第四十五話 凍夜に語るは - 2
荒野の夜は、容赦なく命の熱を奪う。
五体目の星骸を倒した地点から、さらに北へ。次なる敵の気配を巧みに避けつつ、琴葉は二人をある場所へと導いた。
それは、倒壊した建造物の残骸の中、かろうじて二面の壁と天井の一部が残り、直撃する風を防げる空間だった。外を見れば、他は今にも崩れそうな骨組みか、吹きさらしの瓦礫の山しかない。文字通り、廃墟の片隅に過ぎなかった。
ただ──その惨めな外観とは裏腹に、琴葉が張り巡らせた結界の内側は、異次元のように穏やかだった。冷気は完全に遮断され、地面からは適度な温もりが伝わり、まるで澄幽の暖炉の前にいるような錯覚さえ覚える。結界の壁が微かに淡い紅色に輝き、外の闇と極寒を優雅に、しかし確実に拒絶している。
「……疲れた」
シアが、かすれた声で呟いた。彼女の白銀の髪も、巫女装束を模した服も、泥や血の痕一つなかった。ルイも同様だ。それは単に無傷で済んだからではない──
この場所に到着した直後、琴葉に一人ずつ呼ばれ、残骸の奥まった一角へ連れて行かれた。
招かれたそこには、湯気のように立ち上る、目に見えるほどの温かい水のカーテンが存在していた。細かい水滴が魔法の光を帯びて輝き、ほのかな暖かさを放っている。
『魔力の供給を止めれば消えるから、魔法で作り出す水は飲用には適さない。でも、汚れを落とすには十分よ』
琴葉の説明はいつも通り、淡々としていた。
『清潔さは士気にも関わるわ。衣類は貸して。洗って乾かしておく。その間に、浴びていなさい。身体を拭く布はこれを使いなさい。使い終わったら、同じく処理するから』
その言葉に従い、初めは躊躇いながらも水のカーテンを通り抜けた。すると、汗と塵と戦いの緊張が、文字通り洗い流されていくのを感じた。魔力を含んだ微細な水流が、繊維の奥まではたらきかけ、汚れを浮かせて消し去る。身体を拭く布も、魔法で乾かされ、清潔な状態に戻された。
「……なんというか」
「次元が、違うよぉ……」
結界内の柔らかな床代わりに敷かれた寝袋の上で、シアが声を漏らした。ルイの横で、彼女は完全に力尽きるように倒れ込んだ。その寝袋は見た目以上に厚みと弾力があり、地面の硬さや冷たさを一切感じさせなかった。
少し手を動かすと、空になった簡易食の容器に触れる。夕食は、澄幽から持ち出した保存食を、琴葉が魔法で発生させた微かな炎で丁寧に温めてくれたものだ。簡単な行動食ではなく、ほのかに温かく、意外に食べ応えのある一食だった。
当の本人は──結界の縁に腰を下ろし、外の闇を見つめている。汚れを知らない白いドレスの裾が結界の床に広がり、その輪郭が微かに輝く結界の光に溶け込んでいる。彼女は誰よりも完璧に戦い、二人の世話をし、結界を張り、今も見張りを続けている。その姿には、一片の疲労も乱れもない。
琴葉は一言も気を使っているような素振りは見せなかった。全てが、効率的に、そして当然のように行われている。しかし、その一つ一つのケアの細やかさと徹底ぶりは、澄幽の誰もがここまで面倒を見ることはない、琴葉ならではのものだった。それは、荒野で生き延びるために必要な"効率"と、部下を育てる指揮官としての"配慮"が絡み合った、彼女なりのスタイルなのだろう。
「夜更かしはしないで。明日に響くわ」
「琴葉……」
ルイが声をかける。彼女が微かに、何かを尋ねるように首を傾げる。
「何?」
「その……さっき、俺たちが飯を食べてる間、どこか行ってたよな? 周りに……何かいたか?」
ルイの問いに、琴葉の深紅の瞳が、一瞬、闇を切り裂く剣のように鋭く光った。それは警戒の色ではなく、ある種の評価に近いものが含まれていた。
「……気づいてたのね。観察力は悪くないわ。疲れ切った状態でも、周囲の動きに目を配れるのは大切な資質よ」
彼女はごく自然に、ためらいなく答えた。
「半径三百メートル以内に、今この瞬間の生命反応はなかった。ただ、この一帯はまだ澄幽に比較的近い場所だから、徘徊する星骸や異能者は、見つけ次第討伐するようにしている。少し足を伸ばして、邪魔になるものを二十体ほど狩ってきたわ。ついでに、近くをうろついていた異能者の気配も三つほど払った」
