第五十二話 仰ぐは星辰の背 - 1
夜明け前の灰色の光が、廃屋の隙間から、細い刃のように差し込み始めた。その薄明かりの中で、琴葉は静かに目を開けた。長い睫毛が微かに震え、深紅の瞳に、まだ夜の残滓が漂っている。
昨晩、あの一件の後、ルイと見張りを交代したが、彼女は外には出ず、廃屋の最も奥まった隅に、猫のように背を丸めて腰を下ろしていた。それは、極限まで合理性を求めた結果の選択であり、そこには特別な理由などなかった。ただ、感覚を研ぎ澄ましても、周囲に敵となる存在の気配が感じられなかったから。それだけのことだ。ただ、それだけのことにすぎない。本当だ。
彼女の肩に、いつの間にか止まっていた一羽の青い蝶が、ひらりと羽ばたいた。その翅は、薄明かりの中で半透明の宝石のように煌めき、廃屋の崩れた天井近くを、優雅に、音もなく旋回する。
『……気配がします』
ベリースヴェートの声が、琴葉の頭の中に、氷を溶かす水のように滑り込んできた。続いて、ルイとシアの脳裏にも、その警告が確かに響き渡る。
二人はまるで糸で引かれたように、同時に目を覚ました。訓練で鍛え上げられた感覚が、まだらな眠気を蹴散らし、周囲に張り詰めた緊迫した空気を鋭く感知する。
「……敵か?」
ルイが低く呟き、滑らかに、ほとんど音を立てずに起き上がる。床に積もった古い埃が、微かに、ゆらりと舞い上がった。
シアも瞬時に瞼の裏の闇を振り払い、目覚めの一呼吸と同時に、手の届く範囲にある杖剣の柄を確実に掌に収めた。彼女の細い指先には、ほのかな、しかし確かな魔力の光が、ちらりと蝋燭の炎のように揺らいだ。
『ええ。星骸ですかね。しかし……かなり強大なもののです』
ベリースヴェートの声には、いつもの優雅さの底に、紛れもない警戒の色が、墨が滲むように広がっていた。それは、美しい鈴の音に、かすかな軋みが混じったようなものだ。
『この一帯の、いわば"領主"のような存在でしょう』
琴葉は音もなく、影が伸びるように立ち上がり、廃屋の歪んだ戸口へと静かに歩み寄る。彼女の動きには、戦闘前の独特の静謐さ、引き絞られた弓弦のような張り詰めた緊張が漂っている。外を覗く。
まだ薄暗い森の奥、数百メートル先の闇の襞から、巨影がゆっくりと、圧倒的な存在感を持って動き出している。木々の背を越えるほどの高さ。四足歩行の、しかしこれまで遭遇した獣型星骸とは次元の異なる威圧感を放つ。その装甲は鈍く光る黒鉄色で、何層にも重なった鎧のように見え、関節部の隙間からは、不気味な翡翠色の光が、脈打つように漏れている。尾は鞭のように長く、先端が巨大な刃物のように鋭く輝き、ゆっくりと左右に揺れるたび、周囲の霧を切り裂いている。
「……あれは」
「星骸にも、ある程度の集団的階層意識があるみたいなの」琴葉の声は相変わらず冷静だが、その中に鋼の芯のような確かな警戒が込められている。「観測した限りでは、特定の領域を支配する、長のような存在が確認されているわ」
彼女はそっと、ほんの少し首をかしげた。漆黒の髪を結っている深紅のリボンの端が、微かに揺れた。
「通常の星骸とは、格が違う。知性も、力も、そして……敵意の質もね」
『避けるのが賢明です。正面衝突は得策ではありません』
ベリースヴェートの警告が、再び三人の意識に強く響いた。
──それに対して、
「はあ? 何を言っているの」
琴葉が、小さく、しかしはっきりと声を上げた。
彼女の後ろには、既に完全に戦闘態勢へと移行したルイとシアの姿があった。ルイは拳を軽く握りしめ、全身の筋肉が微かに、高ぶるように震えている──それは恐怖ではなく、純粋な高揚、闘争本能の歓喜だ。シアは杖剣を低く構え、アメジストの瞳に、曇りない決意の光を宿している。
彼らは、ベリースヴェートの思い通りには動かないようだ。
「ルイ! 私がやるから、ルイは見ててね! 私、絶対に仕留めてみせる!」
「ああ。援護は任せてくれ」
それを認識した途端、ベリースヴェートは慌てて三人を引き止めようとした。
『待ってください? あなたこの子たちにどんな教育を施したんです!?』
「星骸は全て殲滅」
『危険思考です!! これだから魔法遣いは……!!!』
青い蝶がひらひらと焦るように舞い、琴葉とルイの間を慌ただしく飛び回る。琴葉はごく軽く、ほとんど聞こえないため息をつくと、巨影がゆっくりと迫る方を見やった。
「あれの弱点も、他の星骸と同じく関節部の発光体と核よ。ただ、それらは通常よりも深く位置し、何層にもわたる強固な装甲と疑似筋肉で守られているわ」
一瞬、間を置く。廃屋の空気が、張り詰めた絹のようになる。
「でも、関係ない」彼女の、整った形の良い唇が、ほんの少し、誇らしげに、そしてどこか冷たく上向く。「見つけなさい。貫きなさい。倒しなさい」
「「おう!/うん!」」
ルイとシア、二人の声が、若さと熱気を帯びて重なり、死と静寂に支配されていた廃屋内に、一瞬、鮮烈な活気の色が戻った。




