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END OF HOPE:21xx - Last Call  作者: 久遠-kuon-
Interlude I: 20xx - Lost Star
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Interlude I: 20xx - Lost Star "Enfant"

 妻は、曲がったことを許せない性格の人間だった。

 彼女の内側には、一本の真っ直ぐな線が通っており、それが彼女の全ての判断と行動を支配している。


 その"曲がったこと"の中には、嘘や不正、不当な暴力だけでなく、『エレオノール自身の異能を、他人のために使わず独占する』というものが含まれていた。

 己の力を隠し、自分と家族だけのために温存すること──それが、彼女にとっては最も許しがたい「曲がり角」だった。だからこそ、彼女はその奇跡のような力を、迷いなく、躊躇なく、多くの他人のために注ぎ続けていた。



 朝も、昼も、ナサニエルはルイと遊ぶ、時々白いあの防護服を追い払わないといけない時間以外は、限りなく穏やかな日々を過ごしていた。息子の無邪気な笑い声が、廃墟の中に残されたこの小さな家を、かすかな温もりで満たす。それは、まるで壊れた時計の針が、ほんの一瞬だけ、過去の幸せな時間を指し示しているような、儚い幻のような時間だった。


 対称に、エレオノールは外出している。彼女は『生命を生み出す』という、まさに神に等しい領域に触れる能力を開花させた異能者だ。

 その"生命"というのは、文字通り多岐に渡る。乾ききった土から一輪の花を咲かせ、放射性物質に侵された土地に無害な作物を実らせ、瀕死の小動物の傷を癒やし、そして──希望の灯火さえ失った人間の胸の中に、微かな温もりの種を宿すことまで。この世界の全てが終焉へと傾き、色彩を失っていく中で、彼女だけが、命という最も儚く、そして最も鮮やかな色を、静かに生み出し続けていた。その能力は、文字通り人類がかろうじて生き延びるための、最後の命綱そのものだった。

 それ故に、危険も伴う。その力を独占し、支配したがる者たちは、きっとどこかに潜んでいる。実際、イージス・コンコードは彼女の活躍を知るや否や、この家まで跳んでやってきた。だが、イージス・コンコードによる力の独占も許せないことの一つだったようで、彼女は決して首を縦に振らなかった。



 ナサニエルは、できれば妻にはこの家の、この崩れかけたが守られた空間の中だけで過ごしていてほしかった。壊れた世界の片隅で、家族だけが共有するこの小さな平穏を、誰にも壊させたくなかった。


 彼がそう、弱音ともとれる願いを口にしたとき、エレオノールは一瞬息を止めた。そして──思いきり、ナサニエルの頬をビンタした。その音は、静かな室内に鋭く響いた。

 痛みよりも先に、彼女の瞳が焼きついた。ペリドット色の、宝石のように澄んだその瞳には、怒りの激情ではなく、深く静かな悲しみと、何ものにも屈しない決意の炎が、揺るぎなく燃えていた。


『私のこの手が、誰かの明日をつなぐことができるなら……私は、この家にただ閉じこもって、あなたたちだけを守っているなんてできないわ、ナティ』


 その言葉を聞いた瞬間、ナサニエルは思った。

 ──なぜ、自分の周りにはこれほどまでに他人を救おうと必死な、否、必死すぎる人間ばかりが集まるのだろう、と。頭を抱えてうめきたくなるような、彼らのひたむきな正しさは。


(僕だけが……それを、"忘れた"んだ)



 以来、彼女は迷いなく外へ出るようになった。

 彼女の活動は、各地のシェルターを、決められた順路で巡ること。乏しい食糧を補い、薬や衣類の原料となる植物を、必要最低限だけ生み出し、分け与えること。それは決して潤沢ではなく、常にギリギリの線で、依存を生まないよう細心の注意が払われていた。

 その足となるのは、ファロンがかつてナサニエルに「万一の時に使え」と渡した軍用車だった。かつての道は瓦礫と亀裂に覆われ、とても車が通れる代物ではない。そのため、車は装甲を厚くし、巨大なタイヤを履いた、ゴツく凶暴な見た目に改造されていた。その鉄の獣を、今、銀髪のエレオノールが優雅に、しかし確実に乗り回している。

 ファロンは軍務に追われている。彼が、自分が託した車が、己の目の届かぬ場所で、彼の友人の妻によって、彼の思想とはおそらく相容れない「分け与え」の旅に使われていること──その事実を、彼はまだ知らないかもしれない。



「ルイ」

「なあに? パパ」


 床に座り、色あせたクレヨンで一心に絵を描いていたルイが、ふわりと顔を上げる。

 五歳になっても、ずっと、この子は変わらず愛らしかった。柔らかくもちもちとした頬、くりっとしたナサニエルと同じ深緑の瞳。その目は、まだこの世界の終わりの色に、まったく汚されていなかった。


「パパにも、絵を見せてほしいな」

「うん、いいよ」


 差し出された画用紙には、三人の大人と一人の子供が描かれていた。陽の光のような金髪の男、深い森のような緑髪の男、そして星屑のような銀髪の女。その三人に守られるように、小さな緑髪の子供がいた。全員が、口元を緩めて、心から笑っている。

 背景には、ナサニエルがこの子に見せたことのないはずの風景が広がっていた。塗りつぶされた鮮やかな青空、一面に広がる緑の芝生、そこに点在する無数の小さな花々。そして──ひらひらと舞う、一羽の白い蝶。


(これ、は……)


 唐突に、氷水を頭からかけられたかのように、思考が止まった。


「ルイ」ナサニエルは声を潜め、できるだけ穏やかに問いかける。「どうしてお空を、こんなに青く塗ったのかな?」

「ママが教えてくれたんだよ」ルイは、何の疑いもなく、澄んだ声で答えた。「お空はね、パパが知ってる灰色じゃなくて、本当はこんなにきれいな青い色なんだって」


「この地面の緑は?」

「これは"しばふ"って言うんでしょ? これも、ママが教えてくれた。ふかふかして気持ちいいんだって」

「このお花は?」

「ママ!」


 即答だった。その一言に、エレオノールの日々の営み、彼女がこの子に注ぎ続けた"生きている世界"の記憶が、すべて込められているようだった。


 エレオノール、愛している。この言葉が、静かな熱となって胸をよぎる。



 そして最後に──最も、気になった一点を、そっと尋ねてみることにした。


「じゃあ、これは?」


 指先が示したのは、緑髪の男の近くでひらりと舞っている、その白い蝶だった。羽の端が、ほんの少しだけ、水色で縁取られている。その配色。これは──



「パパが、いつも楽しそうにお話してるよね。だから、描いてみたの」



 ルイの無邪気な笑顔が、ナサニエルの心に、穏やかな、そして深い衝撃を落とした。

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