07話 筆石文香の球体理論
山の中腹の開けた場所に出て、バンはようやくフルブレーキをかけて停止した。
アイドル状態で落ち着くエンジン。筆石先輩はふぅ、と息を吐く。
「――ハル、記録は?」
筆石がやり切った、とでも言いたげな口調でハルに問う。
『二分十二秒九。残念ながら河合さまの記録には三秒一四届いていません』
ハルはやれやれと言った感じで――それは筆石に宛てたのか綾乃に宛てたのかは定かではないが――少しわざとらしく残念そうに言ったのだった。
「あーっ! もうっ! あと何処を縮めりゃいいのよ!?」
筆石が悔しそうに、それでもかなり楽しそうに叫ぶ。
私はまだ、ドッドッドッと爆発しそうなほど心臓がドキドキする。息も上がったまま。
「筆石先輩……帰りは私、歩いて下ります……」
シートベルトを外していち早くバンから這い出る。足に力が入らない。もうやだこんな職場。
後席のスライドドアを開け、アイを下ろす。
「アイちゃんも災難だったね……」
「とても興味深い学習ができて有意義でした!」
振り回されて乱れ髪のアイは、子供のように満足げな様子だった。
……もう、筆石先輩と河合課長の運転する車には絶対乗らない。
「着いたわ。ここがダイバーの要とも言える、ダイブ装置の設置場所よ。装置のあるシェルターは地下にあるから見えないけどね」
運転席の筆石がエンジンを止めながら言った。
筆石は車から降りる。広がっていたのは山の中腹の一部にぽっかりと開いた、分厚いコンクリートで作られた大きなかまぼこ型の穴と、それを塞ぐ頑丈そうなシャッター。筆石はその横の扉に向かって歩き出した。綾乃とアイも続く。
まるで倉庫のような、大人の作った秘密基地のような、重厚でメカメカしい雰囲気。
山の反対側は、手前には田畑、少し遠くには市街地が見える。いい景色。
シェルターのシャッターは、大型車が二台並んで出入りできるほどの大きなものと、その脇にある人の出入り用の小さな扉の二つが左横に並んでいた。筆石は扉に近づくと、扉のカードキーにカードを通す。そしてカードリーダーの横のコンソールにパスワードを入力していく。扉のロックが外れる音。
中に入ると通路が続いていた。その先には闇が広がっている。
「ハル。照明を着けて」
『使用する装置並びに周辺通路のみの点灯を行います。宜しいですか?』
「それで構わないわ」
ハルのマニピュレーターが伸び、照明のスイッチ群を押していく。通路がスイッチに素早く反応した高天井用LED灯の光で満ちていき、いま自分が明灰白色のコンクリートの上に立っていることが明らかになっていく。外から見た大きなシャッターの裏側には、コンクリートの地面の上に白い直線を二本引き、その中央に長い破線をあつらえ、やはり大型車が二台並んで走れるようになっていた。自分たちが今立っている足元も、歩行者用の通路であることを示すのだろう、車道と仕切る白線と、平行に走るもう一本の白線の間を歩道としていた。
通路とはいうものの、かまぼこ型の空間の一部に白線を描いて道としているだけに過ぎず、通路として使われていない空間には、何かの資材がぽつぽつと置かれていた。
無駄に幅の広い通路だと綾乃は思った。
「トンネルって掘るのすごくお金かかるって聞いたことあるけど……」
綾乃の口から独り言がこぼれる。
二十五メートルのプールを横に置けそうなそうでないような、そんな幅のある地下空間の大半が、使われていない空き空間。線を引かれた車道も幅広なのだが、今自分が歩いている歩道の幅を合わせても、掘られたトンネルの幅の半分も使っていないのだ。それが悪いわけではないが、豪邸を一軒建てられそうな面積が使われないのは、なんとも勿体ないというか、歯がゆい気持ちにさせられる。
筆石と綾乃とアイは左端の歩道の上を歩く。五十メートル程歩いた所で、もう一度、車道を遮る大型のシャッターと左脇の小さな扉に当たった。筆石は扉の横にあるコンソールにパスワードを入力し、扉のロックを解除する作業を始めた。ボタンの電子音が静かなトンネル内で響く。
