琴葉が"指導"と称して行うことが、いかに容赦なく、時に残酷ですらあるかを――身をもって、骨の髄まで知っていた。その記憶が蘇り、無事でいられること自体が信じられない、という表情が一瞬、彼の顔を掠める。

 すると、まるでその疑念を察知したように、琴葉がくるりと涼しい顔で響哉を見やった。長い睫毛がゆっくりと一度、伏せられてから上げられる。その仕草には、あからさまな挑発めいた余裕がにじんでいる。


「何かしら? 私、教えるの上手いのよ。ねえ、律灯」

「はい」


 律灯は、そっと目を細めて穏やかに頷いた。その表情には、琴葉への絶対的な信頼と、彼女の厳格すぎるほどに的確な指導法への静かな肯定が滲んでいた。


「律灯も琴葉の訓練を?」


 ルイが、少し意外そうに律灯を見やる。

 律灯は軽く首を傾げ、優しく、しかしどこか儚げな微笑みを浮かべた。前髪がその動きに合わせて揺れ、目元をわずかに覆う。


「はい。短期的に戦闘訓練をしてもらっているだけなので、きっとすぐに二人には抜かされてしまいますね」


 その言葉は、控えめで謙遜に響く。しかし、その奥には、己に課された任務を全うするための不断の努力と、自分を過小評価する律灯らしい慎重さが同居していた。



 そして──



「みんな、おかえり」


 ──珠桜が、ゆっくりと歩いてくる。



 足音は、石畳をかすかに擦るような微かな音だった。その足取りは、まだ一枚の薄氷を踏むかのように慎重ではあるものの、確かに自らの力で一歩、また一歩と地面を踏みしめて進んでいた。黒髪が静かな動作に合わせて揺れ、午後の仄かな光の中で深い艶を帯びる。その姿を見て、琴葉の目が一瞬だけ──ほんの一瞬、鋭く見開かれた。


「珠桜! 貴方、歩いても大丈夫なの?」


 琴葉の声は、思わず早口になり、いつもの冷たい抑揚の底に、かすかな焦りの色が浮かんでいた。彼女は慌てたように駆け寄り、珠桜の腕をそっと、しかし確かに支える。その手つきには、絶対に零さないという強い意志と、同時に壊れやすいものを扱うような細やかな気遣いが同居していた。


「やっと歩いていいって、葛城が許してくれたんだ。つい一昨日の話だよ」


 珠桜が穏やかに、しかし目に見えて嬉しそうに微笑む。その笑みは、長い闇の底からようやく顔をのぞかせた月のように、静かで、そして確かな光を放っていた。長い療養の末に掴んだ自由への安堵、そして再び皆と同じ地面を踏みしめられることへの、ひそやかな歓び。すべてが、その微かな笑みの皺に、揺れる睫毛の先に滲み出ている。

 珠桜の視線が、柔らかな弧を描いて、ルイとシアへと向けられる。その瞳は、深い漆黒の湖面のように、二人の姿を優しく包み込む。


「ルイ君とシアは、どうだったかな」


 声は相変わらず、蜜のように甘く柔らかい。しかし、そこには以前よりも確かな、地に足のついた温もりが加わっていた。


「二人は素直で、飲み込みが早いの。きっと、次の出撃の時びっくりするわよ」


 琴葉が答える。彼女は珠桜から少し離れ、いつものように背筋を伸ばして立った。しかし、その言葉には珍しく──ほんのわずかだが、隠しきれない満足感の色が混じっていた。厳しい教官の仮面の奥で、芽生えた小さな誇りのようなものが、言葉の端々に光っていた。


「……ふふっ、随分と楽しかったみたいだね、琴葉」


 珠桜の言葉は、そっと琴葉の耳元に落ちる羽毛のように、柔らかく、そして確かに届いた。


「あ……」


 琴葉の動きが、一瞬だけ完全に止まる。

 彼女の頬が、ほんのりと──夕焼け雲が滲むように、かすかな朱に染まった。目が一瞬大きく見開かれ、唇が微かに震える。そして、まるで何かを隠すかのように、慌てて視線を逸らし、珠桜から完全に離れると、何事もなかったかのように立ち位置を整える。しかし、その整える手つきが、普段の完璧な冷静さよりもほんの少しだけ速く、ほんの少しだけ乱れていた。それは、彼女が決して口には出さない、心底からの喜びと照れが、無意識のうちに形を変えて現れた一瞬だった。

 ルイとシアはそっと顔を見合わせ、互いの瞳に映る小さな驚きと温かさを確かめ合い、そして思わず、ほころぶような笑みを浮かべた。

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