03. 伯爵令嬢は虐げられる。
それは、六年前の事。両親が事故で亡くなってから一週間後の事だった。
突然やってきた父の弟を名乗るその男は、あっという間にたった一枚の紙でリューティアから何もかも奪っていった。
何が何だかわからない。一体何が起こったのか。
リューティアは現状から逃げ出す様に母の部屋へと閉じこもったが、彼の妻と娘に押しかけられ、形見のドレスを引き裂かれ、初めて向けられる悪意にわけがわからなくなっていた。
彼の娘、シャーウラは今も母のクローゼットを引っかきまわし、手当たり次第に物色をしている。
なぜこの子はこんな酷い事をするのだろう。なぜこんな目にあうのだろう。この家はどうなってしまうのだろう。
リューティアはドレスの残骸を胸に抱いて震えて泣くことしか出来ないでいた。
***
「リティお嬢様っ!」
静止の手を振り切って、転がる様に侍女のマーリが駆け寄ってきた。
リューティアは泣きながらマーリに縋りつく。マーリはしっかりとリューティアを抱きしめ、キっとシャーウラを睨み付けた。
「…何よ?」
「こちらは亡き奥様のお部屋です! 何の権利があってこんなことを…!」
「そうだ! リティお嬢様になんてことを!」「この悪魔!」「出て行け!」
マーリの怒声を皮切りに、屋敷に仕えてくれていた使用人達が口々に叫びだす。
シャーウラは面倒そうに耳を指でほじる真似をした。
「うるさい! 何の騒ぎだ!」
不意に響いた声に、使用人達が一斉に口を閉ざす。アーグウストだった。
アーグウストは次々に使用人を殴りつけ、部屋の中に入ってくると、睨み付けたマーリを蹴り飛ばした。
「きゃぁっ!」
「マーリ!」
アーグウストはマーリの髪を鷲掴みにし、無理やり扉の方へと引きずっていく。
「ああっ!」
「やめてっ! 乱暴しないで! マーリ!」
リューティアは必死にアーグウストに縋ったが、まだ十歳の少女の力ではどうすることも出来ない。
マーリは扉の外へと投げ出され、使用人達に抱き止められた。
「さぁ! とっとと出て行け!」
アーグウストは使用人達を追い払う様に手にしていたステッキを振り回し、使用人達は成すすべなく追い立てられて行ってしまった。
取り残されたリューティアは、ただ見守る事しか出来ない。
「──あら? なぁに、これ」
「あっ!」
後ろから聞こえた声に、リューティアははっとなって振り返る。
シャーウラの手には、黒曜石のペンダントが揺れていた。
そのペンダントは、この屋敷に代々伝わってきたものだった。
所々細かい傷もあり、デザインも古い。安物のペンダントにしか見えないものだが、幼い頃、母がこのペンダントを見せながら、リューティアが嫁ぐ時、このペンダントを持っていくのよと話してくれたものだった。
思わず声を上げてしまったリューティアに、シャーウラは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにニタリと意地の悪い笑みを浮かべる。
リューティアははっと息を飲んだ。
「なぁに? 伯爵家の奥様ともあろう人が、こんな安物の石を大事にしてたの?」
シャーウラがペンダントの鎖を指に引っ掛け、ヒュンっとペンダントを回す。
リューティアは心配で胃がキリキリと締め付けられた。
「そうよ、安物よ。だから、それは良いでしょう? 返して!」
「安物なら要らないわ」
シャーウラは見せつける様にペンダントを指で回しながら、窓の方へと歩み寄った。
リューティアは慌ててシャーウラに駆け寄ってペンダントへと手を伸ばす。
「やめてやめて、お願い返して!」
「そんなに欲しかったら自分で拾って来るのね」
あと少しで手が届く。そう思った時、シャーウラがあざ笑う声と共に思いっきり窓の外へとペンダントを投げた。
