それは、犬ではないナニかでした
クリスは詳細も聞かず、気がつくと部屋から飛び出していた。
これまでに感じたことがないほどの胸騒ぎがする。それが、さっきの夢のせいなのか、それとも気にしすぎなのか、分からない。
クリスは迫ってくる嫌な予感から逃げるように、ひたすら走った。一直線にルドの部屋へ行き、ドアを勢いよく開ける。
その音に室内にいた人たちが一斉に振り返った。ただ一人、こちらに背を向けて立っている赤髪の青年を除いて。
「月姫?」
息を切らして立っているクリスに、オグウェノが声をかける。
「ちょうど良かった。赤狼を止めてくれ。安静が必要だと言っているのに、無視して動こうとするんだ」
クリスが顔を動かすと、襟足から長く伸びた髪を遊ばせた青年が立っている。こちらに顔を向ける様子はなく、袖のボタンを留めることに集中している。
ルドは昨日少し食事が取れただけで、治療ができるほどの魔力が戻るには、まだ時間がかかる。それに、怪我の痛みで動けないはずだ。
クリスが声をかけようとしたところで、青年が振り返った。
「大丈夫ですよ」
その動きはスムーズで怪我など感じさせない。クリスと視線が合ったところで、ニコリと微笑んだ。
「おはようございます」
その瞬間、クリスの中で何かが凍った。音が消え、世界が闇に落ちる。背中に得体の知れない寒気が走り、グラリと世界が揺れた。体が倒れかける。踏ん張るために足を動かそうとしたが、鉛のように重い。
クリスの意識が遠退きかけた時、すぐ後ろで控えていたラミラが呟いた。
「なにか……犬の雰囲気が変わりました?」
その言葉にクリスの意識が引き戻される。倒れかけたと感じた体は、実際には動いていなかった。
冷や汗が流れているクリスに、オグウェノが気づく。
「月姫? どうした?」
クリスは無言でオグウェノに視線を向けると、すぐに踵を返して部屋から出た。何かを感じ取ったオグウェノが、ルドの隣にいる治療医師に声をかける。
「赤狼は任せる。何かあったらすぐに教えてくれ」
「はい」
治療医師が慇懃に頭を下げる。
オグウェノがクリスを追いかけて部屋から出ていく。その様子を琥珀の瞳は静かに眺めていた。
廊下に出たオグウェノが早足でクリスの隣に来る。
「月姫、どうした?」
問いには答えず、クリスはひたすら足を動かして廊下を進んだ。少し俯きかけた顔は、今にも倒れそうなほど真っ青になっている。
しばらくして、クリスは絞り出すように声を出した。
「……あれは、誰だ?」
「赤狼の隣にいたヤツのことか? あれは王城専属の治療医師……」
「違う!」
クリスが青くなった唇を震わせ、歩調を早める。
「あれは……犬の姿をした、アレは……誰だ?」
「え?」
クリスが足を止め、オグウェノに掴みかかる。
「違うだろ! あれは……アレは誰だ!?」
クリスの顔が恐怖で引きつっている。普通ではないクリスの様子に、オグウェノは落ち着かせるように両肩に手を置いた。
「とりあえず、待ってくれ。月姫、もしかして記憶が戻ったのか?」
そこでクリスは自分の現状を思い出し、オグウェノから離れた。
「あぁ」
「そうか……まずは情報を整理しよう。こっちに来てくれ」
オグウェノが案内したのは、庭に突き出したテラスだった。
木の皮を編んで作った椅子とソファーがある。屋根は木と葉を組み合わせて作り、強い日差しを防いでいた。目前には茂った草花があり、乾いた風が甘い花の匂いを運んでくる。
しかし、クリスにそれを楽しむ余裕はなく、倒れ込むように近くにあったソファーに沈んだ。
「大丈夫か?」
「……あぁ」
クリスが微かに目を開けると、心配そうに覗き込んでいる深緑の瞳があった。いつも自信にあふれ、甘いマスクと筋肉質な体型は、幾人もの女性を虜にしてきたのだろう。
