第五十一話 冷たき刃も眠りに落ちて
夜の森は、死んだように深い静寂に包まれていた。ヴァルケイアの青白い光を抜け、再び地脈の魔力が満ちる暗黒の領域へ戻った一行は、かつて狩人の隠れ家か何かと思われる、廃れた小さな小屋を野営地と定めた。
壁は半分崩れ、屋根からは所々から雲に覆われた空が見えた。それでも、外気と魔物の気配を隔てるだけの意味は、まだ残っていた。
シアは、魔力の消耗と疲労から深い眠りに落ちており、廃屋の隅で重く、しかし安らかな寝息を立てている。温かさを求めるように、無意識に身を縮め、ぼろぼろの毛布を抱き寄せるその姿は、わずか一週間前には想像もできなかったほどに、環境への適応を感じさせた。彼女の寝顔には、戦いの緊張がほぐれ、女らしい脆さが垣間見える。
まだ、ルイは起きていた。胸に去来する様々な思い──今日見た真実、そしてこれからの道程。それらが絡み合い、眠りを遠ざけていた。
廃屋の外に出ると、若干冷たい夜気が肌を刺す。外は琴葉の保温の魔法の、ギリギリ範囲外だ。だが、扉を開けてすぐのところで、琴葉が腰を掛けているのを発見した。
月明かりが、彼女の漆黒の髪に淡い銀色の輝きを纏わせる。背筋は相変わらず伸びており、刀を膝の上に置いたまま──珍しく、その瞳が閉じられている。
「……琴葉?」
反応がない。
不安に思い、そっと近づき、その場に膝をついて、彼女の口元に耳を近づけた。すると。
──すー……すー……
本当に、微かに、しかし確かに、そんな規則正しい、浅い呼吸の音が聞こえた。
(……もしかして。もしかしなくても)
ルイはなぜか、胸の奥で小さな花が開くような、舞い上がりそうになる気持ちを抑え、その場に留まった。下手に運ぼうとすれば、触れた瞬間に彼女は獣のように飛び起き、場合によっては刀が閃くだろう。それなら、このまま見守っている方が──
「……ルイ?」
目覚めてしまった。わずかに開かれた瞼の間から、深紅の瞳が、薄雲のかかった宝石のように覗く。とても眠そうに、まだぼんやりと霞んでいた。
「わ、悪い。起こした……?」
「……寝てない」
「え?」
「寝てないから」
ぷっくりと頬を膨らませながら、彼女はそっぽを向いた。だが、その小さな耳たぶが──りんごのように、はっきりと真っ赤に染まっている。嘘だということが、あまりにも明白だった。
ルイは苦笑を噛み殺し、そっと腰を下ろした。二人の間には、わずかな距離がある。
「……あの場所まで連れてきてくれたの、ミコ様のことだけじゃなくて……俺の、ためでもあるだろ?」
ルイの声は、夜の静寂の中で、いつもより少しだけ低く、確かめるように響いた。彼の視線は、琴葉の細く固い肩越しに、遠く闇に沈む森の輪郭を捉えていた。拳を軽く握りしめ、その手のひらには、今日掴んだ真実の重みと、まだ消化しきれない熱が残っている。
「……」
「真実を自分の手で確かめたいって言ったから。それに応えてくれた」
彼女は相変わらずルイの方を向かなかった。だが、ようやく、ほんのわずかに首を傾げて、夜気に溶けそうなほどに細く、小さな声で答えた。
「……好きに解釈すればいいわ。私は、自分の目的のためと、訓練として、貴方たちを無理矢理ここまで引っ張ってきただけ。それ以上でも、それ以下でもない」
だが、その言い訳めいた言葉の端々に滲む、ごく僅かな躊躇。以前であれば迷いなく突きつけていた台詞が、今はどこか柔らかい布で包まれ、角が削られている。それはもう、誤魔化しようのないほどに、彼女自身の変化を物語っていた。
ルイはその変化を感じ取り、胸の奥で静かな波紋が広がるのを覚えた。彼は黙って琴葉の側面を見つめる。彼女の長い睫毛が、時折微かに震えている。
「知りたいことは知れたの?」
「ああ」ルイはゆっくりとうなずいた。「確かなものが掴めた気がする」
「それなら……」
琴葉の深紅の瞳が、滑るようにルイの横顔を一瞬掠めた。それは、鷹のような鋭さではなく、ほんの一瞬、迷いがかった小鳥の羽ばたきのようだった。
「ここまで来て、よかったわね」
こくり、こくりと。
琴葉の頭が、まるで眠気と意識の綱引きに負けつつあるかのように、小さくに揺れる。鍛え上げられた戦士の姿からは想像もできない、無防備な仕草。
「もう少し寝たほうがいいんじゃないのか? 明日も動くんだろ」
「私に睡眠は必要ないわ」
琴葉の答えは速かったが、その声には、かすれて掠れるような疲労の色が滲んでいた。
「それは物理的な身体の話だろ?」
ルイはそっと言い返した。彼の声は、夜の冷たさを和らげる温もりのように、二人の間に流れる。
「でも、心は……また別の休息が必要だと、よく言うだろ。珠桜さんも、たまにそう言ってた。『完璧な刃だって、研ぎすぎれば折れる』って」
「……」
琴葉は少し間を置いた。俯いた顔を上げず、膝の上に置かれた刀の鍔を、無意識に親指で撫でている。その動作は、考え込む時の癖なのか、それとも不安の表れなのか、その意味は、ルイには分からない。
「……なら、十分だけ」
「短い」
「それで十分よ」
彼女は深紅の瞳をゆっくりと閉じた。長い睫毛が頬に落ちる影が、月明かりでくっきりと浮かび上がる。
「……何かあって、私が気付いていなかったら起こして。迷わず、揺するように」
「わかったから、安心して休め」
再び、静寂が戻る。しばらくして、先ほどと同じ、規則正しい、浅い呼吸の音が、かすかに聞こえてきた。彼女の場合、それを寝息と表現するのが正しいのか、ルイにはわからなかった。彼女が無意識に行う擬似的な呼吸なのか、それとも、彼女は本当は生きているのか。
それでも、確かにそこには、琴葉という存在がほんの少し殻を開き、警戒の糸を緩めた、稀有で貴重な安らぎの時間が流れていた。彼女の肩の力が抜け、握られていた拳がそっと開いている。その姿は、もはや無敵の戦士ではなく、ただ疲れた一人の女のそれだった。
(ある程度、信頼が得られたのだろうか……実力を認めてもらえるほどに、成長できたのだろうか)
ルイはそっと息を吐き、琴葉の眠りを静かに見守る番を引き受けた。彼女の隣に座りながら、廃屋の中から聞こえるシアの寝息、そしてすぐ傍の琴葉の"休息"の音。この不確かで危険な世界で、これらはかけがえのない、温もりのある小さな環のように感じられた。
──次に脅威に立ち向かうときは、この環を壊さず、誰もを守れるほど強くなっていたい。もっと努力して、それを必ず叶えたい。
ルイはそっと拳を握りしめ、琴葉の眠りを見守る番を、静かに引き受けた。




