09.伯爵令嬢は追手に見つかる。
男が何者でも構わなかった。なりふり構う余裕は無かった。
捕まるわけには行かないのだ。
「選びな。俺と来るか、一人で行くか」
男の問いかけに、リューティアは、迷わずその手を取った。
が、刹那、男はリューティアを片手で抱き上げ、猛烈なスピードで駆けだしたのだ。
上下に振られてリューティアは必死に男にしがみ付き、あっという間に街を抜けた。
***
「あなたカイなの? ユハおじさまのところの?」
「思い出したかよ。リティ」
思い出したと言うよりも、別人にしか見えない。
リューティアはぽかんと男──カイを見下ろした。
ニ、と目を細めて笑うカイの顔は、言われてみれば確かに面影がないこともなかった。
「カイ、あなた何で──」
リューティアが問いかけようとした時だった。
背後から聞こえたのは、複数の馬の嘶き。リューティアははっとなって顔を上げた。
──見つかった!
リューティアの顔がさっと青ざめた。
土煙が上がる。正確には判らないが、五、六頭は居るだろうか。
間違いなく、リューティアに掛かった追手だった。あっという間に馬が門を通過し、ぐんぐんとその距離を縮めていた。
幾ら早いと言っても、馬の脚と人間の足では速度が違う。
追いつかれるのは、もう時間の問題だった。
もう少し、私が早く走れたら。
もう少し、私に体力があったなら。
やっと逃げ出せたと思ったのに、馬の蹄の音はもうすぐ背後に迫っていた。
「小娘ェッ! この俺様から逃げられると思うなよ! その男血祭りにしてくれる!」
馬上から吼えるアーグウストの声に、リューティアは「ひっ」と小さく悲鳴を上げて、ビクっと体を竦ませた。
リューティアの身体を支えるカイの腕が、大丈夫だと言う様に、ぎゅっと身体を抱き寄せる。
ああ──。
リューティアもカイの首をきつく抱いた。
幾ら勇猛果敢で知られる"鋼の緋熊"でも、武器を持ったあの人数を相手にするのは無謀すぎる。
それに、とリューティアはカイへと視線を落とした。その腰に、武器は無い。丸腰だった。
このままでは、カイが殺されてしまうだろう。
自分を助けたばかりに。そんな事は、許されない。
「ごめんなさい! もういいわ、もう良いの! 下ろして! カイまで殺されちゃう!」
「いーから黙ってろ。しっかり掴っとけよ?」
必死に訴えるが、カイからは焦るような気配が無い。こんな状況だと言うのに、まるで楽しむかの様な笑いを漏らす。
不意にカイが地面を削る様にして足を止めた。砂煙が舞う。
反動で身体がグンっと前に飛び出しそうになる。
「ッきゃぁ!」
リューティアは慌ててカイの首にしがみ付いた。カイの腕がガッシリとリューティアの背に回され、吹き飛ぶのを防いでくれる。
力強い腕にドキリとして、リューティアはカイの顔を見上げた。
カイは、笑っていた。視線は自分を追って来る連中へと向けられて、ニィィっと笑う顔は、獲物を狩る際の獣の様だ。
野生めいた銀の眼は生き生きと輝き、口元からは牙の様な糸切歯を覗かせて、力強い笑みだった。
一瞬その顔に見惚れてしまう。
──何でこの人こんなに嬉しそうなの──っ!?
馬上から身を乗り出す様にして、アーグウストの手がリューティアへと伸びる。
血走った眼だった。どういたぶってやろうかという様な、ぞっとする目だった。恐怖に息を飲む。
捕まる、と思った刹那、グンっと体に重力が掛かり、景色が回った。思わずリューティアは「きゃぁ」、と悲鳴を上げる。
「っらァッッ!」
「ごはぁッ!?」
カイの咆哮一発、ヒュっと鋭い風切音と共にドボォっと重い音が響き、え?と思った時には、アーグウストの身体は馬上から吹き飛ばされて宙を舞っていた。
馬がドドォっと土煙を上げて横倒しに倒れ、足をばたつかせてヒヒーンと悲鳴を上げている。
──え?
一瞬の光景に追手が息を飲んで狼狽える。今見た事が信じられないと言った表情だ。
怯えた馬が一斉に嘶き、激しく蹄を鳴らした。呆気に取られていると、また体がぐんっと振り回されて、リューティアは悲鳴を上げ、カイにしがみ付く。
「ッきゃぁっ!?」
「なッ!?」
まるで巨大な丸太を叩きつけられたかのように、馬が吹き飛び馬上の追手ごと横倒しになる。カイの太い太腿が持ち上がっているのを見ると、蹴り飛ばした様だ。
呆気に取られていると、ビュっと風を切る音と共に、頭上に剣が迫っていた。カイはそちらを見ていない。
──危ない!
カイ、と呼ぼうとしたが、カイの腕が背に回され、ギュンっと体が回転する。吹き飛ばされない様にしがみ付くのに必死だ。背からフっと手の感触が消える。
「──ッ!」
「ぐぁッ!?」
なぜか吹き飛んだのは剣を振り下ろしていた方だった。剣が砕け、吹き飛ばされた男も宙を舞う。
リューティアの顔の前には、太い腕。
吹き飛んできた男に巻き込まれ、更に一人地面へと落ちる。
残った一人は既に戦意喪失で、馬ごと距離を取り、カイがそちらに視線を向けると、ヒィっと悲鳴を上げて街の方へと逃げ出していく。
一瞬の事だった。
あっという間に、残された追手は皆地面に転がり、アーグウストに至ってはかなり離れた場所で呻いている。
あっちこっち、振り回され、ぐらんぐらんしている間に終わってしまった。
何が起こっていたのか把握すらできず、リューティアは言葉が出ない。
「"鋼の緋熊"を相手にする時は軍隊でも引っ張って来んだな。相手になってやんぜ」
どやぁ。
カイが中指を立て、にやぁっと笑うのをリューティアは呆気に取られて眺めていた。
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