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10.鋼の緋熊。

 馬の嘶きにもう駄目だと思った。きっと連れ戻されてしまうのだろうと。カイを巻き込んだことを後悔した。

 が、追手との乱戦が始まれば、勝敗はあっけない程あっさりと付いてしまい、リューティアは困惑する。

 未だ地べたに転がって、呻いているのはアーグウストと彼が雇ったと思われる追手だった。


 「"鋼の緋熊"を相手にする時は軍隊でも引っ張って来んだな。相手になってやんぜ」


 ドヤ顔で挑発的に笑うカイを、リューティアは半ばあきれる様に眺めていた。


「──ま…待て!"鋼の緋熊"だと?! 貴様私を誰だと思っている!」


 腹を押さえながら、真っ青な顔で体を起こしたアーグウストが吼えた。

 その目は怒りに歪んでいる。


「あァ? 知らねぇなぁ」


 カイはリューティアを腕に抱いたままその冷たい銀色の瞳をアーグウストへと向けた。


「わっ…私はルフサタリ現当主だぞ!? ルフサタリに忠誠を誓った"熊"が当主にこんな真似をして済むと──」

「──勘違いしてんじゃねぇぞオッサン」


 ──ボソリ。


 地の底から響く様な低い声と、一瞬でこの場の空気を塗り変えたその気配に、リューティアもゾッとなって息を飲んだ。

 アーグウストへと向けたその目も表情も、つい先ほどまで自分に向けていた目と全く違う。別人の様だった。


 アーグウストもまた、自分を見下ろすその銀色の眼に、本能的に悟ってしまう。貴族も平民も関係ない。

 それは弱肉強食のヒエラルキーの頂点に立つ者を前にしたかの様な圧倒的な威圧感と殺気。


 ──殺される。


 否応なく食われる側だと思い知らされるその本能的な感覚に、ヒュっとアーグウストが息を飲む。

 恐怖で体がガタガタと震えた。今すぐこの場から逃げ出したいのに、射すくめられて身動き一つ出来ない。

 自然と呼吸が荒くなった。


「…"鋼の緋熊"が貴族如きに尻尾振るとでも思ってんのか? 忠誠を誓ったのはルフタサリじゃねぇ。てめェがどこの何様だろうが知ったこっちゃねんだよ。コイツに手ェ出す気なら、今直ぐこの場でてめェの手足引き千切ってやっても良いんだぜ?」


 ヒっと悲鳴を上げ、ズリズリとへたり込んだまま後ずさり、それ以上言葉が紡げないアーグウストを一瞥すると、カイはバサリと砂色のマントを翻し、無防備にアーグウストの前を悠々と横切り歩き出した。その腕に、リューティアを我が物顔で抱え上げて。

 男が去っていくのを、ガタガタと震えながら、アーグウストは成す術なく見送る事しか出来なかった。


***


 柔らかい草の上に下ろされて、リューティアはそのままへたりと座り込んだ。

 ずいっと顔の前に革の水袋が差しだされる。喉がカラカラだ。

 リューティアは水袋を受け取ると、ごくごくと喉を鳴らし、水を一気に喉の奥に流し込む。


 ぷは、と一息付くと、顔を上げた。

 至近距離から、にーっと懐っこい笑みを向けられて、リューティアは慌てて目を逸らす。

 つい先ほどまでは必死過ぎて脳内の隅に追いやられていた羞恥がじわじわとせり上がってきていた。

 見ず知らず、では無かったが、リューティアは、痩せても枯れても伯爵令嬢なのだ。

 まともに人と話す事さえ何年も無かったというのに、幼馴染とはいえ若い男に抱え上げられたり、至近距離から覗きこまれたり、恥ずかしくて逃げ出したくなる。

 誤魔化す様にちらちらと視線を送りながら、リューティアは口を開いた。


「あの…。カイは何であんな場所に? 夜明け前だったのに」

「ああ、長い事旅に出てたんだよ。久しぶりにこっちの方に来たから、親父さんに挨拶をと思ったんだがな」


 カイの声が寂し気にぽつりと落ちる。


「街で聞いたよ。親父さん、亡くなったんだってな」

「…うん。六年前に」

「お前の姿を何年も見ないって街の連中から聞いてよ。気になったんだ」


 リューティアは驚いて目を丸くした。


「私を心配して? 様子を見に来てくれたの?」

「ああ。あんなところで会うとは思って無かったけどな。 ──アイツを見りゃ、お前がどんな目に遭って来たのか大体想像は付く。悪ィ。お前が酷ェ目に遭ってたのに、来るのが遅くなっちまった」


