第四十五話 凍夜に語るは - 3
琴葉はルイとシアに、せめて寝袋に入り横になっているように、と促した。そして、二人の枕元近くまで移動し、自らも結界の縁に腰を下ろす。元々、こんな話をするつもりはなかっただろう。だが、彼らが気になって眠れないだろうことを見越したのか、あるいは、今夜という境目を必要としたのか──彼女は静かに言葉を紡ぎ始めた。
「私は人間じゃない。比喩ではなく、本当に」
その第一声は、極寒の夜よりも冷たく、現実を直視させた。
「昔は人間だったらしいけれど……死んでしまったみたい。今この体には血液ではなく魔力が流れていて、それを操って私は動いている」
ルイは息を詰めた。喉が渇き、握りしめた拳の指先が冷たい。シアは目を大きく見開き、寝袋の縁を無意識に強く掴んだ。
信じがたい。だが、琴葉のあまりにも自然に、あまりにも確信を持って語るその口調は、嘘ではありえなかった。
「……そんなことが……あるのか?」
ルイの声は、かすかに震えている。
確かめたかった。ルイは体を起こし、琴葉の顔を直に見ようとした──だが、起き上がろうと力を込めたその瞬間、琴葉の手が彼の肩に触れた。それは押さえつけるほどの力ではなく、ほんの軽い制止だったが、それ以上の動きを封じる不思議な重みがあった。
彼は仕方なく仰向けのまま、見上げるしかなかった。結界の微光の中、琴葉の姿は美しく整っていた。一見、生きている人間と何ら変わりない。いや、それ以上に完璧だ。
──しかし、ルイは気付いてしまった。
生きている人間であれば、自然と行われる動作がある。呼吸をすれば胸や肩が微かに動く。眼球を潤わせるため、瞬きが必要。無防備な沈黙の間には、微かな息遣いさえ聞こえるはずだ。
だが、琴葉にはそれがなかった。
彼女の胸元は静寂そのもの。長い睫毛は、一瞬も揺るがない。そして、この至近距離にいても、一切の息遣いが聞こえてこない。そこにあるのは、完璧すぎる静止だけだった。
それは、生命の証である"揺らぎ"を一切持たず、本当に死に、体の時が止まってしまったかのような不気味な静寂だった。
「あるわ」
琴葉の返答は、静かでありながら、絶対的だった。その声は、肺や声帯からではなく、どこか別の器官から──魔力そのものから直接紡ぎ出されているようにさえ聞こえた。意識すれば、意識するほど。
「そんな……そんなの……」シアの呟きは、すぐに途切れた。彼女は、琴葉の腕のあの異様な硬さを思い出していた。あれは、確かに生きている人間の肉体ではなかった。
「死んでいるから、体はずっと冷たいまま。
細胞も筋肉も、全て死んでいる。魔法で動かすだけだから、ほぐすことも必要ない。
睡眠も食事も不要。だから、気遣う必要はない」
琴葉の言葉は、淡々と、しかし一つ一つが重い真実として積み重なっていく。それは、自らの非人性を開示すると同時に、彼女が今日、なぜあれほど完璧に戦え、なぜ疲れも見せず、なぜここまで彼らの世話ができたのかを、すべて説明していた。彼女は、人間ではないからこそ、人間ではできないことを為し得る存在だった。
「何度傷がついても、魔力で修復すれば『直す』ことができる。でも……」
ここで、琴葉の声が、ほんのわずか、しかし確かに曇った。
「貴方たち人間は、そういうわけにはいかないでしょう? 一度失ったものは戻らない。傷は痛み、命は限られている。流れた血は、二度と体内を巡らない。だから、私が戦場に立ち、貴方たちは澄幽にいればいい──本来、そうあるべきだった」
それは、これまで聞いたどの叱咤や指摘とも違う、内側から滲み出るような軋みだった。
深いため息のように、しかし彼女は息を吐かない。ただ、沈黙が一層重くなる。
「そして、私は貴方たちが戦場に出ることを、何が何でも、強制的に止めるべき」
その言葉は、これまで以上に重く、そしてどこか痛烈な自嘲に満ちている。ルイとシアは、琴葉が目を伏せるのを見た。長い睫毛が、結界の微光でつくられた淡い影を、彼女の冷たく白い頬に落とす。
「……感情なんて持たないで、貴方たちの希望も想いも、全て捨てられるような冷徹な人形であればいいのにね」
彼女の声は、かすかに、かすかに震えているように聞こえた。それは、魔力で構成された彼女の声帯が、ありえないほどの微細な感情の揺らぎを再現しているのか、あるいは──。
