Interlude I: 20xx - Lost Star "Papillon"
『うふふふふふふふ』
「気持ち悪い。消えてくれないか」
『酷いです!』
ルイに見られていたのか。
その事実に頭を抱えながら、キッチンの片隅に立ち、宙に浮かぶ青白い光を放つ蝶──あの不気味な変異体、ベリースヴェートに、ナサニエルは言葉を投げかけていた。すぐ後ろのカウンターの陰には、一振りのナイフが隠されている。いつでも、この妖しい翅を引き裂き、その無機質な輝きを永遠に潰せるよう、準備は整っていた。
普段は虫一匹でも家の中で見つければ外へ逃がせと説くエレオノールも、この蝶に関してだけは、黙ってナイフを研ぐのを見守っていた。
「いいか。何度僕とエリーの前に現れようと、君の"伴星"として目的に協力することはない。この世界は、滅ぶなら滅べばいいと思う」
『分かっていますよ。貴方たちが断るのは、百も承知です!』
その声は、氷のように澄んでいて、しかしその底で微かに震える、痛みを孕んだ響きがあった。
ある日、唐突に"声"が聞こえたと思ったら、体の自由が利かなくなった。まるで目に見えない糸で操られる人形のように、ナサニエルは吹き荒れる雪の中を歩き始めた。
様子がおかしくなった夫を、猛吹雪の中、エレオノールはまだ幼いルイをしっかりと抱きしめながら、必死に追いかけた。
だが、不思議なことに、その旅路は決して苦しいものではなかった。青白く冷たい光を放つ無数の蝶が、三人を取り囲み、先導した。彼らが舞う軌跡は、道標となり、その放つ微かな光の圏内にいる限り、肌を刺す極寒も、空腹の疼きも、全てが遠い幻のように感じられた。それは、見知らぬ存在に導かれる不安を凌駕する、どこか甘美で危うい安堵──守られているという、奇妙な陶酔感に近かった。
辿り着いた先で出会ったのが、ベリースヴェート。とてもかつて人間であったとは思えないその神々しい、あるいは恐ろしいまでの姿は、彼女が地球外生命体と極めて近い距離で接触し、その存在に影響され変異した結果だと、淡々と説明された。にわかには信じがたい物語だが、異能という現実を超えた力が自らにも芽生えている以上、その可能性を否定する根拠は、ナサニエルにはなかった。
彼女は、この瀕死の世界を修復しようと望んでいた。
しかし、彼女の存在そのものが、強大で制御不能な"異能の種"なのだという。彼女の領域に近づく者は、無意識のうちに潜在能力を強制的に覚醒させられてしまう。それは祝福であると同時に呪いでもあった。目覚めた力が、善意や創造へ向かうとは限らないのだから。
『この混乱を正す力が、あなたにはある』
ベリースヴェートは、雪原に響く鈴のような声で、ナサニエルに懇願した。
『貴方の異能を操作する力で、暴走する異能に秩序を。世界にとって毒となる力を"削除"してください。私が無意識に撒き散らす種を、貴方が剪定してくれたら──』
彼女の言葉は、確かに理想に満ち、輝いていた。
──だが、この時には既にナサニエルの心は壊れていた。
世界を修復するなどという、崇高で巨大な理想は、彼の胸を揺さぶらなかった。
彼は、純白の女神の願いを、雪のように静かに、しかし絶対零度のように冷たく拒絶した。
そしてそれ以来、長く、執拗で、隙のない"追跡"が始まったのだ。
『でも……どうして、それほどまでに嫌がるのです? 私の願いが、そんなに重いものですか?』
「この上なく重いが?」
少し、考えた。
その日、ナサニエルはなぜか、少しだけ話してもいいかもしれないと思ってしまった。
ルイが見せてくれた、あの鮮やかな青空の絵に、心の奥が微かに揺すぶられたからなのか。あるいは、過去の記憶が雪解け水のように胸に滲み出し、押し留めておくのが難しくなったからなのか。
彼は窓の外、いつもと同じ灰色の、重く垂れ込める空を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……"明確な"終わりが見えた世界でとるべき振る舞いが……もう、どうしても……僕には分からないんだ」
その言葉は、吐息のように軽く、しかし長い時間をかけて錆びついた心の内部から引きずり出されたようだった。




