Interlude I: 20xx - Lost Star "Aujourd'hui"
二○XX年十二月。旧フランス、パリ郊外。
世界は、混沌を極めていた。
戦争。度重なる天災。そして、この星の外からのやってきた生命体による侵略。
国家という枠組みは崩壊し、貨幣の価値さえも失われてしまった。生き残ったほとんどの人間にとって、自分が逃げ込んだシェルターの壁が、世界の果てとなった。
灰色の空は、常に重く垂れ込めている。かつての美しい街並みは失われ、骸骨のように無数の廃墟が折り重なり、風が抜けるたびに軋む金属音が、終わりのない嘆きのように響き渡る。道には、役割を終えた車両の残骸が、無造作に転がっていた。すべてが、鮮やかな色彩を剥ぎ取られ、モノトーンの腐敗した静寂に包まれている。
──希望など、とっくに絶えていた。
生きるための糧。清潔な水。安全な眠りの場所。あらゆるものが奪われ、剥ぎ取られた世界で、明日が来ることすら約束されていない。人々の瞳には、飢えと疲労、そして深い諦念の影が刻まれている。隣人の死は、もはや悲しみですらなく、ただ次は自分の番かもしれないという、冷たい現実を突き付ける通知でしかなかった。
だが、ただ一つ。「異能」という名の、超越的な力に目覚めた者たちだけは、混沌に抗う牙を持ち得た。彼らは、新たな神とも、あるいは悪魔とも呼ばれた。その力は、祝福か、それともさらなる破滅の始まりか──そのときはまだ、分かっていなかった。
──男、ナサニエル・クレルヴォーもまた、その一人だった。
◇◆◇
数か月前、ナサニエルは地下シェルターを離れ、かつて家族と暮らした家へ戻っていた。十回を超えるであろう爆破によって、何度も補修したはずの壁すら剥がれ落ち、窓ガラスは砕け、屋根には灰色に淀んだ空を見上げる大きな穴が空いていた。家具は何も残っていなかった。ただ埃と、遠い記憶の残滓だけが、静かに堆積している。
それを──彼が頼んだわけではないが──修繕してもらったのだ。今は家族を連れ、崩れかけたこの家で、かろうじて穏やかな日々を紡いでいる。
穏やか──それは、この終末の世界において、最も脆く、そして最も尊いものであった。
──コン、コン、コン。
規則正しい、冷たいノックの音。それは、静寂を薄いガラスのように割り、安息の時間に亀裂を走らせる。
「ナサニエル・クレルヴォー」
またか。
ナサニエルは目を閉じ、深く、ゆっくりと息を吐いた。吐息の中に、わずかな疲労と、覚悟の色が混じる。立ち上がり、ゆっくりと玄関へ向かう足取りには、重い諦めのようなものがまとわりついていた。
玄関を開けたそこには、真っ白な防護服を着た男が立っていた。それは、この汚染された世界から自らを隔絶するための、完璧なまでの白衣。防護面越しに見えるその顔は、感情の影一つない、無機質な仮面のようだ。新世界政府──"イージス・コンコード"の職員。秩序と再生の名のもとに動く、新たな権力の尖兵。
新世界政府なる仰々しい名を掲げるその集団は、散り散りになった人類がもう一度結束するために、と声を上げた。旧時代の「お偉方」を中心に、生き残った軍人、そして──特に有用な異能者を集めていた。
社会を再構成すること。
各地で発生しているらしい暴動を鎮圧し、人々を守ること。
そして、この瀕死の星を捨て、天上の楽園たるスペースコロニーへの大移住を先導すること。
それが、彼らの掲げる大義だった。
「イージス・コンコードからの召集だ。断ることは許されない」
「嫌です。行きません」
「『断ることは許されない』という言葉が聞こえなかったか……」
「嫌なものは嫌です」
ナサニエルの声は、荒廃した大地に吹く、よどみない風のように穏やかだった。しかし、その奥には、長年にわたる風雨に削られた岩盤のような、確固たる意志が横たわっている。彼は、防護面越しの男の目をまっすぐに見つめた。一歩も引かなかった。その深緑の瞳は、若さをまだ宿しながらも、どこか深く疲弊し、磨り減っていた。
「なぜそんなに頑ななんだ。地球に残ったところで、待っているのは確実な死かもしれないぞ」
「スペースコロニーで生き延びられる未来も、僕にはまったく想像できませんけどね」
ナサニエルが軽く肩をすくめる。その仕草は、まるで昨日見た夢の話をしているかのように、あまりにも軽く、職員の苛立ちを煽るだけだった。
