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第四十四話 幻想を削ぎ、刃は二人を研ぐ - 3

 ルイが振り返る。彼の背中とシアを襲わんとした三本の触手が、根元から見事に切断され、空中で無力に蠢いている。琴葉は少し離れた位置に立っており、日本刀の切っ先から、一滴、黒い体液が雪上に落ちた。彼女がいつ抜刀し、いつ斬ったのか、全く見えなかった。


「外では、何連戦になるかわからない。一回の戦闘で傷を負えば、次の戦闘で死ぬ確率が跳ね上がる。『絶対に負傷しない』という気概で戦場に立って」


 琴葉の刀が再び微かに動く。今度は再生を始めた触手の芽を、萌芽の段階で次々と切り落としていく。その動作はあまりにも自然で、まるで庭の雑草を摘むような悠然さだ。


「触手は再生する。でも、再生中は動きが止まる。今のうちに、二人で考えなさい。どうやって、傷一つ負わず、最小の消耗で、あの『瞳』を狙うか」


 琴葉の声が、極寒の空気を切り裂く。

 ルイは拳を握りしめ、雪に落ちた銃を拾い上げる。冷たさが手袋を貫き、擦り傷の疼く掌に染みる。痛みが、かえって意識を研ぎ澄ます。


「喰らう前に殺せば、怪我をすることはないわ」

「……わかった」


 彼は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。荒々しかった心臓の鼓動を意図的に沈め、耳障りな風の唸りや自分の喘息を、意識の外へと追いやる。


 ──守りに入っていた。安全に倒そう。そう考えて、まずは動きを封じることを優先していた。だが、それではこの荒野では生き残れない。琴葉はそう言っている。


 星骸の蠢き。黒い装甲が擦れ合う軋み。再生する触手が肉と甲殻を組み上げる、生々しい微かな音。そして、そのすべての中心で、憎悪と飢餓を脈打つ、赤く濁った「瞳」の圧倒的な存在感。


(そこだ)


 視界ではなく、本能が捉えた。心の奥で、一筋の光が走る感覚。

 目を見開く。その瞬間、銃口は微動だにせず、星骸の瞳を完璧に、確固として捉えていた。ゴーグル越しのライムグリーンの瞳には、戦慄も迷いもない。ただ、果たすべき一点への、静かな集中だけがあった。


 迫り来る再生触手の鋭い先端が、彼の眼前、わずか数十センチまで肉薄する。風圧が頬を撫でる。引き金を引く指に、ゆっくりと、しかし確実に力を込める。


 どちらが早いか。

 生と死の、一瞬の勝負。


 引き金が、落ちた。


 轟音。青白い閃光。濃縮された異能の一撃が、空間を歪ませ、無音の断絶を経て虚空を貫く。

 それは再生する触手のわずかな隙間を縫い、狂ったように暴れる星骸の動きの、一瞬の虚を逃さず、

 赤く濁った瞳の中心を──暴虐の根源を、正確無比に撃ち抜いた。



 ──ギィィィシャァァァアアアアッ!!



 耳を劈く断末魔の叫び。星骸の体躯が激しく痙攣し、全ての触手が痛みと絶望に狂ったように暴れ回る。瓦礫が粉々に砕け、凍土がえぐられ、雪煙と塵埃が渦巻く。しかし、その動きは明らかに命の終焉へと向かっていた。中枢を破壊された生命の、制御を失った最後の足掻きだ。


「シア、頼む! あの動きを止めてくれ……!」

「うん!」


 シアが杖剣を高く掲げる。彼女のアメジスト色の瞳には、もはや迷いや躊躇の影はなかった。


 荒れ狂う触手の群れ。そのすべてを一度に止めるのは難しい。範囲が捉えきれない。


(すべてを……一気にではなくてもいい。一点から、広げていけばいい。

 まずは、一番暴れている、あの根本から。それが止まれば、他の動きも鈍るかも……!)


