その声は・・・
その声は女性だった。
彼女はショックだったのか転倒したまま動けなくなってしまった。転倒したときに、手にしていたブックケースが投げ出され、それは、あろうことか僕の死体の腹の上あたりに落ちた。
そのまま数分。部屋の中は静寂だった。
しかし、彼女は、起上がった。別人のようにしっかり立ち上がり、僕の死体に歩み寄った。そしてブックケースをわしづかみにして取り上げた。
彼女は激怒していた。
死体を踏みつけた。狂ったように何度も何度も、靴(歩いても音のしないスニーカー)が汚れるのも構わず、憎しみをこめて、何度も踏みつけた。
死んだ僕は、泣いているような存在になった。
彼女、誰だろう?
死体の僕になら、わかったかもしれない。それは、ヘルパーかと思ったら違った。
なんだい、まったくもう・・・
それは僕の妻だった。
確か、いまわのきわに、妻がそばに来て泣いたのではないかと僕は思っていた。僕が死んで涙が落とされたと幻想した。それをニヒルな気分で迎えた。ああ、なんていうバカな男。死ぬまぎわにも、何か期待したり、カッコつけちゃったりして・・・
死んだ僕は、また「僕」になってしまう。そして今度こそ、泣いてしまう。
いいよ、泣いたって。もう死んだんだから、強がる必要もないよ、ぼく。泣きたいだけ泣きなさい。いいってば・・・僕はバカだ、バカもんだ、僕かあ、ぶわかもんだ。私はアホ、私はアホ、私はアホ、私はアホウ鳥のかもめ・・・
しかしこれは、どういう妻だったのだろう?
僕の死体を、ぐにゃぐにゃになるまで踏みつけて、肩で息をし、それでも踏みつけて、死体からは臭い液体が流れ出た。床に広がって、リビングのそこいらじゅうが腐ってゆく。
死んだ僕は何も見ず、何も聞かないでいたかった。しかし、縁側の僕は、逃れることができなかった。僕は腐った死体と共にいて、決して、動けない。そういうものらしかった。
・・・・・
時間が流れた。
流れ流れて、幾星霜?・・・そんなに流れたかな?流れたかもしれない。
死体は着ていた服もろとも、腐りに腐って、見たこともない薄汚い皮の袋、そこから漏れ出す臭い液体、それと、ところどころ出っぱる骨、というものに変わっていった。死んだ僕はそれといつまでもいっしょにいた。時間が流れる・・・
泥棒の妻以来、その部屋を訪れる者はいなかった。朝がきて昼がきて夜がきての繰り返しが延々と続いたが、人は誰も来なかった。
ずっと誰もやってこない、静かな僕の縁側だった。
時間は流れる。僕はある日急に、思い出す・・・・・星空のこと。それは十四歳のときに見た星空のことだった
。
都会育ちの僕は、星空といえば、光害にやられた黒い空に、まばらな星があるだけの空しか知らなかった。
十四歳のとき、田舎の大きな湖のほとりへキャンプにいったときに、僕は初めて、本当の星空を見上げた。
・・・つづく