 優しい言葉に、リューティアは涙が出そうになる。けれど、アーグウストの言っていた様に、"鋼の緋熊"は、ルフタサリに忠誠を誓っていた筈だ。

 幼い頃、細身で穏やかな父に、屈強な大男達が跪く姿を、何度も見た。


「カイのせいじゃ、ないわ。それより、あの人に歯向かったりして大丈夫なの?」

「あん? 何が」

「だって…。カイはルフタサリに忠誠を誓っていないって言ったけど、"鋼の緋熊"はルフタサリの守護獣って言われているんでしょう?」

「結構誤解されてるっぽいんだけどな」


 にこり、と笑った顔は、リューティアの知るカイの顔だった。穏やかで、優しい顔。大きな手が、頭に伸びて、リューティアの髪をくしゃりと撫でた。


「俺達が忠誠を誓ってんのはルフタサリじゃねぇ。お前の親父、エルンストとその妻イングリッド、それから──」


 ふわり、とその目が優しく細められる。


「──それから、あの二人の娘のお前に、忠誠を誓ってんだ」


***


 テラァスカルフ──"鋼の緋熊"は、元々この地方に古くから住み付いていた蛮族だった。

 赤銅色の肌に銀の瞳が特徴の彼らは、その圧倒的な武力でこの地を支配していた。

 カッサ・テラスタ山脈の麓に拠点を置き、ここハルヴォニー王国と隣国ナーリスヴェーラの国境に位置し、二つの大国に挟まれているにも関わらず難攻不落とされて来た部族だった。

 それと言うのも彼ら"鋼の緋熊"は、粗野で粗暴、残虐非道でたった一人で一個隊を殲滅させると言われている他に類を見ない戦闘民族なのだ。


 彼らの統べるその土地はカッサ・テラスタ山脈から湧き出す水に恵まれた肥沃な土地で、良質な鋼が多く取れる。

 それを狙い、過去何度もこのハルヴォニー王国も隣国ナーリスヴェーラも兵を差し向けたが、鋼の緋熊を落とす事は出来なかった。


 その"鋼の緋熊"を手なずけたのが、この地に領土を与えられたエルンスト=ルフタサリだった。

 今から二十年前、この地が大規模な水害に見舞われた際、今こそ"鋼の緋熊"に攻め入るべきと主張する王家と貴族達を押しとどめ、彼らに救助の手を差し伸べたのが、リューティアの父、エルンストだった。

 妻、イングリッドもまた貴族の娘でありながら、自ら率先し被害に遭った者達への食事を提供し、エルンストは私財をなげうち、彼らの救助に当たった。


 武で攻め入れば敵を殲滅するまで止まらないと言われた"鋼の緋熊"は、見返りを一切求めず、彼らの為に必死に行動をしたエルンストに胸を打たれ、エルンスト=ルフタサリという一人の男に対し、頭を垂れて忠誠を誓ったのだ。

 彼の護るこの土地守る守護獣となろう。その誓いのもと、"鋼の緋熊"は"国境守護獣団"を名乗り、隣国との交戦の際は先陣を切り、敵を退けて来た。


 エルンストもまた、彼らを信頼し、頻繁に訪れては交流を深めて来た。いわばルフタサリと"鋼の緋熊"は戦友なのだ。


 そんな"鋼の緋熊"の拠点へと、リューティアが両親に連れられ出向いたのは、リューティアがまだ七歳の時だった。

 屈強な男たちに驚いて泣きだしてしまったリューティアを優しくなだめ、面倒を見てくれたのが当時十二歳のカイだった。


 他の子達が岩場を駆け抜ける中、カイだけは誰に命じられるでもなくリューティアの傍に居た。

 明るく快活で良く笑う、優しいカイにリューティアもすぐに懐き、兄の様に慕った。カイの事が、大好きだった。

 滞在中はどこに行くにもカイの後を付いていった。いつも、カイが守ってくれた。

 眠れない時、眠るまで傍に居てくれたのも、遊び疲れて動けなくなった時、ずっと背負ってくれたのも、皆カイだった。

 岩から落ちかけた時も、カイは自分の身を挺してリューティアを抱き止めて、背を血で赤く染めたカイに驚き泣きじゃくるリューティアの髪を優しく撫でてくれた。

「こんなの何でもない。リティの事は、俺が守ってやるから安心しろ」と。


 あの日と同じ様に撫でられて、へにゃりと眉を下げ泣き笑いの様な顔をしたリューティアに、何か勘違いをしたのか、カイはニっと笑ってもう一度リューティアの髪をぽんぽんと撫でる。

 幼い頃、そのままに。


「お前に害を成す者は、ルフタサリであっても敵だ。お前の事は俺が守ってやるよ。何があっても、だ」


 だから、心配をするな。


 ああ、カイだ。 見た目は全然違ってしまったけれど。ちょっと育ちすぎてて驚いたけれど。見た目はちょっと怖いけれど。口調も凄く乱暴になったけど。

 優しい所は、そのままだ。


 あの日と同じ、カイの言葉に、リューティアはほっと力を抜いて、長い緊張から解き放たれた。


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