 彼女は、最も太く、瓦礫を叩き壊している一本の触手の根本に意識を集中させる。そこを起点に。氷が、そこからじわりと、確実に広がっていくイメージを、強く、強く描く。


「《──眠って》」


 深い祈りが、魔力を元に世界に滲み出る。シアの足元から、今度は穏やかだが確固たる白い光が、雪面を伝うように拡がった。光は、彼女が定めた一点──触手の根本へと集まり、触れるやいなや、純白の氷として結晶化を始める。

 氷は、蜘蛛の巣のように亀裂を伝い、触手の表面を覆い、内側へと浸透していく。一本が白く輝く彫刻と化すと、その静寂が隣へ、また隣へと伝播していくかのようだった。暴れていた触手の動きが、次々と鈍り、やがて完全に静止する。氷の侵蝕の速度も速い。そして、不可逆だった。最後の一本が凍り付いた時、荒野には深い静寂が訪れた。


 最後に、濁った赤い瞳の残光が、かすかに一瞬明滅し、そして完全に消えた。

 荒野の一角に、不気味でありながらも幻想的な美しさをたたえた、巨大な氷の彫刻が誕生した。かつて暴虐の塊であったものが、今はただ、静かに光を反射する芸術品と化している。



 深い、深い静寂が、その場を支配した。

 舞い上がっていた雪の塵が、ゆっくりと、そして非常に静かに、新たな層として降り積もっていく。轟音と怒号が支配していた空間が、嘘のように穏やかな時間に塗り替えられた。

 ルイはゆっくりと銃を下ろし、シアは杖剣の先を雪面についた。二人の吐息だけが白くゆらめき、極寒の中に生きた証を刻む。



「……やった、の……?」


 シアが、震える声で呟いた。それは勝利の喜びというより、現実感のなさに揺れる確認の声だった。彼女は自分の手のひらを見つめる。白く、小さな、いつも誰かの背中を追いかけてきた手。その指先には、まだ微かに魔力の余韻が、冷たい感触として残っている。


 その手で、今──確かに、敵を止めた。


「……ああ」


 ルイが、深く息を吸い、吐き出しながら頷いた。肩で息をしているが、それは運動による疲労だけだ。体には一撃も浴びていない。

 初めて無傷で、互いを守りながら戦いを終えた。その事実が、彼の胸に小さな、しかし確かな熱を灯した。


「まあまあね」


 琴葉の声が、前方──シアが凍らせた星骸の氷柱の頂上付近から響いた。二人が驚いて見上げると、彼女はそこに立ち、ジャケットの裾を風に靡かせていた。いつ移動したのか、一切気づかなかった。

 琴葉は刀の柄でそっと氷を叩き、微かなひびを入れる。そして細い指でその割れ目に触れると、凍結した死骸の内部から、濃い紫色に不気味に光る結晶──星骸核を、摘み出すように取り出した。それはルイの銃の弾薬となる、貴重な戦利品だ。



「三分休憩」


 琴葉は淡々と、しかし絶対的な口調で言い渡した。


「水を飲み、乱れた呼吸を整えなさい。三分過ぎたら、私は歩き出す。ついて来られるかどうかは、貴方たち次第よ」


 その言葉に、ルイとシアは顔を見合わせた。

 疲労は筋肉の奥に染み込んでいる。緊張の余韻で指先が微かに震えている。生死をかけた興奮が、まだ血管を駆け巡っている。それでも──不思議と、心の底から湧き上がる絶望はなかった。


 さっきまで登れなかった岩壁を登り、荒野の化物を、二人で、無傷で倒した。

 前よりも、ほんの少し、ましに戦える。

 それは小さな、取るに足らない一歩かもしれない。だが、確かに彼らは、その一歩を『外』の苛烈な大地に刻んだのだ。


 琴葉が水筒をルイとシアに向けてそれぞれ放る。ルイとシアはそれを上手く受け取り、蓋を捻った。



 だが、彼らが決して忘れてはならないことがある。


 琴葉が氷柱の上から見下ろす荒野の彼方には、雪煙の陰に、無数の気配が蠢いている。

 この深い静寂も、この小さな共闘の勝利も、全ては苛烈な生存競争の、ほんの序章に過ぎない。


 まだ、これは始まりにすぎない。


 極寒の風が、三人の間に、容赦なく次の戦いの予感を運んでいく。琴葉は時計などは見ず、ただ、荒野そのものが刻む時間を計っているようだった。

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