第四十九話 白き観測者はすべてを覗く
『さて──よくここまで来てくれました』
ベリースヴェートが、にっこりと微笑む。その笑顔は、先程までの神々しい冷たさが嘘のように可憐で、少女のような無邪気さを湛えている。しかし、その声色には、氷の下を流れる熔岩のような、危うい熱情がきらめいていた。
『なぜ、ナサニエルとエレオノールの名前を知っているのか、でしたね。それは──』
彼女は恥ずかしそうに──というよりは熱烈に、身を乗り出して言った。その仕草は、大切な秘密を打ち明ける友人のようだった。
『わたくし、あの二人をずっと追いかけていましたから! いや、追いかけるというか、研究というか、崇拝というか……もう、とにかく、ずぅっと!』
「は、はい?」
ルイは思わず引く。そのあまりにも予想の斜め上を突き進んだうえで何百回とぐねぐねと曲がったような、理解しがたい告白に、戸惑いを隠せない。
「そ、その体だと目立つんじゃ……」
『あら、この姿? これはこの領域でのみの顕現ですわ。外では……ふふふ』
彼女がいたずらっぽく笑うと、ふわり、と一匹の氷のように透き通った青い蝶が、虚空から現れ、優雅に舞いながらルイの肩に止まった。羽は微かに震え、冷たいが痛くない感触を伝える。
『わたくし自身は、この領域から動くことはできません。ですから、可愛い眷属たちにお願いして、ずっと見てもらっていました。ナサニエルの一日のスケジュール、エレオノールの好きな紅茶の銘柄、二人の記念日の過ごし方、それに──』
蝶の羽がかすかに震え、囁くような声が直接ルイの脳裏に流れ込む。
『──あなたが初めて言葉を話した瞬間も、もちろん見ていました! 感動で、ヴァルケイア全域の星溶粒子の量を三日間、通常の十倍以上に溢れさせてしまったんですよ!』
恍惚とした表情で宣言するベリースヴェート。
それを見て、聞いて、ぞわぞわぞわと、言い知れぬ悪寒がルイの背筋を駆け上がる。
(これ、女神じゃない……ストーカーだ!!)
彼は内心で叫びながらも、ベリースヴェートの話に引き込まれていく。
『わたくし"も"、ナサニエルの力を、とても、とても欲しかったのです。この傷ついた世界を、"修復"するために』
その言い分は──ファロンと変わらない。世界の修復という目的も、ナサニエルの力を欲しがるというのも。
ファロンと、決定的に相容れないと感じたのは、彼が他者を排除しようとする思考の持ち主だったからだ。彼が復元しようとしていたのは、おそらくは侵略以前の、汚れなき「環境」のみ。そこに住んでいた人間や、今を生きる者たちは、彼の理想には不要な要素であり、全て排除すべき対象だった。その思想の根底には、純粋なもの以外への、絶対的な不寛容があった。
では、ベリースヴェートはどうなのだろうか──
『わたくしも異能の力を持っています。その力は……近くにいる者の異能を『覚醒』させること。潜在能力を引き出し、開花させるのです』
「……!? そんなことが可能なのか?」
ルイの目が見開かれる。異能を"与える"力。それは、彼の操る力とはまた別次元の、創造に近いものに思えた。
『はい。ですが、残念ながらコントロールが効きません』
ベリースヴェートがそっとため息をつく。その吐息は、冷気ではなく、微かな光の粒子となって散っていった。
『この力は、この領域と共に、常時発動され続けているのです。ヴァルケイアに近づく者、特に現状を変えたいという強い想いを持つ者は、無意識のうちにその力を目覚めさせられてしまう。わたくしの意志とは無関係に、彼らの内側にある「何か」が触発され、形を成してしまうのです』
彼女の表情がほんの少し曇り、神々しい顔に、まるで完璧な彫刻にひびが入ったような、わずかな苦悩の陰が落ちる。
『わたくしが無意識に生み出してしまう異能者は、善良で世界に役立つ力を持つ者ばかりではありません。暴走する力、破壊のみを求める力、歪んだ欲望に駆られた力……そういった"膿"も、等しく生み出してしまう。
その膿を──ナサニエルに正してほしかった。彼の操る力で、混乱した異能に秩序を与え、暴走を止め、時には世界にとって有害な力を"削除"できる唯一の手段でした。正しき異能者は、世界の修復に役に立つ。実際、人間がスペースコロニーに移住するための基盤を整えたり、イージス・コンコードの建造物など、さまざまな文明の礎を作り上げたのは、わたくしに感化され、眠っていた才能を開花させた異能者たちでした』
彼女の声に、ほんのわずかな誇りが混じるが、すぐに自嘲に変わる。
『そんな彼らを育て、導きながら──ナサニエルには"編集"する力で、異能を制御し、時には削除してほしいと、心から頼んだのです。わたくしが生み出す「光」と、彼が整える「秩序」。それが組み合わされば、この傷だらけの世界も、もう一度……』
言葉がそこで途切れる。
「……その結果?」
ルイは恐る恐る聞いてみた。
するとベリースヴェートは突然、両手で顔を覆った。肩を小さく震わせる。その様子は、神々しい女神というより、世紀の大失恋を嘆く乙女のようで、その落差にルイは少し呆然としてしまう。
