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第五十話 蒼き光に希望が宿る

 深く、苦しい旅のような体験だった。

 意識が、ゆっくりと、重い水圧を押しのけるように浮上する。ルイは、冷たい雪原の現実へと戻ってきた。瞼が重い。体中の骨が、記憶の深淵を泳ぎきった疲労に軋んでいる。


『おはようございます。見られましたか?』

「……ああ」

『これらの記録は、わたくしは一切の手を加えていません。いえ、手を加える能力そのものを、わたくしは持っていないのです。ここにあるものは全て……偽り一つない、“過去”そのものです』


 ──全ての答え合わせが、ここにあった。


 ファロンがルイを狙っていた理由。

 両親の死の真実。

 それに、珠桜がどのように関与したのか。


『異能の力は、諸刃の剣です。否、それ以上の危うさを持っています』


 ベリースヴェートの声が、雪原に神託のように、静かに、しかし確かに響き渡る。彼女の表情は厳かで、今までの戯れや熱狂とは一転し、千年の時を経た叡智の持ち主の面影を宿していた。雪の結晶が彼女の長い睫毛にひっかかり、微かに輝く。


『制御を誤れば、貴方自身が歪み、変異し、やがては“人間”という形を保てなくなる危険があります。それでもなお、この力を駆使して未来そのものを変えようと望んだのが、エレオノールや、ファロンでした。対して、ナサニエルは……力を使わない、という道を選びました。彼をそこまで深く絶望させた原因の詳細は、わたくしが彼を見つける以前の、より暗い過去にあったようで、わたくしにもわかりません。しかし……彼の選択も、また紛れもない一つの"生"の形です』


 彼女の、氷のように透き通った瞳が、瞼を閉じた奥からも、ルイの魂の奥深くをまっすぐ見つめているような気がした。すべてを見透かされる感覚。


『では、貴方はどうしますか? この危険で美しい力を、自らの意志で求めますか? それとも、父ナサニエルと同じ、静かな終焉への道を歩みますか?』


 ルイは、自分の拳を見つめた。少年の頃より大きく、しかしまだどこか細い、その手。雪の上に落ちた影は、かつて父が握りしめた拳の形と重なって見えた。その手のひらに、かつて父が抱えた絶望と、母が灯した希望の、両方が流れ込んでいるようだった。静かに、しかし確実に、鼓動のように。



「……俺は、守りたいものがある。シアを。珠桜さんを。澄幽の皆を。守りたいものがあるのは……父さんとも、変わらない。けど──」


 声が、雪原を切り裂く刃のように、確信を持って強くなる。


「俺は、力を求める。希望に酔っているんじゃなくて……どれだけの無理をしても、みんなと、未来を見たいから。


……だから、父さんとは……違う道を行く」



 ベリースヴェートの唇が、ゆっくりと、本当の意味で緩んだ。それは、計画的でない、演出でもない、初めて見せる、心からの自然な微笑みだった。雪原に一輪の花が、凍てついた大地を割って咲いたかのよう。その笑顔は、永い時を超えて、やっと届いた答えを祝福しているように見えた。


『よい返答です。ならば──わたくしの記憶と知識を、授けましょう』


 彼女が近づく。足跡一つ残さず、雪の上を滑るように。冷たく、しかし驚くほど柔らかな指先が、ルイの額に触れた。

 瞬間、蒼い奔流のように──否、星々そのものが流れ込む銀河のように、膨大な情報と記憶がルイの意識に押し寄せた。異能の微細な操作法。星溶粒子の本質的な制御と危険性。暴走を防ぐための精神の枷の作り方。変異を防ぐ境界線。

 そして、さらに奥から引きずり出される──あの日、失ったまま封印していた、両親と過ごした、あの崩れかけた家での、かすかな温もりの記憶の断片が。


「ぐっ……ッ!」


 脳髄が焼けるような、つんざかれるような感覚。膝が砕けそうに震え、視界が白く染まり、耳元で血の鼓動が轟く。だが、彼は倒れなかった。歯を食いしばり、雪を握りしめ、その知識と記憶の奔流の中に、ただ一人、じっと立っていた。流されず、飲み込まれず、自身を錨として。

