第五十二話 仰ぐは星辰の背 - 2
三人は廃屋を出て、少し開けた地形へと移動する。巨大な星骸は、既に彼らの気配を鋭く感知していた。ゆっくりと、しかし決定的に方向を変え、こちらへ歩き始める。その一歩一歩が大地を低く唸らせ、地面の小石が微かに、死んだ虫のように跳ねる。朝霧がその巨体にまとわりつき、関節から漏れる翡翠色の光が不気味に霞み、亡霊の燐光のように揺らめいている。
その時、ふと琴葉の声が、冷たい水のようにルイの記憶を掠めた。
『戦闘を始める前に、全ての計画を立てること』
音もなく佇む彼女の深紅の瞳が、虚空を見据えている。
『立てられなかったら、二つの未来が待っている。負けるか。死ぬか』
そして、微かに──ほんの些細な角度で口元が緩む。
『でも、それでは駄目。そうでしょう?』
計画。観測。理解。そして、破壊。
ルイは深く息を吸い込み、目を凝らした。
「──まずは弱点を見極めるぞ」
視界の焦点を変える。世界の表層を剥ぎ取り、その下に蠢く"流れ"を見据える感覚へ──星溶粒子を視るように、意識を深く沈めていく。
すると、視界が一変した。眼前の巨体は、もはや黒鉄の塊ではない。無数の翡翠色の粒子が、粘稠な毒の川のように、その内部を淀み、うごめきながら流れている。それは生命の循環ではなく、腐敗が生み出す悪性の循環だ。そして、その流れが幾つかのポイントで淀み、渦を巻き、腐った臓器が不気味に脈打つように鼓動しているのが見える。
特に濃く、強く、歪に光るポイントが四つ。四本の脚の付け根。一個。首の付け根の深部。一個。そして、胸郭の中心──最も深く、最も暗く、最も強く蠢く一点。そこが、この歪な擬似生命の鼓動の根源だ。核。破壊すべき、唯一の終点。
ルイは唇を噛んだ。計画の第一歩が、霧の中で明確な輪郭を得た瞬間だった。
「脚の付け根に一つずつ、首、それから胸の中心……あれが核だな」
「分かった」
その返事をするシアの額に、冷や汗が微かに光っていた。彼女の感覚はまだ研ぎ澄まされていない。シアの意識の奥底で、琴葉の指導の記憶が静かに響く。
『シアはまだ気配察知が十分じゃないわ』
声は、評定するように、しかし冷たくはない。
『でも、見れば、できる。きちんと落ち着いて、相手を捉えることが今は大切』
琴葉の教えが、シアの中で、曇りガラスを拭くように作用する。彼女は深く息を吸い、吐き出す。揺らぎが、少しずつ沈静化していく。
「ルイ、東に高台が見える。私、あそこから狙うよ!」
「了解!」
険しい岩肌を、シア一人が魔法を駆使して登っていく。初日に琴葉に叩き込まれた、魔力を足場に変える登攀法だ。飛行よりも魔力の消費が少ない、生存に適した登り方。その動作も、苛烈な訓練の痕跡として、無駄が削ぎ落とされ、かなり様になってきた。魔力の光が岩肌に一瞬だけ花咲き、それが消える前に次の足場が創られる──命綱のようなリズム。
その間にも、星骸が距離を詰めてくる。二百メートル。百五十メートル。その巨体が視界を覆い、放つ威圧感が皮膚にじっとりと、冷たく重い液体のようにまとわりつく。錆びついた血と金属が混じり、腐敗した有機物の甘ったるい臭いが、湿った風に乗って流れてきて、喉の奥に不快な膜を張る。
「ルイ、注意を引いて! 一発で倒すために、ほんの少し……時間を稼いでほしい!」
シアの声が、少し震えている。彼女は岩場の頂きに膝をつき、杖剣をしっかりと握りしめながら、両目をぎゅっと閉じている。集中の証だ。全身から微かな魔力の気配が漏れ、周囲の空気が重く淀み、靄さえ歪んで見える。
ルイはうなずき、地面を蹴って低い姿勢で駆け出した。
真っ直ぐには向かわない。獲物を翻弄する獣のようにジグザグに走り、巨体の視界を欺き、敵の注意を一点に集中させない。
星骸が咆える。
その轟音は、ただの叫びではない。物理的な衝撃波が周囲に放射され、下方の木々の葉を逆立て、細い枝をぽきぽきと折り、地面の小石を震わせる。そして、長い尾が、空を切り裂く鞭のように振り下ろされてくる。風圧が先に到達し、ルイの前髪を乱す。
この巨人に、生身で正面から突っ込むのはあまりに無謀だ。今はただ、攪乱し、ほんの一瞬の隙を作ることだけに集中する。シアがかけてくれた身体強化の魔法が、筋肉と神経に沸き立つような熱と力を与え、普段なら到達できない速度と跳躍力を可能にしている。しかし、その魔力もまた、消耗品だ。時間との戦いでもあった。ルイの鼓動は高鳴り、冷たい汗が背中を伝う。
「ルイ、左前方の廃車両の陰へ!」
琴葉の声が、氷の刃のように鋭く空気を切り裂く。指示は具体的で、無駄がない。ルイは思考を停止させ、身体だけが反応した。瓦礫の上を滑るように走り、巨大な尾が地面をえぐり取る直前に、錆びた車両の残骸の陰へと飛び込んだ。
衝撃が背中に伝わる。金属の軋む音、砕けるガラスの音。眼下には、ほんの一秒前にいた場所が、巨大な鉤爪の一撃で、薄い布が引き裂かれるようにえぐり取られた。土煙が舞い上がり、翡翠色の軌跡が視界に焼き付く。星骸の動きは巨体に似合わず、驚くほど速い。