リューティアが窓に縋りつくと、ペンダントは弧を描き、庭園の方へと落ちていく。手を伸ばしても、届くはずなど無かった。
「ああ…」
ペンダントを目で追ったリューティアの背に、シャーウラの嘲笑が降りかかる。リューティアはシャーウラを押しのけて、部屋から飛び出した。
酷い。やめてと言ったのに。安物だと馬鹿にした癖に。なぜ、こんな酷いことをするの。
探さないと。取り戻さないと。悔しくて悲しくて、涙が溢れだして止まらない。廊下の角を曲がったところで、誰かに思いっきりぶつかってしまった。
「こんなところで何をしている!」
野太い男の声に、リューティアはビクっと肩を強張らせた。先ほど使用人達を追い払っていたアーグウストだった。使用人達の姿は見えない。
乱暴に髪を鷲掴みにされ、リューティアは悲鳴を上げる。
「この屋敷は俺のものだと言っただろう! 俺の家の中を勝手にうろうろするんじゃない!」
「待って、お願い、ペンダントが──」
「口答えをするな!」
バシっと音がして、一瞬目の前に火花が散った。あっと思った時には床に叩きつけられ、続いて頬がジンジンと熱を持ってくる。
──殴られた? あまりの事に呆然としていると、乱暴に腕を掴れ無理やり起こされる。
「この小娘を屋根裏にでも閉じ込めておけ! 鍵は掛けておけよ!」
「──畏まりました。旦那様」
──だれ? 初めて聞く声だった。
頬を押さえ、見上げた視線の向こうに居た男が、深く下げていた顔を上げる。黒いスーツを着こなした、黒髪黒眼のゾクリとするほど美しい男だった。
***
男に腕を引かれ、リューティアが連れて行かれたのは、この屋敷の屋根裏だった。
使われる事の無かった屋根裏は埃っぽく、木箱が2つ置かれているだけで、がらんとしている。
男に背を押され、おずおずと屋根裏の中に入ったリューティアは不安げに振り返り、視線を上げた。
男の視線と目が合う。これから殺されると言われても不思議では無いほど、表情の無い冷たい目だった。
「あの…。あなたは…?」
「執事です。部屋からお出になりませんように」
執事はそれだけ言うと直ぐに踵を返し、扉を閉めた。直ぐにガチャリと音がして、リューティアははっと扉を振り返る。
扉を開けようとノブを回すが、ガチャガチャと音がするばかり。
「なぜ鍵を掛けるの!? 嫌よ、ここから出して!」
必死に扉を叩いたが、返答はない。代わりに窓の外から自分を呼ぶ声が聞こえた。口々に聞こえる声は、この屋敷の使用人達の声だった。皆、悲痛な声だった。
リューティアは慌てて窓へと駆け寄った。
屋敷の外では、今まで仕えてくれていた使用人達が、手に手に荷物を持ち、リューティアの方を見上げていた。
「お嬢様…!」「リティお嬢様ぁっ!」
「皆…! ルーカス! マーリ…!」
身を乗り出したリューティアに、使用人達は深く頭を下げた。
皆、泣いていた。
──行っちゃうの?
リューティアの心は絶望感に埋めつくされて行く。
屋敷を奪われ、母の形見を切り裂かれ、大事なペンダントは投げ捨てられ、屋根裏部屋へと追いやられ。その上、ずっと仕えてくれた使用人まで奪うのか。
いや。いやよ。お願い。皆、行かないで。私を一人にしないで。
リューティアの目からも、涙が次々と溢れだし、頬を伝って零れ落ちていく。
何かを言いたいのに、喉が詰まって声が出ない。
使用人達は、顔を上げると、振り返り、振り返り、支え合う様にして屋敷の外へと出て行った。
姿が見えなくなるまで見送って、リューティアはそのまま床へと崩れ落ちた。
ひとりぼっちになってしまった。
もう、私の味方は一人もいない。
どうしたらいいのか、もう何も、判らない──。
リューティアはもう、声を上げる余力も無く、放心状態で、ただ、泣くことしか出来なかった。
ブックマーク有難うございます!!嬉しいですー!