村娘と天狗隠し
むかし、むかしの話である。
「ごめんよ、絹子。飢饉と天災には勝てんの」
絹子は叔母に手を引かれながら、村の山に登っていた。姥捨山と言われ、誰も寄りつかない場所だった。実際、この山には誰もいない。鬱蒼とした木々に囲まれ、不気味な鳥の鳴き声が響く。
「ごめん、ごめんよ。もしかしたら、誰か良い人に拾われるかもしれん」
叔母はそう言い、山の入り口から去っていく。一人残された絹子は、どうしようかなと悩む。
もう村へは帰れない。飢饉や天災が相次ぎ、壊滅状態だった。絹子の両親も流行病に侵され、去年亡くなった。親戚の叔母の家に引き取られたが、絹子自身も病気や怪我が相次ぎ、足手纏いになっていた。年齢も十一歳の村娘だ。大した即戦力にもならない。結果、こうして山に捨てられた。
このまま山の入り口にいるわけにもいかない。空もだんだんと暗くなってきた。村に帰るとおう選択肢もない。帰っても追い返される。殺される可能性もある。隣の家も、三つかそこらの子供の首が絞められたという噂も聞いた。いずれにしても、壊滅状態の村に戻ったところで、良い未来はないだろう。
裸足のせいで、足の裏が痛い。木綿のぼろぼろの着物を着てるから、風が余計に冷たい。
仕方がない。もしかしたら、山に入ったら良い人に拾われる可能性がある。もっとも、その可能性は限りなく低いが。
ゆっくりと足を進める。足も肩も痛いが、もう死ぬしかないのか。空腹で腹も痛くなり、何も考えられない。とにかく歩くしかない。
「もう、終わりだ」
そう呟いた瞬間、意識にモヤがかかり、目の前が白くなった。
しばらく意識を失っていたのだろうか。
再び目を開けると、どこかの神社の本殿の前にいた。
変な神社だった。
賽銭箱は置いてあったが、しめ縄や狐の像などはなく、真っ赤な鳥居だけが目につく。
血のような色の鳥居で、本当にそれを塗っているかのように見えてしまった。
ここは幻か。その証拠のように、空は澄んで水色だった。この神社も木々に囲まれているようだが、あの姥捨山のような暗い雰囲気はなかった。鳥の鳴き声も、生命力が溢れているように聞こえた。
「ここはどこ?」
思わずあの鳥居に近寄る。その側には、山伏姿の男がいた。
まだ若い男だ。背が高いのに、高下駄を履いているせいで、さらに絹子と身長差ができていた。
山伏姿だったが、微妙に違う。頭に小さな黒い箱もつけていたが、山伏はこんなものをつけていたか記憶がない。
それにこの男の顔。鼻が高い。肌の色や目の色は全く日本人と変わりないが。
それに男の背は、何か白い翼のついた生き物がいた。透明な生き物で、もしかしたら幽霊など目に見えない存在かもしれないが。
怖い。
未知の生き物のような男に、絹子の身体はカタカタと震えていた。
もしかして、この男は天狗だろうか。鬼の気もしたが、頭にツノは生えていない。
そういえば悪い子供は天狗に攫われると親に言われたこともあった。実際、近所で天狗に攫われたという子供がいて、数ヶ月戻ってこなかった。そして帰ってきた子供は、幽霊や目の見えない存在を可視化でき、祈りの言葉で追い出したりしていた。
自分もこの男、天狗に攫われた?
そんな気がしてきた。
「この鳥居は不思議か? ここの鳥居はな、過越の祭りを模ってる。昔、俺のご先祖さまは、玄関の鴨居に生贄の血を塗り、助かったんだ。この神社もご先祖さまの教え通りに作ったんだ」
なぜか男はそんな事を語っていた。穏やかに血の色の鳥居を見つめていて、悪い人物には見えなくなってきた。絹子の体の震えも、なぜか落ち着いていた。
「私、捨てられたんです……」
「そうか。神は弱きものを助ける」
男がそう言うと、彼の背後にいる白い羽根の生き物が、喜び、舞っていた。
「俺も神の教えを守ろう」
「え、あ」
気づいたら、絹子は男の肩に担ぎあげられていた。もう足の痛みも感じず、それが一番嬉しかった。男の肩から、白い羽根の生き物を見る。
『わたしは天使。わたしもあなたを助けるわ』
白い羽根の生き物は天使というらしい。どうも男はこの天使には気づいていないようで、絹子にしか可視化できないようだが、とにかく助かった事に安堵していた。
こうして男に連れられ、神社の本殿に向かう。そこには、正月に飾る鏡餅とそっくりなものが飾らせていた。
「これ何?」
「種無しのマッツァーというものだ」
男の言う事は全くわからないが、この餅を食べながら、ご先祖さまの話を聞いた。男は餅を食べやすいように切り分けてくれ、もちっと柔らかな美味しい味に気が緩み、ついつい耳を傾けてしまった。
遠い昔、神の民がいた。神の民は、奴隷状態になっていたが、例の玄関の鴨居に生贄の血を塗り、助かった。このマッツァーもそれを記念して食べるものだという。
しかし神の民は幾度となく、神に反抗し、全世界に散っていく。日本にもその神の民が来ていた。それが、この男のご先祖さま。この日本の地でも神を礼拝す幕屋・神社を作り、ひっそりとその風習を守ってきたという。男のこの姿も、神の民の修行中のものらしい。頭の黒い箱の中には、神の言葉が記されたものが入っているという。他にもトーラーという巻物もありというが、発音が「虎の巻」に似てる?
神社や鏡餅も、神の民が持ち込んだものが、日本社会に根付いていたという事なのだろうか。まだまだ信じられない話だが、男は神の民の言葉と日本語の共通点なども語り、絹子は背筋が凍りそうになった。
「天狗さん、その話をもっと教えてください」
「うーん、俺は天狗じゃ無いんだけどな」
二人で餅、「マッツァー」を食べる。味も食感も餅と全く同じだったが、ようやく食べ物にありつけた喜びに心はすっかり緩んでいた。
こうして絹子は、天狗とこの神社の本殿で暮らすようになった。
もう村には帰らない。帰れない。
村の人達は、「絹子は天狗隠しにあった」と噂していた者もいたが、本当の事は誰も知らなかった。