07.伯爵令嬢は大男に出会う。
何とか六年の歳月を凌いで来たが、流石に奴隷として売り払われたら、もうアーグウストから伯爵家を取り戻すことも、追い出された使用人を呼び戻すことも出来なくなる。
何しろ、リューティアの両親も祖父母も既に亡く、リューティアは天涯孤独の身なのだ。
伯爵家をアーグウストに奪われてしまった今、リューティアが伯爵家を取り戻す事は奇跡でも起きない限り不可能だった。
その日の内にリューティアは、屋根裏部屋から逃走した。
***
──よっっわっ!
リューティアは思わず想像以上の自分の体力の無さに心の中で突っ込んだ。
あああ、なんて脆弱なの!?
まだ屋敷から抜け出してもいないというのに!
えーい、この根性無し!
こんなことでどうする!
もたもたしてたらあっという間に朝になって見つかっちゃうじゃないの!
頑張れ私! ここで頑張らずにいつ頑張るんだ!
リューティアは木に手を付いて、ぜーぜーと荒い息を吐いた。
死ぬ気で逃げなくては連れ戻されて、もう二度と脱出は出来なくなってしまう。
これが最後のチャンスなのだ。
こんなところで立ち止まっているわけには行かない。
表から出ては誰かに見つかる可能性が高い。
リューティアは、六年間隠れ家として使っていた小屋の裏からの脱走を図った。
が、元々ルフタサリ家は歴史のある旧家だ。敷地が馬鹿みたいに広かった。
加えて六年間、リューティアはろくなものを食べていない。
ほぼ毎日していた事と言えば、屋根裏部屋からの脱走と精々小屋の掃除と洗濯程度。
脱走のお陰で多少筋力が付いたと思っていたのが大間違い。
リューティアの体力は果てしなくポンコツだった。
走れど走れど、屋敷を囲う柵は見えて来ず、足はもつれてフラフラだ。かなり走ったつもりだったのに、振り返ると屋敷からまだ然程離れていない。
リューティアはぱんぱんっと両手で頬を叩いて気合いを入れ直すと、ふらつきながらも駆け出した。
***
「見つけた…っ!」
ヘロヘロフラフラになりながら、リューティアは何とか柵へとたどり着いた。
高々屋敷から出るだけでもこの過酷さ。
ここはまだ、スタートラインにすら辿り着けてはいないのだ。
「柵…これ、越えないと…」
荒く息を吐きながら、リューティアは柵を見上げて絶句した。
…あれ?
うちの屋敷ってこんなに柵高かったんだ…?
家の柵の高さなど、一々気にした事など無かったが、流石は伯爵家。
泥棒避けなのか、とてもじゃないがリューティアの体力で越えられる高さじゃない。
試しに柵を掴み、よじ登ろうと試みたが、地面から十センチ程で落ちてしまう。
柵の間は狭く、とてもすり抜ける事は出来そうもない。
木に登ってそこから飛び降りて越えれば。
その高さから落ちれば、動けなくなるのは恐らく必須。
え? 嘘でしょう? チェックメイト?
リューティアは酸欠も相まって、くらぁりと目の前が暗くなる。
今から表に回る?
私の足じゃ、辿り着く頃にはもう朝になってしまっていそう。
諦めて戻る?
戻れば、多分残り二日は全身磨かれて逃げ出す時間はきっとないわ。
見張りもきっと付いてしまうだろう。
嫌よ。諦めない。諦めるもんか。
リューティアは、自分の前にどどんとそびえ立つ柵を睨む様に見上げた。
逃げる手段は、ここを越えるしか、思いつかない。
リューティアは、ぐっと柵を握りこんだ。
***
「ぅ~~~~っ」
そろそろ夜明けも近そうだ。辺りに白く霧が立ち込め始めている。夜明け前の合図だ。
タイムリミットまであとわずか。汗で握った手が滑る。ズキズキと手が痛むのは、多分マメが潰れたのだろう。
靴を脱ぎ捨て裸足になって、必死に柵にへばりつき、じたばたとよじ登ること、恐らく数時間。
これでも良く頑張った方だと思う。
へとへとになりながらも、リューティアの身体は何とか一メートルほどの高さまで持ち上がっていた。
柵の高さの三分の一。
焦ってもちっとも進まず、腕はもう限界だった。
ああ、不甲斐ない。散々『妖精さん』に助けて貰ったというのに。
今日しかもう時間は無いというのに。
自分が情けなさ過ぎて、涙が滲んでくる。
気持ちだけがあっても、体力という壁は思った以上に大きかった。
もう泣くもんかと思ったのに。
腕に、力が入らない。
もう…駄目ぇ──
リューティアの手が、ずるっと滑った。ふわりとする浮遊感と、続くだろう落下の痛みに備え、ぎゅっと目を瞑る。
──が、やってきたのは落下の衝撃ではなく、不意に何かに襟首を掴まれ、ガツンと何かに顎が当たる感触と、首が絞る感覚だった。
「ぐぇ!?」
令嬢らしからぬ声が漏れてしまった。
何が起こったのかと思わず手足をばたつかせる。
ゆっくりと体が降りて行き、足が地面に付いた。
リューティアは恐々と目を開けた。
──…くま?
朝日が、昇り、逆光に照らし出された大きな影が、自分の襟首を掴んでいた。
リューティアが小さく咳込むと、襟首を掴んでいた手が離される。
「ぁ、わり。大丈夫かよ? ──てか、お前、リティだろ? 大きくなったなぁ。何やってんの? こんなとこで柵よじ登って」
聞こえて来たのは、少し掠れたバリトンボイス。
リューティアに視線を合わせる様に背を屈め、覗きこんできたのは、リューティアの腰程もある太い腕をした、野生の獣の様な目をした男、だった。
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