01.虐げられた伯爵令嬢は、奴隷商人に売られるらしい。
階段を上がって来る靴音に、スカートをたくしあげ、今まさに脱走しようと窓枠に足を掛けていたリューティアは、ピタっと動きを止め、息を殺して耳を澄ました。
──こんな時間に? 此処に来るのかしら。
いつもであれば、早朝侍女が運んでくる食事の後は、夜までこの部屋に誰かがやってくる事など無い。気のせいかとも思ったが、確かに階段を上がる靴音が聞こえて来る。
──抜け出していたのがバレたのかしら。
リューティアの心臓がバクバクと音を立てた。そろ~っと窓枠に掛けていた足を引っ込める。
やがて靴音が扉の前で止まり、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえると、リューティアは慌てて音を立てない様に足を下ろし、スカートの裾をぽふぽふと叩いて整え、憂いを帯びた視線を窓の外へと移した。勿論芝居である。
直ぐにコンコンコンと扉を叩くノックの音が響く。
幽閉しておいてノックも無いものだわ。心の中で毒づきながら、虐げられた令嬢らしくリューティアはつとめて儚げな声で答えた。
「…どうぞ」
リューティアの返事の一拍後、ギィ、と軋んだ音を立て、扉が開く。
「リューティア様。旦那様がお呼びです」
視線を向けたその先に居た声の主は、仕立ての良いスーツを着こなした艶のある黒髪と陰りのある漆黒の瞳の二十代半ばの若い男。この屋敷の執事だった。
息を呑む程の美貌だが、その表情は人形の様に表情が無く、淡、とした声は氷の様に冷たくて、感情らしい色は窺えない。
冷たい視線と目が合って、リューティアは目を逸らす様に視線を床へと落とした。
「…わかりました」
諦めを含んだような声で返事を返すと、リューティアはゆっくりと執事に促されるままに、幽閉されていた屋根裏部屋の外へ出た。
***
案内をされた客間に居たのは、この屋敷の現当主アーグウストと、見慣れない、でっぷりと肥え太った商人らしい小柄な男だった。
「この娘ですか」
「そうだ。正真正銘、先代当主、エルンスト=ルフタサリ伯爵の娘だぞ」
一体何が始まるのだろう。リューティアは小さく眉根を下げると、怯えた様に身体を強張らせた。
小太りの男は値踏みをする様な目でリューティアへと歩み寄ると、ぐるりとリューティアの周りを爪先から頭の先まで嘗め回す様に眺めながら、ゆっくりと一周する。
男の手が、スカートの裾を膝近くまで持ち上げ足元を覗きこんだり、リューティアの細い腕を取り、袖をまくってみたり、髪を手に取ったりと触れて来る。
気持ちの悪さに喉元まで悲鳴が上がったが、リューティアは必死にそれを飲みこんだ。
抵抗を見せれば、待っているのは殴る蹴るの折檻だ。抵抗したところで更に酷い目に遭うだけなのだから、ひたすら耐える方がまだ被害は少なくて済む。
小太りの男は値踏みが済んだのか、リューティアの髪を一房掴んだまま、アーグウストへと振り返った。
「腕も足もまるで枝の様ですな。いくら何でもこれは貧相ですなぁ。手入れはされておらんのですかな? 平民の方がまだマシな身体をしておりますよ。肌艶も悪ければ顔立ちもパっとしない。ああ、これはいけませんな。額に傷跡があるじゃないですか。それに顔色も悪く目の下には隈、そばかすまである。とても美しいとは言えませんなぁ。それにこの手足。随分と痣があるようで。到底貴族のご令嬢には見えませんねぇ」
「いや、ボロを纏っていても間違いなく私の姪だ。ほれ、この髪の色、瞳の色、先代の伯爵に瓜二つだろう? なぁに、痣は数日もすれば消える、ほんの少しぶつけただけだ。額の傷など髪で隠れて見えはしまい? それに、今は貧相な娘だがこれの母親は大層美しかった!」
「あてになりませんな」
小太りの男はやれやれと言う様に肩を竦め、リューティアの髪から手を解いた。