『フラれました!!! 家族がいるから、って……言わせないでくださいよもぅ!! 本当に泣きますよ!? 一生分の眷属の涙でヴァルケイアを水浸しにしますから!?』
その悲痛な叫びは、雪原に反響し、いくつかの氷柱が微かに軋む音を立てた。
……こんなストーカーのような、しかも超常的な執着に満ちた頼みを、まともに聞く人間がいるだろうか。ルイは内心で思わず首を横に振りたくなった。父が断ったのは、当然の判断どころか、自己防衛の必須事項に思えた。
『それでも諦めきれなくて、一年間、"毎日"のように愛らしい眷属たちを送り、丁寧な手紙を届けたのですが……ある時、ナサニエルがとうとう「うるさい」って本気で怒り出して、眷属がみんな蝶々を消そうとしたんです! エレオノールが優しく止めてくれなければ、本当に全滅でした! わたくし、ショックで三日間ぐったりしていました!』
彼女はうつむき、雪の上に落ちた涙のような光の雫が、じわりと染み込んでいく。
確か、父はファロンにも執拗に迫られていたはず──父は、もしかするととんでもない人たらしだったのかもしれない。
ルイは複雑な感慨に包まれる。父が、これほど強大で、しかも危うい愛情を寄せる存在を、あっさりと──それも物理的に追い払う勢いで──跳ね除けていた事実に、ある種の畏怖と、さらなる父へ対しての疑問が募る。
『でも、彼が家族を思う気持ちは……とっても尊くて……ああ、だめ、思い出すだけで胸がきゅんきゅんします……』
彼女はぼんやりと遠い目をして、透き通るような頬をほんのり桜色に染めている。完全に恋に落ち、かつ理想化された記憶に浸る少女のようだ。
引き攣った口角が元に戻らなくなっていることを、ルイはこのとき自覚した。
『だから、あの金髪クズ野郎をあなたが倒してくれた時は、本当にスカッとしました! さすがナサニエルの息子! 世界を混沌に導く悪には、等しく死を!!』
ベリースヴェートは拳を握りしめ、熱烈に語っていた。ファロンの最期が、彼女にとってはさぞかし痛快な事件だったのだろう。
『……でも、一つだけ気に食わないことが。あなたがあのミオウという男と一緒にいたことです。あの人も混沌を生み出すタイプの異能者なので。敵です』
彼女の声に、突然鋭い怒りが宿る。周囲の静かな雪が、彼女の感情に呼応して微かに舞い上がり、冷たい空気が一層張り詰める。
──段々と、思考が冷めてきた。
この変異体もといストーカーは、今の話ぶりを聞く限りだと、世界に混沌をもたらすことはあれど、意図的な破滅をもたらす存在ではない。その混沌さえも、彼女が積極的に望んで引き起こしたものではなく、コントロールできない力の副作用。
それなら、少なくとも現時点では──敵ではない。
「全て……知っているのか?」
ルイは慎重に聞いた。彼の声には、もはや動揺よりも、確かめたいという確固たる意思が感じられる。
『もちろんです!! 二十四時間、三百六十五日、朝も昼も夜も、家族でいるときも、そうでないときも、シャワーを浴びているときさえ、眷属たちは見ていましたから!!』
「シャワー中まで!?」
『ええ! ナサニエルの入浴シーン、全部記録してますわ! あ、もちろんエレオノールのも! 二人で時の微笑ましいやり取りとか……』
「待ってくれ、その話を初めに聞くのは嫌だ……!!」
あまりにプライベートで、生々しい情報の洪水に、ルイは思わず耳を覆った。少し、この変態に殺意が湧いたかもしれない。
彼は深く息を吸い、胸に渦巻く複雑な感情を押し殺し、最も知りたい核心を問うた。その声は、緊張でかすれていた。
「父さんが母さんを……殺したっていう、あの日のことを知りたい」
ベリースヴェートの表情が、一瞬で変わる。少女めいた戯れの色が消え、神々しいまでの厳かな、しかし深い悲しみに満ちた表情へと変わった。周囲を漂っていた軽やかな光の粒子も、一斉に静まり、重い空気が張り詰める。
『……もちろん。知っています。あの悲劇のすべてを……あの日のことも、あの悲劇にいたるまでの過程も。この目で、眷属たちの記憶を通して見届けています』
彼女はゆっくりとルイに近づき、その巨大な体躯をかがめて、冷たいが驚くほど柔らかな指先を、そっと彼の頬に触れる。その感触は、雪のように冷たかったが、どこか慰めと慈愛に満ちた温もりを感じさせた。
『それを、ずっと話してあげたくて。あなたが成長し、この重い真実を受け止める力を持ち、ここへ来るのを、わたくしは心から待ちわびていました』
その微笑みには、千年の時を超えたような、計り知れない慈愛と、痛切な記憶の色が、静かに、しかし激しく揺らいでいた。それは、単なる傍観者の哀れみではなく、深く関わり、愛し、そして失った者だけが持つ、複雑で重い感情の渦だった。
ルイは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。喉が乾き、心臓が高鳴る。この瞬間まで、長い間胸の奥で燻り続けてきた疑問──父が母を殺したという、歪んだ真実。その全てが、今、この純白の存在の口から語られようとしている。
雪原の静寂が、一層深く感じられる。ベリースヴェートの周りの光の粒子が、ゆっくりと、祈りのように旋回を始めた。
──これから、知るのだ。




