第五十二話 仰ぐは星辰の背 - 4
琴葉が完全に振り返り、眼下の混沌を一瞥した。
深紅の瞳には、今まで微睡ませていた、絶対的な凜とした光が、静かに、しかし確実に点火された。それは、教師でも保護者でもない。紛れもなく、遥かなる戦場の深淵そのものを内包し、法則さえも裁く「絶対者」の眼差しだ。彼女の周囲の空気が、微かに──物理法則から外れたかのように歪み始め、光さえもが彼女の輪郭を避けるように屈折した。
ルイが魔力の増幅を開始する。環境の粒子が濁流となり、琴葉へと流れ込む。しかし、彼女の表情に一片の動揺も、不快感もない。むしろ、その身に満ちる膨大で雑多な力を受け入れ、純化し、己の一部とするように、静かに目を閉じる。彼女の内部で、混沌が秩序へと再編成される音が、ルイの耳にだけかすかに聞こえたような気がした。
琴葉は片足を引いて、微かに腰を落とす。構えではない。ただ、地に足をつける、ごく自然な姿勢だ。
彼女の深紅の瞳が、再び開かれたとき、一際明るい、星霜を凝縮したような冷たい輝きを放った。
「──《因果穿律》」
彼女の口から紡ぎ出されたのは、宣告であり、世界に対する一つの定理の提示だった。詠唱と呼ぶにはあまりにも無機質で、冷徹。無駄を極端に嫌う彼女が、わざわざ言葉にしたその時点で、それはもはや"現象"の発生を告げる鐘の音に等しい。
琴葉が、人差し指を、ごく自然に──そっと混沌の方向へ向けた。
武器を構えるのでもなく、魔法陣を描くのでもない。ただ何気なく、どこか一点を指し示す、それだけの日常的な仕草。あまりにも無防備で、無害ですらあるその動きに合わせて、
──世界が、一瞬、息を呑んだ。
音はなかった。あるいは、あったとしても、それは人間の聴覚が捉え得ない領域の振動だった。地殻の深奥で岩盤がねじ断たれるような、あるいは星々の間を流れる真空そのものが軋むような、深く重い無音の響きが、ルイとシアの骨髄を、魂の奥底を直接貫いた。
過程を捉えることができなかった彼らの眼前で──結果が提示される。
標的となった星骸の群れ──騎士型の鋼鉄の甲冑、飛翔型の歪んだ翼膜、軟体型の不定形の塊、その他一切の異形。それらすべてが、抵抗の意思を示す間もなく、何かに貫かれていた。貫いたのは、天から降る槍でも、刃ですらない。ただ、魔力を凝縮させた、目にもただ陽炎のようにしか映らない、"何か"。
「……こんなもの?」
琴葉が、踵を地面にごく軽く触れる。その僅かな動作が、次の「律」の引き金となる。
今度は、星骸たちが発する歪んだエネルギーも、その無定形の巨体も、そして周囲に立ち込めていた現実を侵食する霧さえも──全てが、音もなく、爆発もなく、色彩すら失い、ただ「無」へと還った。
ドサッと、星骸核だけが、唯一そこに星骸が存在していた証拠品として地面に落ちた。それ以外の全ての痕跡──戦闘の気配、敵意、歪んだ空間、死の臭い──さえも、砂上の楼閣が潮に洗われるように消え去ってしまった。
琴葉はそっと手を下ろし、白いドレスの裾を整える。一瞬にして万象を律した後の彼女の吐息は乱れていない。
あまりに完璧で、無欠で、それがかえって──この世界が、彼女の一挙手一投足に畏怖して息を潜めているような、底知れぬ不気味さを醸し出していた。
ルイとシアは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
言葉も思考も、一瞬で吹き飛ばされた。自分たちが懸命に戦ってきたこと、成長してきたことの全てが、あまりにもちっぽけな砂の城のように感じられた。
ふわり、と微かに空気が動く。
琴葉がゆっくりと振り返った。その動きに合わせて、純白のドレスの裾が静かに波打ち、廃墟に漂う塵の粒子を優雅に巻き上げる。彼女の瞳は、今も変わらず深く静かで、先ほどの戦いの痕跡など、微塵も宿していなかった。
「……ほら、移動するわよ」
彼女が二人の傍らへと、音もなく歩み寄る。
そのとき、ルイはやっと言葉を取り戻した。喉の奥から絞り出すように、曖昧な疑問が零れる。
「お前……今まで、なんで……あんな力、隠して……」
「訓練は、段階的に行うものよ」
琴葉の答えは、速く、淡泊だった。そこにためらいや説明の余地はない。それは、揺るぎない教育方針であり、彼女なりの配慮という形をとった、冷たいまでの誠実さだった。
「飛ばしすぎる階段は、登る者の足を挫くだけ。貴方たちが、ちゃんと適切な段階を目指して、背伸びしすぎずに済むようにしてやる義務が、教える側にはある」
琴葉がほんの少し、口元を緩める。それは、万年雪に覆われた氷原の一角に、一瞬だけ咲き、そして散る幻の花のような、儚くも確かな表情だった。温かさと、どこか哀しげな諦念が、そこには同居している。
「貴方たち自身の手で、未来を切り開いていく力が欲しいんでしょう? ならば──
次は、ここまで来なさい。私の『今』の隣に立つために、必要な一歩を」
彼女はそれだけ言って、踵を返した。
ルイは先を行く琴葉の、細くも確固たる背中を見つめていた。彼女は一度も振り返らない。ただ、深紅に染まったリボンの結び目が、彼の視界の先で、微かに、規則的なリズムで揺れ続けている。
その背中には、彼にはまだ計り知れない、膨大な時と、無数の戦いと、おそらくは数え切れないほどの別れの記憶が、年月の地層のように静かに刻まれているようだった。そして、そのすべてを背負いながら、彼女は今、二人に次の段階への道を示していた。