ロックされた扉の横の壁に、人の名前が書かれた金属製の名入りのネームプレートが、たくさん差し込まれていることに気づいた。長年差し込まれたままらしい、砂埃を被った名前が多くある。ここの施設の工事に携わった人のものなのかな、と綾乃は考える。
それにしては、新しいネームプレートもあることに違和感があった。この名前のリストがなんなのか、それを示すタイトルさえもない。
筆石先輩はそのプレートを気にかけることなく、暗証キーを入力している。
気にかけるものでもないのだろうか。引っかかりは感じるが、今邪魔して聞くまでのことでもないような気がした。
ドアのロックが外れる音。筆石はその頑丈そうな、防火扉の様なドアを少し力強く押した。蝶番が小さく音を立てた。
そして、目の前にシェルター内部の光景が広がった。
高い天井にぶら下がった青白いLED灯からまぶされる光。照らされたのは先ほどの通路よりも、二回りも大きな横に長い空間。
そのコンクリートの地面の中央を、大型シャッター越しの通路から伸びる二車線のペイントが一直線に奥まで貫く。その先には閉じられた両開き式の大型のスライドドア。まだこの先にも何かあるらしい。
その通路に向かって突き出すように伸びる、銀白色の鉄骨でできた二階通路が、車道を挟み奥に続く形で左右に三対、計六つ。その先端には、それぞれ同じデザインのプレハブ小屋が据え付けられている。綾乃が研修ビデオで見た、ダイブルーム制御室だ。
そして最も目を引くのが、二階通路を挟んで制御室と一対一の関係で存在する、ひときわ大きなダイブ装置だ。
暗いシェルターの中で浮かび上がる様に照らされたそれは、四階建ての高さに相当する巨大な球体をしており、表面にはサッカーボールの様な模様がうっすら走っている。球体の周囲には整備用の足場が備え付けられており、球体の表面をくまなくチェックできるようになっていた。整備用の足場は二階通路と直結していて、二階の構造物を上から見れば、検索アイコンに多用されるような古典的なハンディルーペにそっくりの形状をしている。ちょうどレンズに当たる部分に球形のダイブ装置が嵌まっている形だ。
「あそこに向かうわ。付いて来て」
「はい」
私は答えつつ、中ではバンに乗る前の「チェックが終わればお昼ごはん♪」とウキウキしていた自分に喝を入れていた。ここの装備点検だって、結局私をからかって面白がるための餌に過ぎないのだと思うと、踊らされていた自分が悔しい。筆石先輩のお昼のお誘いも、結局からかわれて終わりな気がする。筆石先輩とはそういう人なのだ。
「ハル、接続コマンドを実行して。ダイブ装置番号B-05」
『了解』
一番奥、左側の装置の前まで来ると筆石は球体が転がらないよう支えている支柱の一つに近づき、パネルを開いた。中には接続用の端子とコンソールが入っている。ハルのマニピュレーターが伸び、端子と接続した。
『無線リンクの接続に成功しました』
ハルのマニピュレーターが端子から外れる。同時にハルのマニュピュレーターがぼんやりと薄青く発光する。薄暗い中で光るとまるでクラゲみたい。綾乃はそんな感想を抱いた。
「よし。ハル、チェックリストの準備は出来てる?」
『問題有りません、フミカ』
ハルのマニピュレーターの縁が様々な色のパターンに変化していく。
「じゃあ始めるわ。目視での機器のチェックも行うから、付いて来て綾乃さん」
「はい」
筆石はダイブ装置の外周にそって歩き出す。ダイブ装置の外周を点検していく。今いる箇所によって、心なしかハルの発光パターンが変化している様だった。
「そういえば綾乃さん、ダイブ装置の基礎理論について学んだことは?」
筆石がふと立ち止まり、装置をチェックしながら尋ねる。
「あ、その、研修で熱心に説明は受けたんですけど、私よく分からなくて……バカですみません……」
「いいわよ別に。絶対に知っておくべきことでもないし、そもそも結構ややこしいからね」
