第四十八話 廃墟に輝く雪と混沌の主 - 3
『──よく来ました』
声が、ついに実体を伴って響いた。頭の中だけではなく、この光の空間全体に、優しく、しかし深く響き渡る声。
同時に、広場の中心、ルイの目前で雪が最も深く積もり、光も最も濃い場所から、柔らかな、しかし確かな光が湧き上がった。
それは初めはただの光芒、地から立ち上る靄のようなものだった。だが、徐々に、ゆらりと輪郭を結び、形を成していく。光の粒子が集まり、紡がれ、煌めきながら立体を構築する──まるで、この場所そのものが、長い眠りから目覚める存在を、その記憶を元に再構築しているかのように。
──そして、その光が収束し、静まった時、純白に染め上げられた女神が、顕現した。"女神"と、そう呼ぶほかない存在が、眼前に立っていた。
その身長はルイの身長を遥かに超え、優に三メートルはあるだろう。全身からは柔らかく、しかし確かな蒼白い光が発せられ、周囲の雪さえもその輝きに溶け込んでいくかのようだった。銀髪というよりは、雪そのものが流動化したような透き通る白い髪が、重力を忘れたように静かにたなびいている。
顔立ちは彫刻のように端正で、異国の、そして非人間的な美しさを湛えている。鼻筋は通り、唇は淡い桜色だが、そこには生気というよりは完璧な造形美がある。肌は新雪のように白く滑らかで、人の温もりを感じさせない冷たさを放ちながら、逆説的にその完璧さが神々しいまでの魅力を生み出していた。
身にまとうのは、白を基調とした神聖な装束。胸元や袖、裾には精緻な氷結晶のような文様が刺繍され、わずかな動きでもきらめきを散らす。その背には、天使の翼とも妖精の羽ともつかない、巨大で透き通った蝶の羽根が広がっている。羽根は青みを帯びた氷のように見え、微かに脈動するたびに淡い光彩を放ち、周囲に星屑を撒き散らしているかのような幻想的な光景を創り出していた。
「お前は……」
ルイの声が、乾いたように、そして畏敬の念に押し潰されそうになりながら絞り出される。彼は、これが珠桜や琴葉、あるいはファロンとは全く次元の異なる「何か」であることを、骨の髄まで理解した。
存在がゆっくりと口を開いた。その動作さえも、非現実的な優雅さに満ち、時間の流れが歪むかのように感じられた。唇の動きと、空間に直接響く声には、ほんのわずかなずれがある。
『わたくしは「ベリースヴェート」。この一帯に生命をもたらす──"変異体"です』
変異体。澄幽の、ミコと同じだ。いつの日か、常にエネルギーを放ち続ける特異体質になってしまった、元人間。
声は、最初に頭に響いた時と同じ、水晶のように澄んでいて、心地よい旋律を帯びている。しかし、その響きの底には、広大な氷原のような、計り知れない深淵の冷たさが秘められていた。それは、優しさと、絶対零度の非情さが同居する、矛盾に満ちた調べだった。
そして、その閉じられた瞳が、ルイをまっすぐ捉える。見えているはずがないのに、彼の肉体を透過し、魂の奥底に刻まれた記憶の痕跡や、流れる血の遺伝子にまで届き、すべてを看破するような視線だった。
『ナサニエルとエレオノールの息子──本当に、よく来てくれました』
その名を口にされた瞬間、ルイの全身の血液が、文字通り凍りつくような感覚に襲われた。
ナサニエル。エレオノール。
父と母の名。彼が過去に失ったという記憶の中にのみ生きている、この世界で最も会いたくて、同時に最も遠い存在である、二人の名前。
珠桜に話を聞いても、彼が知っているのは僅かだった。父が母を殺したという日の記録と、父を処刑する十数分の記憶。
最もその二人を知っていそうだったファロンは──世界を壊そうとする前に、ルイたちがその命を断った。もう、あの狂気の口から、両親の過去や、あの日の真実が語られることは永遠にない。
両親へ繋がる手がかりは途切れたのだと──そう思っていた。
「っ……!」
息が詰まる。鼓動が耳元で狂ったように鳴る。なぜ? どうしてこの存在が、あの名を知っているのか?
しかし、その問いかけはすぐに、胸の奥で沸き上がる別の感情に押し流されていく。彼の心臓が、一際大きく、強く鼓動した。それは──もはや恐怖ではなかった。この女神の圧倒的な威厳や、未知に対する恐怖など、今はもう感じていなかった。
──知りたい。
その一念が、すべてを駆逐する。
(父さんと……母さんのこと。彼らが誰で、何を考え、どう生きたのか。あの日、何があったのか……
この存在は……もしかして、知っているのか? 語ってくれるのか?)