言われた内容や、くそみそ言われて腹が立つよりも、手を解かれた安堵の方が上回り、リューティアはほっと息を付く。
──ああ、気持ちが悪かった。
が、これはどうやら本当に値踏みをされていたらしい。嫌な予感しかしない。リューティアはこっそりとアーグウストへ視線を向けた。
アーグウストはリューティアには目もくれず、商人にソファを進めると座って商談を始めている。
「精々この程度が相場かと」
「なんだと?! いくら何でもこれは安すぎる!」
「そうは言われましてもなぁ」
「あれはまだ十六歳で生娘だ!」
「うぅむ…。まぁ、その辺を考慮してもこの程度が限度かと」
「待て待て待て、今日は急だったから準備が整わなかっただけだ。そう、三日後くらいにもう一度来るがいい。その時は令嬢らしく着飾らせよう。良いか? よく考えてくれ。貴族の、それも伯爵家の令嬢など早々手に入るものじゃないんだぞ? せめて宝石やドレスの代金も入れてこのくらいは貰わんと」
──つまり、これは私を奴隷商人にでも売る算段らしい。それも生娘って。いががわしさ満載ではないか。
それに随分と言いたい放題言われている気がする。
貧相な上に綺麗じゃなくて悪かったわね。誰のせいでこうなったと思っているの。
そもそも六年も狭い屋根裏部屋に閉じ込められて、一日にお湯でふやかしたオートミール一杯しか与えられずに、健康的にぴっちぴちしてたらそっちの方が驚きよ。
華麗に放置を決め込まれたリューティアは、悲壮感漂う表情を浮かべたまま、心の中で存分に毒ブレスをぶちまける。
思うくらいは自由だろう。バレさえしなければ。
つまるところ、どこかの貴族の屋敷に嫁がせて寄生虫の様に搾れるだけ搾り取る算段だったが、結局貰い手が見つからず、奴隷商に売り渡すという最終手段に出たという事らしい。
そんなに政略結婚でお金を取りたいのであれば、自分の娘を嫁がせる方がよほど生産的だと思うのだが、なぜかアーグウストは自分の娘そっちのけで兄の娘であったリューティアを嫁がせるのに躍起になっていた。
だが、そもそも無茶な話なのだ。
下位貴族ならまだしも、アーグウストが婚約の申し入れを送った相手はどれも皆名だたる名家ばかり。
デビュタントにも顔を出さない、一切の貴族の交流を断った見た目も貧相な小娘を、上位貴族が妻に迎えるわけがない。
しかも、リューティアの身体には、度重なる暴力で至る所に傷や火傷や痣があり、言うなれば『傷物』なのだ。
蝶よ花よと育てられていた六年前ならともかく、今のリューティアは平民以下の生活を強いられている。
肌は荒れ放題で栄養不足でやせ細り、ボロを纏った姿は、下手をすれば貧しい農村の娘よりもよほど貧しげな風貌だ。
上位は無謀だとしても、せめて貴族に嫁がせようと思うのなら、もう少し丁重に扱えば良いものを、アーグウストには、そのつもりが一切ないらしい。
それでなくても、リューティアの両親の死後、このルフタサリ伯爵家は、亡き父の弟を名乗るアーグウストに屋敷を乗っ取っられてからというもの、彼とその妻、更に娘の散財によって、今や没落寸前にまで追い込まれている。
以前は王家に嫁いだ者もいたという、由緒正しい名家として名を馳せたルフタサリ家も、今や名誉も信頼も地に落ち、名ばかりの貧乏貴族になり果てた。
そんな何のメリットも無い貧乏伯爵家からの政略結婚の申し入れを、一体誰が好き好んで受けると言うのか。
それでも今まで逃げ出さずに屋敷に留まっていたのは、ひとえに父と母の残したこの屋敷を取り戻し、屋敷を追われたかつての使用人を取り返し、領民を救わねばという使命感からだったが、流石にこれはもう無理だ。
──詰んだわ。
すっかり蚊帳の外で、喧々囂々と値引き合戦を繰り広げる二人の話を、リューティアはどこか他人事の様に聞いていた。
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