06.伯爵令嬢は逃走する。
アーグウスト達が屋敷を乗っ取ったあの日。
母の形見であり、代々受け継がれて来た黒曜石のペンダントは、何故かリューティアが屋根裏から脱走し、隠れ家にした小屋のテーブルへ、まるでリューティアへ返す様に置かれていた。
屋敷の使用人の様子を伺ってはみたけれど、使用人達の態度は相変わらずだ。
誰だか判らないけれど、誰かが、リューティアに手を差し伸べてくれている事だけは判った。
アーグウストにバレれば、ただでは済まないだろう。
言い出したくても言えないのかもしれない。
会って直接お礼を言いたい気持ちはあるが、相手にとってはきっと困る事に違いない。
それでも、誰かが自分を思ってくれている。案じてくれている。それだけで、頑張れる。
リューティアはそっとペンダントに口づけた。
***
それから、時々、リューティアが小屋へ行くと、パンが数切れ布に包まれ置かれていたり、恐らく古着だろうが平民の服が置かれていたり、ブランケットが新調されていたりと、謎の贈り物は続いた。
リューティアはその贈り物の主──誰だか判らないので妖精さんと呼ぶことにした──に、手紙を書いた。
幸い小屋には庭師が残した紙もペンもある。
ありがとうの言葉と共に、野の花などを摘んで帰り際に置いておくと、翌日には消えていた。
ちゃんと『妖精さん』に届いているのだろう。
そう思うだけで胸の中に灯が灯ったように暖かくなった。
あれから六年。
見よう見まねで洗濯をし、昔庭師が教えてくれた食べられる草や実を生のまま齧り、飢えを凌ぎ、屋根裏部屋よりも柔らかい小屋のベッドで体を休め、『妖精さん』の存在に支えられ、リューティアは何とか、この六年をしのいで来た。
が。
──これはもう駄目だわ。
アーグウストは業を煮やし、奴隷商を招き、三日後にはリューティアを売り渡すという。
奴隷として売られてからでは、もう屋敷に戻る事も、取り戻すことも、不可能だ。
リューティアは、ついに屋敷からの撤退を余儀なくされていた。
***
屋根裏部屋へと帰されたリューティアは、物音が聞こえなくなるまでじっと時を待った。
屋根裏部屋に明りは無い。
窓からそっと外を覗けば、屋敷の明りが庭に落ちているのが見える。
その明りが、一つ、二つと消えて行き、深夜にはすべての明りが消えた。
朝まで待てば、多分残り二日。アーグウストは少しでもリューティアを高く売る為に、必死に磨き上げようとするだろう。
そうなってからではもう逃げられない。
逃げ出せるのは、今夜だけ。
すべての明りが消えてから、リューティアは足音を忍ばせて扉に耳をくっ付けた。
足音は、聞こえない。
そろりと窓辺まで戻ったリューティアは、一度胸元に隠したペンダントに触れた。
深夜に脱走をするのは初めてだ。
暗がりでは勝手も違うだろう。
覚悟を決めると、リューティアは窓枠に手を掛けた。
***
「し…死ぬかと思った…」
何とか窓から抜け出し、屋根を渡り、樹を伝い、やっと地面に足を付けると、リューティアはへたりと座り込んだ。
膝が大笑いしている。
真っ暗闇の中、手探り足探りでの脱走は、想像以上に怖い。
何度か足を滑らせて、その度に悲鳴が喉元まで出かかったが、今ここでばれたらと必死にそれを飲みこんだ。
普通の令嬢であればありえない様な大冒険だ。
自分の生まれ育った屋敷の中だけれど。
もたもたしていれば、誰かに見つかってしまうかもしれない。
少しでも早く。少しでも遠くへ。逃げ出さなくては。
金の亡者のアーグウストだ。きっと朝になり、私の姿が見えなければ、血眼になって探すはず。
それを思うとぞっとした。リューティアは震える足を拳で数回叩くと、ぐっと足を踏ん張って駆け出した。
***
屋敷を抜け出す前に、やっておくことが一つある。
ずっと自分を支えてくれた『妖精さん』にだけは、自分が逃げ出すことを伝えておきたかった。
深夜の小屋は、昼間とは別の場所の様に薄気味悪かったが、リューティアは思い切って小屋の扉を開けた。
手探りで棚を探し、蝋燭に灯を灯す。誰かに見つかってはと思いはしたが、明りが無くては手紙も書けない。
リューティアは紙とペンを手に取ると、床に蝋燭を置き、床の上で手紙を書いた。
『庭師の小屋の妖精さんへ。
ご存じかもしれませんが、三日後、奴隷商に売られる事になりました。
私はこの屋敷を出て行きます。
今まで有難うございました。あなたの事は忘れません。
リューティア=ルフタサリ』
それだけ書くとリューティアは手紙をテーブルに置こうとして、はっとなった。
テーブルの上には、荷物が置かれていたのだ。
斜め掛けの鞄には、パンに水袋。着替えまで入っていた。
鞄の上には、フード付きのマントまで綺麗に畳まれて置かれている。
『妖精さん』は、どこまで感づいていたのだろう。
その優しさに、思わず涙が零れそうになる。
「ありがとう…。さようなら」
リューティアは鞄を斜めに掛けると、灯りを消して静かに小屋を抜け出した。
空には細い月が浮かんでいる。
振り返れば、屋敷が暗がりに浮かんでいた。
さようなら、お父様。
さようなら、お母様。
さようなら、ルフタサリのお家。
潤んだ目元を乱暴に拭い、リューティアは屋敷の外を目指し、振り返らずに駆け出していった。
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