ルイは、文字通り敵の攻撃の直撃をかわしたばかりだった。振動が全身の骨に響く。ここは、わずかな死角であり、また次の瞬間には破壊される危険な避難所でしかない。一瞬の判断が、生死を分ける。
「ごめん、ルイ! 一発で核を仕留めるには、多分、魔力が足りない! 関節の発光体ごとに攻撃していくよ……!」
シアの声が、必死に、しかし確実に届く。彼女は岩の頂きに跪き、杖剣を両手でしっかりと構えている。分割攻撃──それは時間と危険を倍増させる、望まない選択だ。
ルイの脳裏を、思考が電光のように疾走する。強固な装甲、複数の弱点、圧倒的な巨躯。正面突破は不可能。ならば──"あれ"を試す時か。
琴葉が廃屋の影から、今、ちらりとこちらを見ている。深紅の瞳に、何かを見届けるような静かな光が宿っている。
「シア、少し待ってくれ! ……ベリースヴェート」
『なんですか?』
「少し、試してみたいことがある」
ルイは目を凝らす。もう一度、視界を星溶粒子を見るための状態へと、深く切り替える。
世界が色を失い、眼前の巨体から流れ出す、強く、しかし穢れた翡翠色の粒子の奔流が視界を支配する。その濁流の中から、環境に漂う純粋な魔力の輝き──微かにきらめく黒と白の細い流れを、必死に探る。それは、泥海に浮かぶ銀の糸のようだ。
見つけた──この輝きが、魔力だ。
「魔力を増幅させたらどうなるんだ?」
その言葉に、青い蝶がルイの眼前で、ぴたりと静止した。
『………………何?』
ベリースヴェートの声が、一瞬で、全ての温度を失った。
『やめて』ベリースヴェートの声が、軋むように響く。
『ルイ、お願い。やめてください。あの……穢らわしい、不純で粗雑な“力”に、あなたを触れさせたくないのですが』
足りないのなら増やせばいい。
魔力も元は星溶粒子だと言うのなら、ルイの異能で干渉できないはずがない。
『あなたの澄んだ視界を、あの濁ったもので満たさないで!!』
ベリースヴェートの声が、優雅さを欠き、耳元で慌てふためいている。青い蝶が彼の周りを焦ったように飛び回るが、ルイは気にしない。
そして──視界の流れの中から、シアの杖剣へと向かう細い白い光の筋を、指で掬うように、異能の焦点で捉える。
『待って!! やめて!! あの汚物に触れないで!!!!』
「《増幅》」
『あああぁぁぁぁああああ──!!!』
ベリースヴェートの絶叫は、もはや声ですらなかった。それは、美しいものが無惨に引き裂かれる音、根源的な拒絶の悲鳴だった。
ルイの視界の中で、数粒の魔力が、一気に膨れ上がる。それは、細い小川が突然濁流と化したような、荒々しい光景だった。異様な輝きを放つ巨大な魔力の奔流が、シアの杖剣へと注ぎ込まれていった。
ヨロヨロと力なく蝶が墜落していく様子が見えたが、今は戦闘中だ。気にしないことにする。
「っ! これだけの『量』があれば……!!」
シアの瞳が、驚きと、流入する異質な魔力の軋む痛み、そしてそれを凌駕する鋼のような決意で輝いた。
彼女の体が、流入する膨大な魔力に耐えかねて微かに震える。血管を逆流する熱い鋭い痛み。しかし、その表情には迷いはない。むしろ、この危険な力を屈服させるという、一種の逆襲の意志が漲っている。杖剣の先端に、巨大な、濁った青白い光を放つ魔力の球が形成されていく。それは氷の輝きではなく、歪んだ宝石のように不気味にきらめいていた。
──求めるのは、一撃での核の完全破壊。
外部の装甲を穿ち、内部の核まで、魔力を確実に届かせなければならない。それだけでは動きは止まらないだろう。四肢の付け根の発光体も、体の至るところに散らばる小規模な魔力結節も、この一撃の余波で全て薙ぎ払ってやる。
シアは、限界を超える魔力の重圧に唇を噛みしめ、血の鉄臭さを感じながら、渾身の力を込めて杖剣を振り下ろした。その動作は、もはや優雅な詠唱などではなく、凶器を振りかぶるような、原始的な暴力の形だった。
「《氷よ》──ッ!!」
静寂が、一瞬だけ世界を支配する。
──そして、それが破られる。
放出された混成魔力の奔流は、翡翠色の装甲を腐った果実の皮を穿つように易々と貫き、星骸の巨体を内部から濁った青白い光で、内側から膨張する毒のように満たしていく。光が通った軌跡には、装甲が脆いガラスのようにひび割れ、黒く変色していった。
──ゴオオオオオオオッ!!!
鈍く、重い、内側から爆ぜるような音。核の破壊と同時に、四肢の発光体も次々と破裂し、翡翠の光が最後の閃光を放って消えていく。星骸の巨体が、崩れ落ちる山のように地響きを立てて倒れ伏す。落下の衝撃で地面が跳ね、埃と砕けた魔力の残滓が、不毛な霞のように舞い上がった。
翡翠の光は完全に消え、そこに残ったのは、急速に冷えていく巨大な廃鉄の塊だけだった。装甲の表面には、魔力の奔流が通った痕が、腐食したような黒い網目状の跡を刻んでいた。
琴葉が、廃屋の影からゆっくりと歩み出てきた。彼女の深紅の瞳は、崩れゆく巨影を、そして魔力を使い果たして崩れ落ちるシアを、等しく冷静に見つめている。
「……ふうん」
彼女の唇が、ほんの少し、満足げに緩んだ。
「いい調子」




