第五十二話 仰ぐは星辰の背 - 3
シアは膝をつき、肩で荒い息をしている。顔色は青白く、過剰な魔力の奔流に身体を貫かれたような消耗が、全身から滲み出ていた。彼女の指先は未だ微かに震え、杖剣を握った掌には、魔力の余熱による赤みが残っている。
一方、琴葉はルイを腕一つで軽く支え、シアがいる岩場へと向かった。彼女は軽く──あまりにも軽く身体強化を施し、たった一度の跳躍で、十数メートルの険しい斜面を無視するかのように、その頂点まで到達してみせた。その規格外の動き、重力に抗うような優雅な軌跡に、ルイもシアも、言葉を失うほどの驚きを覚えた。彼女の身体能力は、常に戦闘という概念を超えた、ある種の美学の域に達していた。
「やったな、シア」ルイの声は若干息が上がっているが、その瞳には肉体的な疲労よりも、高揚の熱が灯っていた。異能で魔力を乱暴に増幅させたことによる、精神的な消耗と緊張感はあるものの、身体自体はまだ戦える余力を残しているようだ。彼は琴葉の支えから、感謝の意味を込めてそっと身を離し、自らの足でしっかりと地面を踏みしめた。
「うん……! 倒せたよ! 私、ちゃんと……!」シアが顔を上げる。その目には、揺るぎない達成感と、今までにない確かな自信が、宝石のように煌めいていた。
「見事だったわ」
琴葉がそう言い、ほんの少し、口元を緩めた。それは、ほとんど見逃してしまいそうな、風に揺れる木の葉の影のような微かな変化だが、確かにそこには、称賛の色があった。
彼女の深紅の瞳が、ルイの表情を一瞬、鋭く観察するような、診断するような視線で掠めた。異能の乱用による微かな疲労の影はないか。しかし、何も見出せなかったのか、すぐにまた彼女は、完璧な氷の面具のような平常の冷静さを取り戻す。
──その間も、ベリースヴェートが、ルイの頭上を、無力に、悲しそうに舞っている。その半透明の小さな翅の動きは、どこか途方に暮れたようだった。
『あ……あぁ……私の大切な、綺麗なルイが……あの穢れた粒子に触れてしまった……純粋なままでは、いられなくなってしまう……取り返しのつかないことを……』
ルイとシアは、思わず顔を見合わせ、くすりと、しかしどこか疲れの混じった苦笑いを浮かべた。その表情には、死と隣り合わせの戦いの緊張から解かれた安堵と、ベリースヴェートの過剰なまでの心配癖と謎の美意識への、温かい、しかし少々呆れたような諦めが混ざり合っていた。彼ら三人にとっての戦いは、この蝶にとっては美の冒涜でしかないらしいが、今は誰もそれを気にしていなかった。
──その瞬間の小さな安堵は、脆いガラスのように、瞬く間に砕かれた。
新たな敵の気配を感じ、三人の表情が引き締まる。
高台の下に、まず一匹の星骸が現れた。それは、先ほど倒した星骸とは似ても似つかない、骨のように細く、鋭い刃を備えた人型だった。
次に、もう一匹。鈍く光る甲殻に覆われた、巨大な蠍のような姿。
三匹、四匹──知覚できる端から端へと、数え切れないほどの影が蠢き始める。しかも、それらは皆、単一種族の群れではない。重厚な鎧を纏った騎士のような人型。鋭い翼を持つ飛翔型。地面を這い、毒の瘴気を吐く不定形の軟体型。さらには、今まで見たこともない、幾何学的な装甲に覆われた、機械と生物の境目が曖昧な異形の姿まで。
種もサイズも異なる星骸たちが、乱れることなく、一つの集団として立ち塞がっていた。
「これは……」
シアが息を呑んだ。彼女の顔から血の気が一気に引き、膝の力が抜けそうになる。
「異なる種類の星骸が、まとまって……? こんなの、報告にも……見たこともない……」
ベリースヴェートの声に、初めて、優雅さを失った、本物の緊張──いや、混乱が混じる。
