Interlude I: 20xx - Lost Star "Avenir"
その晩、外から帰宅したエレオノールと、一日中家で待っていたルイ、そしてナサニエルの三人で、食卓を囲んでいた。配給される乏しい保存食と、エレオノールがほんの僅かだけ、自らの異能で実らせた新鮮な野菜。それらを、ナサニエルが手際よく調理する。
贅沢など許されない世界、それに倣いエレオノールは決して豊かな食材を用意したりはしない。だが、それでも、湯気の立つ器から立ち上る温もりと、共有する仄かな笑い声が、砕け散った世界の片隅で、幸せという名のかすかな幻影を紡ぎ出していた。
◇◆◇
夜が深まり、静寂が部屋を満たす。
ベッドの縁に腰を掛けていると、エレオノールが隣にそっと座り、ナサニエルの手を自分の両手で包み込んだ。彼女の指は、日々の労苦のためか少し荒れ、細かい傷が刻まれていたが、その感触はどこまでも確かで、深い温もりを伝えてくる。
「ナティ」
「ん?」
エレオノールの声が、闇を優しく撫でる。
顔を上げると、日中よりも若干柔らかい、疲労の影を宿したエレオノールの顔が、すぐそこにある。ペリドットの瞳が、窓から差し込む微かな月光に淡く照らされていた。
「あなた、今、幸せ?」
「ああ」ナサニエルは、一瞬の躊躇も、曇りもなく答えた。あまりにも自然で、まるで呼吸をするように。「こんな世界でも、君とルイがここにいてくれる。それだけで、僕には十分すぎるくらいだよ」
「──嘘」
エレオノールの声は、春の夕暮れにそよぐ風のように柔らかく、しかしその中には、真珠層を静かに断つ貝の縁のような鋭さが潜んでいた。
ナサニエルが思わずびくりと肩を震わせるのを、彼女の手のひらは、皮膚の下を走る微かな痙攣として確かに、残酷なまでに感じ取っている。彼女は、夫の身体を通じて流れる、言葉にならない罪悪感と怯えの電流を、直接読むことができた。
「……あなた、幸せだなんて、本当は思っていないでしょう」
沈黙が一瞬、氷の楔のように二人の間に打ち込まれる。ナサニエルは、エレオノールの透き通るような瞳をまっすぐ見つめ返そうとしたが、視線がほんの少し、彼女の頬から滑り落ちる。目が泳いだ。
「……どうして? 確かに幸せだよ」
「だって」エレオノールがそっと、深く、重いため息をつく。その吐息が、薄暗い寝室の空気を、水面に落ちた雫が広がるかのように揺らした。「ずっと、あなたは怯えている。幸せだと思おうとする余裕さえ、なさそうに見える。目が、いつも遠くの……私の手の届かない、届いてはいけないような何かを見つめている」
一度言葉を切り、彼女はナサニエルの手を、もう少し強く、骨が軋むかと思うほどに握りしめた。その力には、突き放すためではなく、深淵へ落ちていく彼を引き留めるための、必死な祈りが込められていた。
「私に嘘をつくの?」
「……」
ナサニエルは口を閉ざした。嘘をついている自覚はあった。
エレオノールは、夫の重い沈黙を優しく、しかし一片の逃げ道も与えずに埋める。
「どうして、そんなに辛そうなの? 詳しく聞いたことはなかったけど……そろそろ、聞かせてほしい。あなたの心に巣食っている影を」
より深く、より重い沈黙が、ベッドの上に降り積もった雪のように音もなく積もった。外からは、乾いた風が瓦礫を転がす、かすかで不気味な、世界の歯軋りのような音だけが、断続的に聞こえてくる。
ナサニエルは天井を見つめた。逃げるように──それとも、長い間、暗闇の奥に押し込めてきた忌まわしい現実を、ようやく光の中に引きずり出そうと決意したのか。彼の喉仏が、苦しそうに、かすかに上下した。口を開く前の、最後の逡巡だった。
「……君もよく知る"先生"がね」
声は、砂礫を噛み砕くように嗄れ、闇の中にぼろぼろと砕け散る。ナサニエルは、言葉という危うい糸を手繰り寄せることを迷いつつも、ゆっくりと続けた。それは、長く封印してきた墓を、自らの手で掘り起こす作業のようだった。
「この星が終わる日を計算していたんだ。まだ、電気が通っていたあの頃……僕らの自然な寿命が尽きるよりも、ずっと、ずっと早く……最後の刻は訪れてしまうって」
エレオノールの指が、微かに、氷の震えのように揺れた。その瞳の奥に映るのは、初めて出会った頃の彼──祖父の塵埃にまみれた研究室で、多くのモニターの青白い光に照らされ、宇宙という深淵とただただ向き合う、孤独な少年の影。
彼女は何か言おうとした。唇が微かに開き、優しい否定の言葉が喉まで上がってきた。しかし、彼女はそれを白くなるまで噛みしめ、喉の奥で震える温かい嘘を、そのまま飲み込んだ。代わりに、彼の手を包む自分の手のひらの温もりを、ほんの少し、死に物狂いの強さで込めた。それは、彼が漂い続ける暗い海に、自らを錨として打ち込もうとする行為だった。
「この星に残る者も、宇宙に逃れた者も、含めたすべての人類が“その日”に終焉を迎えることは確定事項なんだ。だから、僕は人類を救うんじゃなくて──少しでも幸せな最期を迎えられる方法ばかりを、考えてしまう」
ナサニエルは深く目を閉じた。瞼の裏側の暗闇に、先生と共に覗き込んだ、滅びゆく惑星のシミュレーションが、鮮明に、残酷に浮かび上がる。赤く染まるグラフ、垂直に落下する人口曲線、無数の光点が一斉に消えていく星図。迫る影は、救いようのない絶望そのものの形をしていた。