その淡々とした口調が、内容の凄まじさをより際立たせる。
──つまり、あの短い夕食の時間に、彼らの安眠と安全を確保するため、そして澄幽を守るため、周囲の脅威を掃除し、さらに不審な気配すら排除してきたのだ。それは守衛というより、まるで領土の整理をする王者のようだった。
(……これは、自分に任せておけって突き放す理由も、わかる気が……いや、分かっちゃダメだ)
圧倒的な力の差を、改めて突きつけられた気分だった。ルイは複雑な思いで首を振った。
「琴葉さん、寒くないですか? こっち、入ってください!」
ふと我に返ると、シアが突然起き上がり、琴葉の手を取って自分の寝袋の方へ引っ張っていた。彼女の目には、純粋な心配の色が浮かんでいる。
「ちょっと、何を……」
「って、めちゃくちゃ冷たくなってますよ!? 大丈夫ですか、体!?」
シアが握った琴葉の手は、外気にさらされた石のように冷たかった。結界の温もりの中にいるシアの手との温度差が、衝撃的ですらある。
「別に、何の問題もないわ。気にしないで、早く寝なさい」
琴葉は淡々とそう言い、手を引こうとするが、シアは離さない。
「じゃあ、マッサージだけでも! 葛城先生に、激しい運動の後は筋肉をほぐさないと翌日動けなくなるって口酸っぱく言われたので……! 琴葉さんも、今日はすごく動いてたはずです!」
シアが琴葉の右腕を優しく持ち上げ、その白く滑らかな肌に触れ、揉みほぐそうとした瞬間──
彼女の指先は、予想もしない感触に阻まれた。
硬い。
鍛え上げられた筋肉の弾力や、運動後の微かな温もりは、微塵も感じられない。
その下にあるのは、陶磁器のように均質で無機質な、不自然なまでの硬さだった。皮膚の感触は確かに滑らかではあるが、生身の体温や、皮下組織の柔らかな抵抗とは、どこか異なる。シアは思わず息を呑んだ。まるで、精巧に作られた人形の腕に触れているような、言い知れぬ違和感。
「……か、硬……い……?」
彼女の声は、本能的に湧き上がった驚きで、かすかに震えていた。
琴葉は一瞬、無表情でシアを見下ろす。そして、静かに言った。
「筋肉をほぐす必要があるのは、疲労し、損傷する生き物だけよ。"私には、必要ない"」
シアの横で、ルイが短く息を呑んだ。
「え……? それってどういう……」
シアの問いは、理解を超えた現実の前で、言葉にならない。
琴葉は微かに目を細め、シアの手から、そっと、しかし確実に腕を引き戻した。その動きは、さっきまでの冷たさや硬さとは別の、何か深くにしまわれたものを垣間見せたようだった。
「外は私が見張るから、眠りなさい。敵地で、警戒しながら眠る力を身につけるのも、実践訓練の一つよ」
琴葉の声は、結界の微かな光に包まれ、静謐の中に落ちる。
「待てよ、琴葉は寝ないのか?」
ルイが問う。ゴーグルを外したライムグリーンの瞳には、一日の疲れと、琴葉の手厚いケアから来た安心から徐々に滲み出る眠気が、薄い膜のように覆っている。だが、その奥底では、消えぬ疑問の灯がかすかに揺らいでいた。
今日の過酷な戦闘と移動を、一番先頭で切り開き、危険を排除し、彼らをこの安全な場所へ導いたのは琴葉だ。それなのに、彼女だけが休息を取らない。それは、あまりにも不公平に思えた。
琴葉は振り返らず、外の深い闇を見つめたまま、静かに言った。
「私は寝なくても平気よ」
「寝なくて平気って……お前だって消耗してるはずだろ」
ルイの声に、素直な心配と──先ほどのシアと琴葉のやり取りの中で感じた違和感が生んだ焦燥が混じる。
「してない」
「そんな、強がりは……!」
「本当にしていないから」
琴葉の返答は、淡々としすぎていて、嘘のように聞こえた。だが、そのためらいのない、呼吸の乱れ一つない口調が、かえって不気味な真実味を帯びる。
一瞬の沈黙が流れる。結界の外で、風が廃墟の骨組みを軋ませる、不気味で孤独な音だけが響く。
そして、琴葉がゆっくりと、ほんのわずかに顔をこちらに向ける。闇の中で、その整いすぎた美貌と、深紅の瞳だけが、結界の微光を反射して、非人間的な輝きを放っている。
「……私は、人間じゃない。だから、いいの」
その言葉は、氷の刃のように鋭く、しかしどこか哀しいほどに静かだった。




