世の中には、こんなにいいものがあったのですね
死体の顔が僕を見た。その表情は一瞬しか見えなかった。そして脳裏に焼きついた。死体は一瞬振り返っただけで、また、顔を前に向けてしまった。そしてまたスタートした。ずんずん、ずんずん、歩きはじめた。
死んだ僕は、はっ、とした。
死体の背中は急速に遠のいた。みるみるうちに、小さくなった。
いや、死体の彼が急に遠くへいってしまったのではない。死んだ僕が、一気に空高く吹き飛ばされたのだ、僕は死体にぶっとばされた。
はるか上空から、僕は街を歩く死体の後姿を鳥瞰した。
ミュージカルの序曲(サウンドオブミュージックの、オープニングみたいな奴)の演奏が、さわやかにみずみずしく開始されたのを聞いた。いったん上空の遠くへいってしまった僕は、遠巻きに旋回しながら、また死体の背中との距離をせばめてゆく。だんだんに、降下し近よってゆく。音楽が耳にはっきり聞えてくる。死体の背中が目にしみる。
そして、死体は背中で僕に語る。
「あ、木だ!」
「え?」死んだ僕は驚いて聞き返す「木?」
「そうだ木だ。あれは確か、植物の一種ですね」
確かに、死体の歩く道すがらには、街路樹が植わっていて、日差しを浴びて葉っぱがキラキラ光っている。死んだ僕は、おそるおそる尋ねる、
「そりゃあ、木は植物でしょうけど」
だから何?そういおうとしたが、死んだ僕にも、久方ぶりに見る樹木は、樹木ではない新しい何かに見えた。死体は続けた。
「世の中には、こんなにいいものがあったのね」
「・・・・」
かえす言葉もなかった。死んだ僕は死体とともに、木々を見た。まったく、かえす言葉もなかった。死んだ僕は、死体のいった通り、それが「こんなにいいもの」に見えたからだ。
そして、死体は、全く関係ないことをいった。
「だめだよ、ぼく。そんなオトナ子供でいちゃあ。だめだよ」
急にいわれて、死んだ僕は、だだっ子のようにいいかえす。
「何が。どうして、だめなの。僕は辛かったよ」
死体は、後姿で、また肩をそびやかす、
「よくあることさ。まあ、しっかりしろよ」
その後姿は、確かにオトナ子供ではなく、オトナで男に見えた。アレ?こいつ、この死体は、僕なのじゃなかったっけ?
僕は、死体の背中に見入った。
僕はそこに、あの星空を見つけた。
・・・つづく