わかりやすく説明する方法は無いかな、と筆石は持ってる物を見る。
「これが良さそうね」
筆石は持っていたクリップボードからルーズリーフを二枚抜き取る。紙に『この世界』『物語の世界』と書き込み、クリップボードは足元に置いた。二枚を両手にもってひらひらと振る。
「こっちがこの世界、こっちが物語の世界。普通は別々に存在してて、交わることは無いんだけど……」
彼女は二枚を重ねてボールペンで貫いた。二枚の紙は穴の所でくっついた。
「こうしてやると、二つの世界が交わる」
そう言って筆石はボールペンを引き抜いて紙をクリップボードに挟むと、ダイブ装置の外殻を軽くコンコンと叩いた。
「穴――つまりブラック『ホール』で、世界が繋がるって訳。この装置は、狙った場所に『ホール』を開ける装置って事よ。さっきの例で言うと、この装置がボールペンね」
「うーん……ブラックホールってなんでも吸い込んじゃうんですよね。ブラックホールがあったら近くの人は吸い込まれちゃいそうですけど……」
「そう、確かにブラックホールが『そのまま』だったらあっという間に吸い込まれて中にたどり着く前にそうめんになってるわ。比喩ではなく、文字通りの意味で、ね」
そう言って筆石はクリップボードを脇に抱えてそばを啜るジェスチャーをする。
二人がそのまま外周を歩いて行くと、外殻につながる巨大な装置が外殻の影から見えてくる。
「だからブラックホールを『穏やか』にして、なおかつ行き止まりの落とし穴ではなく、何処かへつながる『橋』にするのが、このA/R空間橋発生装置、そしてQE-type事象処理装置なの」
筆石が少々興奮した感じで話す。専門分野であったがゆえに、彼女はこういう話をするのが大好きであった。
途中まではものすごく分かりやすかったのに、変なスイッチを押しちゃったみたいで、最後の装置の説明が良くわからなかった。
暗黒微笑を浮かべる筆石さんのマッドサイエンティスト感を肌で感じると同時に、スイッチを押したのが自分だと綾乃は自覚する。筆石さんにこの職は天職なのだとよく分かる。
『フミカ、少し落ち着きなさい。いつもの癖が出ています』
ハルから延びたマニピュレーターが筆石の頭を小突く。
「あはは……いけないいけない、我ながら少し興奮しちゃったぜ」
彼女は苦笑いをしながら言った。一旦浅く深呼吸をする。血が上っていて興奮気味だった脳から血が降りていく感覚。よし、落ち着いた。こんなもんでしょ。
ハルの発光パターンが再び変化する。
『専門分野の事を語り出すと話が止まらなくなる。昔から変わりませんね。A/R空間橋発生装置、QE-type事象処理装置、HU現実固定装置のチェック、完了しました。オールグリーン』
「了解、次は中の説明ね、付いて来て」
筆石が歩き出す。綾乃とアイもそれに続いて行く。とりあえず、ブラックホールを装置でどうにか制御してダイブさせていることは分かった。
二階通路への階段を登り切った綾乃の目に、妙な物が映った。階段を出た所の右側には制御室と思われるモニターが並んだ部屋があったが、その脇、看板の様な物に細長い板状のものを差し込めるようになっていた。あれは何なのだろう。筆石に尋ねようとするも彼女は先に歩いて行ってしまっていたので、綾乃は質問を飲み込んで筆石の後を追ったのだった。
「さて、見える? あれがダイブ装置の内部へ入る為の入り口よ」
「近くで見るとやっぱりというかなんというか、ガスタンクのミニチュアみたいですね」
「用途は違えど、構造の性質は同じ『容器』だからね、似たような形にはなるわ」
綾乃が装置全体の外観を見ながら言うと、彼女はそう言いながら、器用に一本のマニピュレーターで球を形作って見せた。
筆石はハッチの正面まで来るとハッチの脇のコンソールの蓋を開けた。
「ハル」
『了解』
ハルのマニピュレーターが伸び、コンソールの横のコネクタに差し込まれる。コネクタの部分で横に折れ、そこにホログラムで様々な情報が表示される。沈黙。表示の上を情報が流れていく。