 ──額から彼女の指が離れる時、彼の瞳の奥には、新たな星が灯っていた。曇りなく、覚悟に満ちた、静かな炎のように。



 全てが、収束したその瞬間、唐突に全ての神秘と感動を吹き飛ばすような、強烈で活気のある声が雪原に響き渡った。


「それで、私たちを吹っ飛ばしやがった変異体は一体どこかしら!!」

『あらまあ、帰ってきちゃいました』


 後ろを振り返ると、少し前に姿が見えなくなるほど遠くまで吹き飛ばされた琴葉とシアが、すぐそこの雪原に、やや服装が乱れつつも立っていた。琴葉の手には、まだ絶刃が冷たい殺気を湛えて握られている。

 ルイは二人が無事に戻ってきたことに胸をなで下ろすと同時に、たちまち張り詰めた空気を感じ取る。

 琴葉はベリースヴェートの姿を見ることも、その声を聞くこともできない。しかし、確かにそこにいるベリースヴェートとの間に、目に見えない火花が散っているように見えた。



『これで、私の役目の一部は果たされました。ですが……』


 彼女の声が、突然、先程までの神々しい荘厳さを失い、どこかこっそりと内緒話をするような、いたずらっぽい調子に変わる。それは、千年前の賢者が一瞬で消え、目の前にいるのはただの――計り知れない悪戯好きの少女であるかのようだった。

 そして──ピットリとルイに寄り添った。その巨大で美しい体躯が、意味もなく、しかし確実に彼のパーソナルスペースを侵食してくる。雪原の冷気が、彼女の放つ微かな甘い香りに置き換えられる。


『これからも、ずーっと、着いていきますからね♡ ルイ!』

「ええぇぇええ!?!?」


 ルイの悲鳴が、雪原の静寂を切り裂いて跳ねる。


「ちょ、ちょっと待て!! やめろ、離れろっ!!」

「え、ルイ、どうしたの!? 何かに襲われてるの!? 変異体っ! ルイから離れなさーい!!」


 シアがルイの腕を鷲づかみにし、必死に引き離そうとする。彼女の目には、純粋な心配が火花のように散っている。

 その傍らで、琴葉の目が、一層危険な、氷の刃のような光を宿す。彼女の周囲の空気そのものが、凍りつき、軋み始めた。


「この一帯ごと薙ぎ払えば、何かには当たるかしら」琴葉が絶刃を一気に抜きかけ、冷気が迸る。

「待て琴葉、殺すな!!」


 その時、ルイの衣服の中でもぞりと何かが蠢いた。無数の、小さな、冷たい足の感触……? ──想像したくもない、虫のようなものが這う感触。ぞわりとした感覚が背筋を駆け上がる。


『うふふふふふ、ずうーっとくっついて離れませんよ♡』


 服の襟元から、一匹、また一匹と、透き通った青い小さな蝶がひらひらと飛び出してくる。翅は光を透過し、内側に微かな蒼い脈絡が走っている。美しく、そして不気味な光景だった。


「琴葉!!! やっぱりやれ!!!」

『待ってください!!』



 ──少し経って。


 奇妙な共同作業の末、無数の青い蝶は一箇所に集められ、再びベリースヴェートの意志がまとまった姿を取り戻していた――とはいえ、相変わらずルイの至近距離にピタリと寄り添っている。