『これは……極めて不自然です。異なる生態、異なる階層、時に互いに争うはずの星骸が、これほど整然と、かつ同時に、一つの意志のように出現するとは……』
さらに新たな気配が、群れの奥深くから、地獄の底から湧き上がるように迫ってきた。
それは、今までのどの星骸よりも──存在そのものが周囲の現実を蝕むような、根源的な不気味さを湛えている。
ゆっくりと、巨大な影が現れた。
それは姿形と呼べるものを持っていなかった。不定形の闇が絶え間なく蠢き、流動し、所々に無数の赤い瞳が不規則に開閉し、無数の触手、無数の刃、無数の口が、その肉体から生えては消え、溶けては形成されていく。大きさは先ほどの星骸を凌ぎ、その存在そのものが周囲の空間を歪ませ、視界がゆがみ、音が濁るような錯覚さえ覚える。
「久々に、面白いのが出たわね」
琴葉の声は相変わらず水のように平然としていたが、その深紅の瞳は微かに細まり、獲物を測る鷹のような、そしてどこか好奇心に満ちた鋭さを帯びている。彼女の口元が、ほんの少し、危険な笑みを孕んでいた。
無数の星骸の群れが、一斉に咆哮する。地響きが森を震わせ、木々の葉がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ──そのほとんどが、次の瞬間、飛翔型星骸の鋭い嘴や触手に捕らえられ、空中で散華する。
「……流石に厳しいかもしれない」ルイが琴葉を見やりながら言う。喉が渇き、声に張りがない。「一体ずつなら相手はできるが、その間に囲まれて、挟み撃ちにされる可能性が高い」
「私も……数が多すぎて、狙いを定めるのが……どうしよう、琴葉ちゃん」シアも、琴葉を見て言った。彼女の手は、杖剣を握りしめたまま、微かに震えていた。
その時だ。
琴葉が、高台の最果ての岩角に、そっと片足を乗せて立った。まるで断崖に咲く一輪の花のように。白いドレスの裾が、突然強く渦巻き始めた不気味な風に翻り、その純白が、眼下の蠢く闇と翡翠色の光を一層際立たせる。
彼女は地の底から湧き上がる地獄絵図を、女王が庭園を見下ろすような眼差しで淡く見据え、淡々と、しかしその声の一音一音に鋼の芯を宿らせて口を開く。
「いい判断ね。冷静に状況を分析できていて、偉いわ」
そして、ゆっくりと振り返る。
「私がやる。貴方たちは──」
その深紅の瞳は、鋭く、しかし確かな信頼を込めてルイを捉えた。
「ルイ。さっきシアにやったみたいに、私にも魔力を頂戴。同じくらい、いや──」
一瞬、間を置く。彼女の口元が、危険で甘美な弧を描いた。
「それ以上でも、行ける?」
その言葉には、挑戦であり、信頼であり、そして彼女自身の貪欲な期待が混ざり合っていた。
「ああ。任せてくれ」
ルイは深く頷き、目を閉じて再び視界を星溶粒子の世界へと切り替える。感覚を極限まで研ぎ澄まし、環境に漂う全ての魔力の流れ──清冽な白も、腐敗した翡翠も、混沌とした闇も──全てを巨大な渦として捉え、その中心に琴葉という一点へと収束させるイメージを鮮明に抱く。
ちなみに今度は、ベリースヴェートの悲鳴は聞こえないよう、ある程度異能を使って防いでみた。おかげで、今回は集中をかき乱されなくて済みそうだ。
「シア」
琴葉が呼びかける。その声は、いつもの鋭さの中に、ほんのわずかな──"本物の魔法師"として、シアの生み出す"理不尽"と真っ向から勝負しようとする、研ぎ澄まされた闘争本能の炎が、静かに、しかし煌々と点火された音色が混じった
彼女はそっと、片手を前に差し出した。何も持っていない、その白く細い指先が、今や最強の魔杖となる。
「見てなさい。貴方の、次の手本を見せてあげる」