ルイの心を、全身を支配するのは──氷のような領域の中で、逆説的に燃え上がる、堪えきれないほどの熱だ。
父と母の名を口にされたその瞬間、すべての警戒心や恐怖は、この「知りたい」という一点の炎に焼き尽くされていた。彼のライムグリーンの瞳には、畏敬よりも、むしろ強い意志の光が宿り始めている。
「ベリースヴェート……」
彼の声は、まだ震えているが、その中心には確かな力が込められていた。
「どうして父さんと母さんの名前を……っ!?」
「ルイっ! やっと追いついた!」
突然、腕を強く引かれた。冷たい手の感触。振り返ると、息を切らしながらも必死に駆けつけたシアと、鋭い目つきで周囲を探る琴葉がいた。琴葉はドレスのスカートをまとめて片手で摘まんで持っているが、それでもその裾には雪がつき、シアの白銀の髪は乱れている。二人は、ルイが引きずり込まれるのを見て、何とかこの領域の中まで追ってきたのだ。
「シア、琴葉、二人とも、アレを見てくれ……!」
ルイは混乱しながら、純白の女神──ベリースヴェートを指さす。その巨大で輝く姿は、彼の視界を独占している。
しかし、琴葉は警戒しながら周囲を見渡し、細い眉をひそめて首をかしげた。
「アレ……? 何のこと?」
「こ、琴葉……見えてないのか!? あんなに大きな、あの……女神みたいなのが!」
「ルイ、どうかしたの……? 何かが見えるの?」
「シアまで……!」
シアのアメジスト色の瞳にも、純粋な困惑しか映っていない。二人には、ルイが見ている光景は、完全に見えていないようだった。
ベリースヴェートが、優雅に、しかしどこか子どもっぽく誇らしげに口元を緩めた。その表情は、神々しい外見に似つかわしくない、どこかいたずらっぽいものだった。
『見えないですよ。だって、見せていませんから』
その声は、相変わらずルイの頭蓋骨に直接響く。彼女だけとの密やかな通話のようだ。
『汚らしいあの女の眷属と、アイツの力に縋る魔法遣い──塵虫たちに、わたくしの尊い姿なんて見せてやりません。見えるのは、わたくしが認めた者だけです』
「えっ……」
ルイは唖然とする。なぜ、こんなにも──彼女の言葉には、琴葉とシアに対する露骨な嫌悪と蔑視が込められていた。何か過去に、またしてもルイの与り知らぬところで、何かがあったのだろうか。
『その黒い塵にはこう伝えてください。「ベリースヴェートと名乗る変異体が、ここにいる」と。それで、黒いのは理解するでしょう』
「変異体……」
ルイの呟きを耳にしたのか、琴葉の表情が一変する。
「変異体? 変異体がここにいるの?」
彼女の声は、鋼のように冷たく硬直した。右手が、ゆっくりと虚空に掲げられる。
琴葉が取り出したのは、絶刃だった。ファロンとの戦いの中では珠桜が使い、「力を全ては引き出せない」と言いながらも、何度もルイや律灯の命を救ったあの刀。
今、それを握るのは、その力を最大限に引き出すことができる継承者、琴葉だ。かつて、変異体になりかけたミレディーナを一振りで鎮め、数百メートルの津波さえも一閃してみせた伝説の刀が、今、微かに深紅の輝きを帯び始めている。
「待て、落ち着け!! 琴葉、それはまだ早い!! 相手は話ができるんだ! 襲ってきてはいない!」
『これだから野蛮な"骸"は嫌いなのです! これでは話もできません!』
ベリースヴェートがほんのりと──しかし確かに不満そうに頬を膨らませる──その仕草が、神々しい外見に似つかわしくなく、妙に人間臭い。
『貴方たちはこの場所にはいりません。邪魔です』
彼女が軽く、しかし確かな意志を持って手を振る。
次の瞬間、琴葉とシアの身体が、地面から無理やり引き剥がされるように浮き上がった。二人の周りの空間が歪み、見えない力に包まれる。
「へ?」
「え」
驚きの声を上げる間もなく。
『さようなら』
優しいとは言い難い、むしろ少し乱暴な勢いで、二人の身体は広場の外へ──廃墟の方向へと放り投げられた。まるで、不要な埃を払いのけるように。
「「──きゃぁぁあああああっ!!!」」
二人の悲鳴が、一瞬、雪原に響き、遠ざかっていく。
その後、大きな衝突音などは聞こえてこなかった。地面には分厚い雪が積もっているからだろうか、それとも、ベリースヴェートの力が彼女たちを無傷で着地させたのか。
ルイはただ、呆然と二人が消えた方向を見つめ、それからゆっくりと、再び眼前の巨大な女神──ベリースヴェートへと視線を戻した。彼女は相変わらず、穏やかで、少し得意げな表情を浮かべている。
「……なんで、あんなことするんだ」
『邪魔だからです。さあ、ナサニエルとエレオノールの宝物。わたくしと、ゆっくりお話ししましょう』
彼女は微笑み、その蒼い瞳が、ルイを深く、優しく見つめた。