『それで、黒いほうは何かわたくしに用事があったのでは?』


 ベリースヴェートの声が、落ち着いた調子で響く。嫌そうな空気も微かに滲んでいたが、幸い琴葉には聞こえない。ルイが代理として琴葉の方を向いて伝える。


「琴葉」

「何?」

「お前、変異体について何か用があったんじゃないのか?」

「……」


 琴葉は一瞬、言葉を詰まらせた。彼女の顔に、稀有な迷いの影が走る。そして、重いため息が白い吐息となって雪原に消える。


「私たちを支えている……ある変異体が、力を失いかけている。どうにか力を取り戻す方法はないかと……知りたくて、来たの。彼がいなければ、私たちの砦も、人々の安息も、保てない」


 長い沈黙が流れる。ベリースヴェートの存在が、複雑な想いと記憶を巡らせているのが、その気配で感じ取れた。彼女の視線が、遥か東の方角──琴葉たちの来た方向、そしてその先にある同胞へと向けられた気がした。


『それなら、なおさらわたくしを連れていってくれませんか?』

「え?」ルイが声を上げる。


『変異体同士というのは、お互いがどのような性質を持ち、何を必要としているのか、漠然とではありますが理解し合えるものです。言葉を超えた共鳴があります』


 彼女の声に、ほんのりとした温かみと、ある種の共感が宿る。


『彼は──わたくしの思想とは合致しています。守りたい世界がある、という点で。ただ守る対象が、広大な星か、小さな砦かの違いだけでしょう』


 ベリースヴェートの巨大な姿が、徐々に薄れ始めた。その体を構成する光の粒子が、無数の雪片のように舞い上がり、周囲の静寂の中に溶け込んでいく。


『力を貸しましょう。この姿を、長く留めておくことはできませんが……』


 その姿が完全に純白の光へと解け、雪原に溶け込んでいく。そして、その中心から、一匹の蝶が現れた。それは先程の眷属たちより少し大きく、翅はより透き通り、中心に微かな蒼い星々のような輝きを宿している。ルイの、幼い記憶の中にある、あの蝶の姿と同じだ。

 蝶はひらりと優雅に舞い、ルイの肩へと止まり、次に琴葉の眼前へと飛んでいき、ゆっくりと羽ばたいた。


『この姿であれば、貴方と共にいられます。エネルギー消費も最小限です。帰路の道中、ルイと──そして、後ろのお転婆な白い姫君にも、異能の制御を、わたくしの知る限りで教えましょう。安全に、強くなるために』


 琴葉はしばし無言で、目の前の神秘的な蝶を見つめた。その姿と声は、どうやら彼女にも届くようになったらしい。

 その瞳には、疑念と、わずかな期待が混ざり合っていた。そして、ゆっくりと絶刃を鞘に収め、手放した。漆黒の影が、雪の世界に墨が散るように溶け込んで消滅する。


「……信用するに足る言葉かどうか、これからの行動で証明してもらうわよ」

『ええ、もちろん。約束します』


 ルイは舞う蝶を見上げ、小さく、しかし確かなうなずきを返した。肩に残る、かすかな光の感触が、不思議と心を落ち着かせた。

 シアも嬉しそうに、蝶に手を差し伸べる。蝶はひらりと軽やかに舞い上がり、彼女の指先にとまった。その翅は、触れても冷たくはなく、むしろほんのりとした温もりを帯びていた。


「わあ……きれい……」


 が、直後に、ルイが何かに襲われていたという事実を思い出し、彼女の表情は一瞬で曇り、なんとも言えない複雑な顔つきになった。


 こうして、三人は、長く危険で、多くの真実を暴き、そして新たな契約を結んだ旅を終え、ようやく帰路についた。

 背後の広大な雪原に残るのは、深い静けさと、訪れた者たちが残した、かすかな足跡の痕跡だけだった。やがて吹雪がそれらを埋め尽くすだろう。しかし、この地に封じられた記憶と、ここで交わされた言葉は、もう雪に消えることはない。

 彼らが澄幽へと持ち帰るものは、単なる戦利品以上の何かだった。それは──この崩れかけた世界の未来を、ほんの少しだけ明るく照らすかもしれない、小さくも確かな、蒼い光の粒だった。

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