「そうすれば、迷うことなく、縛りつけてでも澄幽に留められたはずだから。それが、一番安全な方法だって……理解は、しているの」
一瞬の間が流れ、琴葉はゆっくりと顔を上げる。深紅の瞳には、もう曇りはない。しかし、その奥には、深く閉ざされた決意が、氷のように固く沈んでいる。
「……でも、できなかった。またしても、私は"そういう存在"にはなれなかった」
彼女の声は再び、鋼のように冷たく、確かなものに戻る。だが、その冷たさは、自らへの戒めでもあるように響く。
「だから、責任は貴方たちを完璧に守るという形で、必ず取る。ただし、そのためには──絶対に死なせないために──貴方たち自身が一定以上戦えることを、私からも要求する。私の『守護』の範囲内で、生き延びる力を身につけなさい」
琴葉の深紅の瞳が、二人をまっすぐに捕らえる。それは、もう迷いのない指導者の眼差しだった。
「もし、その要求を達成できないなら……その時は、私は迷いを捨てる。たとえ恨まれようとも、貴方たちを澄幽に縛り付ける。それが、死せる私にできる、生への最低限の責任だから」
結界のほのかな光の中で、三人は重い沈黙を分かち合った。
琴葉は、人間を超越し、守るために存在する、孤独な守護者。
ルイとシアは、その守護に支えられ、必死に生きようとする──ただの、脆い人間。
「私と同じ動きができるようになれと言っているわけではない。
貴方たちに教えるとき、生きている人間の体でできる範囲の動きというのは常に考えている。今日指摘したことも、貴方たちでも可能なことしか言っていないわ。無理な要求はしていない」
彼女は一瞬、言葉を切った。深紅の瞳が、結界の外の闇を、あるいははるか過去を見るように彷徨う。
「このことについて……同情も気遣いも、何も要らないから」
その口調には、かすかな、しかし確かな拒絶が込められていた。哀れまれることを、彼女は望んでいない。
「とにかく、この違いを理解して……きちんと、私の保護できる中にいること。そしてその保護を、当たり前として受け入れることを覚えてほしかった……それだけ」
それは、命令であり、懇願でもあった。守護者としての責務と、守られる者たちへの、複雑な想いが交錯する言葉。
「……最後に、聞いてもいいですか?」
シアがぽつりと呟く。琴葉がゆっくりとシアの方を向く。
「何? ……というか、敬語も、『さん』付けも、もういい。ルイみたいに、楽に接するといいわ。そこについては、私は気にしない」
その言葉は、わずかながらの歩み寄りだった。境界線を認めた上で、わずかな距離を縮める許し。
「あ、えっと、じゃあ……」シアは一瞬、戸惑いながらも、その許可を受け止める。「人間じゃないなら……琴葉ちゃんは……なんていうの?」
"琴葉ちゃん"──その呼び方に、琴葉の反応がほんの一瞬、止まった。彼女の深紅の瞳が、微かに見開かれたままシアを一瞥する。
一呼吸置いたあと、琴葉は静かに、しかしはっきりと答える。
「……"ネガイ"」
「ねが、い……? それって、どういう漢字?」
「……」
琴葉は口を閉ざし、再び外の闇を見つめた。その横顔は、月のように冷たく、そして悲しげだった。
「それは……内緒。話が長くなるから」
彼女はそっと手を上げ、結界の光をほんのりと明るく調整する仕草を見せた。それは、「もう話は終わり」という合図にほかならない。
「今夜はもう遅いわ」
そして、彼女が最後に呟いたのは──
「おやすみ」
その声は、これまでになく、ほんの少しだけ──しかし確かに──柔らかく、温かみを帯びて聞こえたかもしれなかった。
ルイとシアは、言葉を失ったまま、静かにうなずいた。琴葉の真実を知った今、彼女の全ての行動が、深い哀しみとともに理解できた。彼女は、自分が持たない"命"を守るため、死せる身でありながら戦い続けている。
極寒の荒野の夜は更けていく。結界の中は温かく、安全だ。しかし、二人の胸に去来する感情は複雑だった。畏敬と哀れみ、感謝と無力感が入り混じり、静かに心を揺さぶる。
琴葉は外の闇を見つめ続けていた。彼女の深紅の瞳には、今夜も、決して訪れることのない眠りと、決して癒えることのない孤独が映っている。それでも、彼女は背を向けない。守るべき"生"の鼓動が、彼女の背後にあるから。