「貴様……」
「方舟、でしたっけ。あの巨大な輸送船だって、事故の可能性はゼロじゃない。現に、第二方舟は、『事故』を理由に打ち上げが延期されたままです。仮に宇宙にたどり着けたとしても……宇宙に進出した人類に激怒した『何か』が、コロニーを撃ち落とすかもしれない。僕は、そんな不確かな希望の屑に、家族を巻き込みたくない」
ナサニエルは淡々と、しかし一つ一つの言葉に確信の重みを込めて続けた。
「でも、この地球で、この家で、運命が尽きるのなら……僕は後悔しない。ただ、それを受け入れるだけです」
埒が明かないと判断したのか、男はついに苛立ちを露わにした。無防備なナサニエルの腕を、防護服の手袋越しに、無理矢理掴む。その指には、異能者の力か、あるいは強化された筋力か、有無を言わせぬ物理的な圧力が込められていた。皮膚の下で、骨が軋む音がした。
その途端──二人の間に、割り込む影があった。
「夫に何か御用でしょうか」
銀色の、細く長い髪が、微かな空気の動きに揺れた。月光が糸を紡いだようなその髪は、薄暗い玄関口にほのかな輝きを散らす。
振り返った先に立っていたのは、妻──エレオノールだった。だが、その姿は、いつもの穏やかで柔和な彼女とはまるで別人のようだ。
輝かしいペリドットの瞳には、宝石の原石そのままの、冷たく鋭い光が宿っていた。引き締まった唇は、一文字に結ばれ、一切の緩みを許さない。その佇まいは、守るべきものの前にはじめて現れる、美しくも威圧的な障壁のようだった。
「夫は不確定要素があると踏み出せない性格ですので、崇高なイージス・コンコードの職員にふさわしい人物ではないと思います。諦めたほうがよろしいかと」
「エリー?」
ナサニエルは、ほんの一瞬、息を呑んだ。辛辣だが──こういうところがいいのだ。
あの、いつもは優しい彼女の内側に、鋼のように強く、揺るぎない芯があること。守るべきものが脅かされたとき、穏やかな湖面が一瞬で堅い鏡と化すように、彼女が毅然と立ち現れるその瞬間。それが、エレオノールという女性の、最も美しい本質だった。
そして──さらなる追い打ちをかけるように。
ゴッ。
鈍く、重い、肉と防護服が圧縮されるような音。次の瞬間、目の前に立ちはだかっていた真っ白な人影が、まるで中身の詰まった人形のように軽々と吹き飛び、視界の端へと消えた。男の体が地面を転がる音だけが、一瞬の静寂を引き裂く。
次いで、そこに立っていたのは、傘をさした軍服姿の金髪の男だった。雨傘の黒が、彼の整った軍装と不釣り合いなほどに優雅で、その下から覗く赤い瞳は、転がる職員を一瞥するだけで、氷のように冷たい光を宿していた。
彼の名は──ファロン・ヴォーベール。
「……軍人の友人を持つと心強いな。だが君、政府職員を殴るのはどうかしていると思う」
ナサニエルが、微かに眉を上げて言う。その口元には、ほんのわずか、逃げたような苦笑が浮かんでいる。
「ナティ。それなら、助けなくてよかったか?」
「いや? 清々した」
学生時代からの付き合い──今となっては、荒廃した世界に残された、数少ない「親友」と呼べる存在だ。
人一倍、燃えるような正義感を持った熱い男だった。軍人の道を選ぶと告げたあの日、ナサニエルは彼の背中に、眩しいほどの使命感の輝きを見たことを覚えている。今も、イージス・コンコードとは関係ないが、各地に蠢く暴動の鎮圧に奔走し、崩れた秩序の破片を拾い集めようとしている。
ファロンの赤い瞳が、ゆっくりとナサニエルへと向けられる。その深紅の底には、複雑な感情が濁流のように渦巻いていた──揺るぎない友情、どこか遠いものを追う者だけが持つ羨望、そして、ここ一年ほど──彼が異能の力を開花させたあたりから、色濃くなった、焦燥の色。
「こんにちは、ファロンさん」
エレオノールが、低く挨拶を返す。その声音は、氷の刃を滑らせるように、澄んでいて、そしてどこまでも冷たかった。
「……こんにちは」
ファロンは、短く、硬い言葉で応じる。
エレオノールとファロンが、わずか数歩の距離を隔てて対面する。
なぜか、ずっとこの二人は、水と油のように相容れなかった。エレオノールはファロンを警戒しているようで、ファロンはエレオノールに複雑な思いを抱いているように見えた。二人の間に流れる空気は、いつも張り詰め、触れれば火花が散りそうな緊張に満ちていた。