エレオノールはどう考えるだろうか。この真実を、彼女はもしかしたら、どこかで薄々感じ取っていたのだろうか。
彼女も、この重さを知れば、自分と同様に折れてしまうのだろうか。それでもいい。それで、最期の時まで、共にいてくれるのであれば。
「……最期まで、君と、ルイと生きていたい。だから……異能についても、きちんと考えなければいけないと思っている」
「異能?」
「僕たちは、闇の中を手探りで、この力が成し得ることを見つけている。正しい教科書も、導いてくれる先達もいない。その暗闇での試行錯誤で……力の暴走か、それとも恐ろしい代償か、突然、命の灯を消した人たちを、僕は何人も知っている。この先、僕たちがベリースヴェートのように……人間ですらなくなる可能性だって、ゼロじゃない」
ナサニエルの声が、かすかに、しかし骨の芯から震えるような深い恐怖を帯びた。
「ごめんね……」
彼はエレオノールの手の中にある自分の手を見下ろした。その五本の指が、どれだけ脆く、儚い構造物か、骨の髄まで凍りつくほどに分かっていた。
「やっぱり、心配で仕方ないんだ。君のことが。君が外へ出て、その美しくも危うい力を振るうたびに、何か取り返しのつかないことが起こらないかと……胸が氷のように締めつけられる思いでいる」
エレオノールは黙って、彼の手を握りしめたまま、彼の横顔──月光に浮かび上がる彫刻のような輪郭を見つめている。ナサニエルの深緑の瞳には、嵐の前の大洋のように、表面は静かでも、その底には計り知れぬ渦と悲哀がたたえられていた。彼女は、その瞳の奥に広がる暗い海の深さを、はかり知ることができなかった。ただ、冷たさだけが伝わってくる。
「熱は、人を狂わせる」
ナサニエルが、亡霊に囁くように言った。声は、ほとんど息だけで成り立っていた。
「もしかしたらできるんじゃないか。あれがしたい、これがしたい。熱中して、没頭して……段々と周りも、自分のことも見えなくなっていく。自分がどこに向かっているのかさえ、わからなくなる」
現に、ファロンは──彼の"修復"への熱情は、すでに何か別の、危ういものに変質しつつあった。彼の脳裏を、金髪の友人の、焦燥に焼き焦がされた赤い瞳が、鋭い閃光のように掠める。
「恐ろしい方向へ進んでいても……自分ではもう、気付けないこともある。どこかで、光は人を歪ませ、影だけを肥大させてしまう」
彼はエレオノールの方へゆっくりと顔を向けた。その目には、溺れかけた者が差し出す手のように、切実で剥き出しの、哀願にも似た願いが揺れていた。
「僕は、その歪みが……君が、君の優しさや強さが、君自身を蝕んで……取返しのつかないことになってしまうことが、恐くてたまらないんだ」
「約束してくれ、エリー」声は、かすかに、瀬戸際の糸が切れそうに震えた。「たった一つでいい」
「……何を?」エレオノールは、わずかに眉を寄せた。その動き一つが、闇の中でゆっくりと描かれる絵画のようだった。
「どこにも行かないで」
ナサニエルの言葉は、鎖のように重かった。
「たとえこの世界が終わると分かっていても、君だけは……この家から、この何もできない僕から、離れないでいてくれ。僕の目が届く範囲に、いてほしい」
エレオノールは、一瞬、時間が止まったように息を止めた。ナサニエルの言葉が、彼女の胸に鋭い突き刺さるような痛みを走らせた。そして、その表情が、凍った湖面が春の陽を受け、ゆっくりと、深く優しい水へと溶けていくように、慈愛に満ちた、しかしその底に揺るぎない鉄の芯が通った微笑みへと変わった。
「バカみたい」
彼女は、優しく、しかしその奥に揺るぎない鉄の芯が通ったような力強さで言った。それは、どんな嵐にもしなやかに耐え、折れることなく生き延びる葦の強さそのものだった。
「そんなこと、最初から決まってるでしょ。私の場所は、ここよ。あなたとルイがいる、この家が、私の全てなんだから。どこにも行くわけがない」
その言葉を聞いて、ナサニエルはまだ完全な安心は手に入れられなかった。むしろ──彼女の瞳に宿る、一ミリも揺るがない確信の輝きが、新たな種類の不安を彼の心に呼び起こした。
でも、彼女は言ってくれた。ここに、いてくれる。それを、この漆黒の夜だけは、しっかりと胸に刻み込もう。
初めてその夜、深く、胸の底から──澱んだ沼の底から古い泡がゆっくりと浮かび上がるように──安堵の息をついた。重くのしかかっていた不安の巨石が、ほんの一片、風化した砂のように崩れ落ち、押しつぶされていた心臓に、かすかな隙間から冷たい風が通り抜けたような気がした。彼の肩の力が、ほんのわずか、しかし確かに抜けていくのが、エレオノールの優しくも強い手のひらには、痛いほどはっきりと伝わってきた。
エレオノールの銀髪が、闇の中で洩れ込む月明かりに洗われ、冷たい星屑のように微かに青白く光る。彼女はそっと身を寄せ、冷たく、しかし柔らかな額をナサニエルの肩に預けた。彼女の吐息が、彼の鎖骨のくぼみで、かすかな温もりの花を咲かせた。
二人の影が、剥がれかけた壁の上で、一つの濃く、溶け合った塊になった。それは、終末の世界にぽつりと灯された、最後とも言える、小さく、揺らめくが、決して消えることのない、確かな命の灯りのようだった。外を吹き荒れる風の音さえも、今はただ、この部屋の深い静けさを包み込む、遠い世界の囁きのようにしか聞こえなかった。