だが、今はその気配もなく、体を小さくして、こちらを伺っている。
その差にクリスは何故か心が和んだ。力を抜いて軽く笑う。
「そんなに心配するな。少し取り乱しただけだ」
「……なら、いいが」
そう言いながらもオグウェノの表情は変わらない。クリスは安心させるために体を起こそうとしたが、オグウェノに止められた。
「そのままでいい。無理をするな」
ルドより大きな手が肩に添えられる。武骨で剣ダコもあり、王子だが、幼い頃より剣の鍛錬をしてきたのが分かる。
クリスは諦めたように力を抜いて、ソファーに体を倒した。
「情けないな」
「この方が人間らしいぞ」
オグウェノの言葉にクリスが自嘲気味に笑う。
「人間……か」
「どうした?」
「いや」
クリスは小さく首を横に振ると、これ以上は触れるな、というように話題を変えた。
「私のことはいい。それより犬だ」
「いや、いや、待て。月姫のことも大事だ。記憶は戻ったのか? どこまで覚えている?」
その言葉にクリスの顔がポンッと赤くなる。オグウェノが肩を落としてニヤリと笑った。
「どうやら、全部思い出したようだな」
「ち、ち、ち、ちぃ、ち、違うぞ! お、思い出していないぞ! 記憶がなかった時のことなど!」
「いや、その態度で思い出していないというのは、さすがに無理があるぞ」
クリスが悔しそうに唸る。オグウェノが微笑ましいものを見るような視線になる。そのことにクリスが怒りながら、上半身を起こした。
「そんな生温かい、同情するような目で見るな! 記憶がなかった時のことは覚えていない! いいな!」
クリスが喚き半分で抗議する。このままだと話が進まないと判断したオグウェノは、呆れ半分の顔で頷いた。
「わかった、わかった。月姫は記憶をなくしていた間のことは、覚えていない。そういうことにする」
「そういうことではなく、そうなんだ!」
「あぁ、わかったから。で、赤狼については? なにが起きている?」
クリスの顔が再び青くなる。
琥珀の瞳。光のない、あの目がこちらを見た時、クリスは見えない何かに全身を刺された。感覚だけかもしれないが、それでも死を意識するには十分だった。
ルドはあんな目はしない。むしろ、あの目は夢で見た……
その時のことを思い出したクリスは、無意識に自分の体を両手で抱きしめながら呟いた。
「違うんだ……あれは、犬ではない。犬の姿をした、ナニか、だ」
オグウェノが困ったように黒髪を掻きながら立ち上がる。
「うーん。つまり赤狼の姿をした別人、ということか?」
「あぁ」
「うーん。声も魔力も赤狼と同じだったが……」
「それは……わかっている」
クリスもそれは感じていた。それでも、何かが違うと本能が叫ぶ。
「それに、あそこにいるのが別人なら、本物の赤狼はどこにいるんだ? 自分では動けない状態だから、連れだしたヤツがいるはずだ」
「……この突拍子のない話を信じるのか?」
自分から言い出しておいてアレだが、冷静になってくると、かなり変なことを言っているのが分かる。それでもオグウェノは真摯に話を聞いて答えている。
ソファーに座ったまま見上げてくるクリスの頭を、オグウェノが撫でた。
「惚れた弱みだ」
「惚れ?」
オグウェノがニッコリと笑う。
「あとは、オレも違和感というか、引っ掛かりのようなものを感じた。こういう勘は信じていい。とりあえず、情報収集だな。月姫は朝飯を食って来い。その間に情報を集めておく」
「……すまない」
クリスが申し訳なさそうに俯く。
オグウェノはクリスの顎に手を添えて上を向かした。
「そこは笑顔で、ありがとう、だろ?」
オグウェノが男前の笑顔でキメる。クリスはつられるように笑った。
「そうだな。ありがとう」
こうして二人は、それぞれの目的のため、その場を後にした。