「えっと……」
綾乃は、出入り口になるハッチの手前にある階段と、使っていない指示棒のように短く折りたたまれた橋を見ていた。
このハッチを開けると、そこから大きな隙間の向こうに、もう一つ球状の物体に据え付けられたハッチがある。ダイブ装置を水平に切ってみれば、外殻内殻でちょうど二重丸になっている形だ。
外から内側のハッチを取り扱うとき、そのままでは間にある隙間が大きすぎて転落する可能性が高い。一度転落すると、溝は深く自力では登ることは困難で、外からの救助がなければ、まず助からない。
人が落ちたことに気づかずダイブ装置を動かそうものなら、外殻と内殻の隙間に生成されるブラックホールに巻き込まれることになる。それは死亡事故というにはあまりにも残酷な結末になることは想像に難くない。
そこで転落防止用の橋を伸張し、ハッチの外側から差し込んで使うのだ。
ここの取り扱いは机上ながらも研修で覚えた綾乃。実際の装置を目の前にして、その取り扱いの手順を頭の中で復習していた。
十五秒程か、沈黙を保っていたハルが言った。
『圧力容器内環境確認完了。状態はシャットダウン中。容器内環境、気圧、酸素濃度、電荷、有毒ガス、放射線量、全て正常値。容器侵入口の開放が可能です。パスコードを入力してください』
ホログラムに赤い『LOCKED』の文字。
「はいはーい、っと」
筆石が片手でコンソールに十三ケタのパスワードを入力した。再びハルが沈黙する。表示が変わり、黄色い『AUTHORIZING...』の表示。今度は短く、五秒ほどで表示が変わった。『AUTH』に表示が変わった後、小さな電子音と共に青い『UNLOCKED』の表示に切り替わり、文字の四方に浮かんでいた線が離れる様にフェードアウトした。同時にハッチから重い、何かの空気が抜ける様な音がし、何かが滑り、何かに静かにぶつかるような低い金属音が静かに響いた。
「さて、開いたみたいね」
ハルのマニピュレーターがコネクタから外れる。するとマニピュレーターが筆石の四肢に巻き付き始めた。不規則ではなく、規則的に巻き付いて行く。先端が人差し指と足裏に絡みついた所で、マニピュレーターが終わった。
「ちょっと下がってて」
「え、あっはい」
アイと少しばかりの会話をしていた綾乃は、彼女の言葉に慌てて二、三歩下がる。
目の前で広がるSFのような展開。ハルが見せつけるAIとしての汎用性の高さをアイに期待して、「あんなことアイにもできる?」と問うた綾乃。ニコニコしながら首を横に振り「だって私は年長者ですから!」と答えるアイに、年長者は後輩よりできること多いのが普通じゃないのと、綾乃が心の中で突っ込んだ矢先の筆石の指示だった。
綾乃が下がったのを確認すると、筆石はハッチのレバーに手をかけ、回す。何かが外れる音。そして彼女はハッチの取っ手に手をかけ、引いた。
響く、重いコンテナが持ち上がった時の様な音と振動。ハッチはすこしそのまま手前に動いた後、ゆっくりと小さな振動と共に左に開いて行く。ハッチの厚さは三十センチ程はあろうかという程で、鈍く光る金属がその重厚感をさらに強調する。
ハッチを開けると、そこから五十センチほどの隙間の奥に、もう一つハッチが見えた。
筆石はステップを登ってすぐの手すりに取り付けられていた箱を開け、中から有線式のリモコンを引っ張り出した。プラスチックのカバーを開け、赤い『出』のスイッチを押した。するとモーター音と共に足場が伸び、もう一つのハッチの下に触れて止まって橋となった。彼女はリモコンを箱に戻すともう一つのハッチ――内殻のハッチに向かう。
筆石はレバーを動かしてロックを解除すると、そちらの取っ手にも手をかける。少し奥に動いてから、ハッチは左に開いて行った。内側のハッチは手前と同じく、三十センチ近い厚さがあった。
「さぁ、入るわよ。段差があるから注意して」
マニピュレーターがほどけながら筆石が言った。